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第23話 雪の港町の誓い

第23話 雪の港町の誓い


 雪が降っていた。


 港町の夜は冷たい。


 海から吹きつける風は刃物のようで、頬を刺し、指先の感覚を奪っていく。


 ミレーユは両腕を抱きながら石畳の坂道を上っていた。


 薄汚れた灰色の外套。


 擦り切れた革靴。


 かつて王宮で身に着けていた絹のドレスとは比べるまでもない。


 それでも今の彼女にとっては大切な持ち物だった。


 吐く息が白い。


 鼻の奥がつんと痛む。


 空腹だった。


 今日の夕食は黒パン半分だけ。


 それでも働いていない人間に贅沢を言う資格はない。


 安アパートの扉を開ける。


 ぎい、と嫌な音がした。


 部屋は狭かった。


 六畳ほどの空間。


 小さなベッド。


 ぐらつく机。


 椅子が一脚。


 暖炉はあるが薪がない。


 吐く息が室内でも白かった。


「寒っ……」


 ミレーユは思わず呟く。


 返事をする人はいない。


 当然だった。


 王宮には侍女がいた。


 護衛もいた。


 召使いたちもいた。


 今は誰もいない。


 一人だった。


 彼女はベッドへ腰を下ろした。


 藁の感触が尻に伝わる。


 硬い。


 冷たい。


 涙が出そうになる。


 だが泣かなかった。


 泣いても暖かくはならない。


 お腹も膨れない。


 ミレーユは机の引き出しから黒パンを取り出した。


 昼に買った残りだ。


 石のように固くなっている。


 少しだけ水に浸す。


 それから齧った。


 ぼそぼそした食感。


 小麦の匂い。


 塩気もほとんどない。


 それでも空腹にはありがたかった。


「ごちそう……さま」


 誰に言うでもなく呟く。


 そして窓の外を見た。


 雪が降り続いている。


 港の灯りが遠くに揺れていた。


 今日のことを思い出す。


 市場での再会。


 レオンハルト。


 かつての国王。


 そして自分。


 かつての側妃。


 今は二人とも何者でもない。


 泥だらけの人間だった。


 ミレーユは苦笑する。


「あんな再会がある?」


 王と側妃。


 物語なら豪華な宮殿で再会するはずだ。


 なのに現実は違った。


 港町の市場。


 安物の服。


 疲れた顔。


 そして。


 レオンハルトの言葉。


 ――お前もな。


 その一言が頭から離れない。


 馬鹿だった。


 何も知らなかった。


 自分も。


 彼も。


 王宮にいた頃は。


 エレノアが当然のように仕事をしていた。


 帳簿。


 契約。


 交渉。


 予算。


 全部。


 ミレーユは見ようともしなかった。


「書類仕事のおばさん業務」


 本気でそう思っていた。


 今なら分かる。


 自分は何も知らなかった。


 知らないくせに見下していた。


 ミレーユは顔を覆った。


 恥ずかしかった。


 情けなかった。


 でも。


 不思議なことに。


 今日はそれだけでは終わらなかった。


 レオンハルトも同じだった。


 彼も泥だらけだった。


 彼も働いていた。


 彼も失敗していた。


 彼も生きようとしていた。


 それを見た。


 だから少しだけ救われた。


「私だけじゃないんだ」


 呟く。


 静かな部屋。


 雪の音だけが聞こえる。


 ふと昔を思い出した。


 男爵家の娘だった頃。


 裕福ではなかった。


 社交界の隅っこで笑われていた。


 ドレスは古い。


 宝石は安物。


 誰も相手にしてくれなかった。


 それでも。


 ミレーユは諦めなかった。


 誰より笑った。


 誰より話しかけた。


 誰より観察した。


 誰が権力を持っているのか。


 誰が何を望んでいるのか。


 誰にどう接すればいいのか。


 必死だった。


 死に物狂いだった。


 だから側妃になれた。


 それは運だけではない。


 努力もあった。


 泥臭い努力が。


 ミレーユはゆっくり立ち上がった。


 小さな鏡の前へ行く。


 そこには疲れた女が映っていた。


 目の下に隈。


 荒れた肌。


 痩せた頬。


 だが。


 よく見る。


 本当に何も残っていないのだろうか。


 違う。


 まだ生きている。


 まだ歩ける。


 まだ考えられる。


 まだ笑える。


 なら。


 終わっていない。


「そうよ」


 ミレーユは鏡に向かって言った。


「私は男爵家から這い上がったじゃない」


 声が震える。


 だが続けた。


「誰も助けてくれなかった」


「だから自分で登った」


 目に涙が滲む。


「だったら」


 拳を握る。


「この街でも生きられる」


 王宮での努力ができた。


 あの地獄を耐えた。


 なら。


 今もできる。


 今度は誰かを蹴落とすためじゃない。


 見栄のためでもない。


 贅沢のためでもない。


 生きるためだ。


 本当に生きるためだ。


 胸の奥で何かが灯る。


 小さな火だった。


 王宮にいた頃の野心とは違う。


 もっと静かで。


 もっと温かい火。


 覚悟だった。


 ミレーユは机に向かう。


 紙切れを取り出す。


 そして書いた。


『明日やること』


 一、仕事を探す。


 一、面接を受ける。


 一、諦めない。


 字は少し歪んでいた。


 それでも構わない。


 最初の一歩だった。


 窓の外では雪が降り続いている。


 寒い夜だった。


 貧しい夜だった。


 だが。


 ミレーユは生まれて初めて、自分の人生を自分の足で歩こうとしていた。


 誰かの愛人としてではない。


 誰かの飾りとしてでもない。


 ミレーユという一人の人間として。


 彼女は小さな紙を机に置いた。


 そして布団へ潜り込む。


 藁の匂い。


 冷たい空気。


 遠くで鳴る船の汽笛。


 目を閉じる。


 明日は何も変わらないかもしれない。


 面接に落ちるかもしれない。


 また失敗するかもしれない。


 それでもいい。


 立ち上がる。


 何度でも。


 そう決めた。


 雪の港町の夜。


 凍えるような寒さの中で。


 ミレーユの本当の人生が、静かに始まろうとしていた。



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