72話 越境者の悪夢
男は目を覚ました。
冷たい床の感触に身体が一瞬身震いする。
手を伸ばそうと右手を動かすが、意志に反して手は鉛のように動かない。
左手も同様だった。
唯一動かせる頭をひねり、己の両手足に視線を向ける。
両手足は何かに縛られ拘束されている。
が、自分の脚である筈のそれは見た事のない形状だった。
俺はきっとまだ悪い夢を見ているのだ……
男は再び目を瞑った。
しばらくして、男は再び目を開けた。
幾分室内が明るくなっている。
俺は部屋の中にいるのだろうか? 意識がひどく混濁しているのが分かる……
頭が割れる様に痛い……
身体をまるめるようにして男は三度、目を閉じた。
身体に熱を感じ、意識が覚醒していくのが分かった。
「おおっ目が覚めたようじゃの?」
見知らぬ女の声に、男は反射的に壁際へ飛んだ。
「まだそんな力があるのかえ?」
見知らぬ女の声は明らかに落胆していた。
男は声にならない声を発した。
「声も忘れてしもうたか……酷いことしよるの」
やおら見知らぬ女は、手に持っていた杖のような物を男に向けた。
風も吹いていない室内に竜巻が起る。
男は壁に張り付いていることが出来ず弾き飛ばされた。
男が床に落ちて横向きの状態になると、見知らぬ女は近寄って手にしていた容器を男の口に押し当てた。
反射的に男が口を開けば、お構いなしに容器に入った液体を流し込んだ。
苦い液体なのか男は酷くむせている。
それでも見知らぬ女は、おかまいなしに口の中に液体を流し込み続けた。
「これが少しでも効けば、お前さんの連れにも与えてやれるぞ」
「これを飲み干し目を覚ましたら、なぁに回復しているじゃろ」
見知らぬ女の声に、男の心の内に安堵にも似た感情が湧き上がる。
俺達の住んでいた村は、これといって特徴のない平凡な村だった。
観光名所のような物もないおかげか、余所者は滅多に来ない。
村人以外がいれば間違いなく目立つような場所だった。
流行病などは大体余所者が持ち込むとあって、余所者に対する意識は過剰なまでに神経質だ。
そんな村で急に豹変する者が増え始め、最後には決まって病に倒れる。
人づてに聞けば、皆黒い斑点がどこかしらに出ていたそうだ。
失踪者も増え始めていたが、村の異変に領主はいつもの通り見て見ぬ振りだった。
俺たちは有志を募りビエナ国から隣国へ向かっていた。
流行り病はいづれ隣国にも知れ渡る。
国内の中枢に頼むよりも、距離的に近い隣国へ助けを求めた方が早いと判断した。
国境付近にたどり着いたことは覚えている。
入国審査には二、三日かかると言われ、俺達は救護院と呼ばれる建物に集められた。
仲間達に異変が起き始めたのは、そのあと直ぐの事だった。
俺の親友が見たこともない化け物に変わって……騎士に飛び掛かっていた。
俺は怖くなり、何処かの部屋に隠れようと片っ端からドアノブを回した。
ようやく開いた部屋に入ると、毛布を頭から被り半ベソになりながらガタガタ震えていた。
やがて泣きつかれて寝入ってしまい、極限状態でも人は眠い時は眠れる生き物だと自嘲していた。
次の朝。気が付くと俺の他に数人同じ部屋にいる事が分かった。
皆一応に息を殺してお互いを窺っている。
確かに言えることは、目に映るのは人ではない何か。
ただ、不思議と嫌悪感は感じない。妙な親近感だけは感じていた。
「ズドンガタガタッ」
何か天井から漆喰がはがれ落ちたような音がし始めた。俺はそれに無性に腹が立っていた。
部屋には気が付くと紫色の煙が漂い始める……
吸い込むと身体の底から力が湧き上がり高揚感に包まれる。
俺はこの怒りをぶつける的を探して部屋を出て……出会い頭に会った人間に飛び掛かっていた。
気づいた瞬間。俺の他に数人吹っ飛んだのを覚えている。
俺がおぼろげながら覚えているのはそれだけだ。
誰かこの苦痛から解放してくれ……
およそ人の発する声には聞こえない声で俺は叫んでいた。




