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ステージの上にはいつものとおりあのピアノがあった。
ピアノ椅子が置かれ、屋根と鍵盤蓋は開いている。椅子には黒いワンピースを纏った女性が座っていた。
「由依さん」
加瀬谷が歩み寄りながら声をかける。すると女性──由依がはっと立ち上がった。
ゆっくりと加瀬谷に振り向く。
「お久しぶりです」
「加瀬谷!」
舞台から飛び降り、抱きついてくる由依に加瀬谷はおっと戸惑いの声を上げた。
「加瀬谷、加瀬谷、加瀬谷!」
「ゆ、由依さん」
転んでしまうかと思ったが、由依の体は触れられるのに重みは一切感じられなかった。
ああ、この人は本当に幽霊なんだ。
その事実がなんだか胸に染みた。
「加瀬谷、よかった、生きてた」
「ふふ、勝手に殺さないでくださいよ」
けれど由依が知らないのも仕方ない。彼女はこのコンサートホールからほとんど離れられない。情報源がないだろう。
半泣きの由依の頭を優しく撫でながら、加瀬谷は言葉を次いだ。
「でも、どうにか生きてますよ。"死なない調律師"ですから」
「人は、死んじゃうのよ!」
由依は手を加瀬谷の胸に打ち付けた。けれどそれが痛みをもたらすことはなく、柔らかいものがさわりと触れるだけだった。
「人は、簡単に死んじゃうのよ」
由依はもう一度呟いた。唇が声を出さずに"私みたいに"と象る。
加瀬谷は遠くに視線をそらした。
「そうですね。……叶李さんたちも、亡くなりました」
「えっ……」
「自ら家に火を放ったそうです」
由依に目を戻すとばっちりと目が合った。
由依はもうぼろぼろに泣き濡れていた。呆然と、真っ直ぐ、加瀬谷を見つめる。
しばらく見つめ合って。やがて由依は涙を拭い、首をふるふると振った。
「これで、よかったんだわ、きっと。あきさんや他の人たちが罪が暴かれるのを恐れながら、加瀬谷のような人を増やしていくのに比べたら。だから、ありがとう」
由依は微笑んだ。
「あきさんを、私を、助けてくれて、ありがとう」
「……由依さん?」
由依の台詞に何か加瀬谷は嫌な予感を覚える。由依の言うことは正しい。このコンサートホールでこれ以上の犠牲を出すことなく幕引きができたのなら、それ以上のことはない。
いや、そういうことではない。自分が今感じているのは……
「由依さん? 僕の目がおかしくなったんでしょうか。なんだか由依さんの姿がぼやけて」
「加瀬谷」
ゆらゆらと陽炎のように揺らめく由依の姿。けれど加瀬谷の名を呼んだ顔ははっきりと笑っているように見えた。
「加瀬谷に出会えてよかった。加瀬谷が気づいてくれてよかった。このホールの全部が終わって、よかった」
「由依さん、由依さん!」
霞んでいく彼女の姿に今度は加瀬谷が彼女の名を連呼する。
「そうだ、由依さん、またピアノを弾いてくださいよ。僕、まだ貴女の弾く"月光"を最後まで聴いていないんです。こないだ、途中から意識を失ってしまったみたいで」
「嘘だわ。貴方はちゃんと私に感想言ってくれたもの。嬉しかった」
「僕、単音じゃ音感がないんです。知ってるでしょう? 由依さんがいつも指摘してくれて助かったんです。もう少し手伝ってください」
「貴方には私よりすごい音感があるじゃない。きっと大丈夫よ」
「今度このピアノ、移動するんですよ。新しくできる展覧室に。ここには新しいピアノが来て……由依さんはここの中なら動けるんですよね? それなら他の色々なピアノも試し弾きしてみましょう。僕が調律しますから」
「それも楽しそう」
「だったら」
必死に言葉を紡ぐ加瀬谷の口元に由依は人差し指を当てた。といってももう形はなく、ただ冷たい空気が触れたような感覚しかない。
笑顔すらもうぼんやりとしか見えず、はっきりとしているのは、由依の涼やかな声だけ。
「三十年間、誰も気づいてくれなくて寂しかった。でも貴方が私に気づいてくれて、ピアノを弾かせてくれた。私の一番の願いを叶えてくれた」
もう輪郭すら残っていない彼女は最期に一言置いていった。
「加瀬谷、ありがとう」




