表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天使の温室  作者: 佐々良えお
1/5

序幕

天使が、躊躇いなく人の顔を殴っていた。



ルーカス・エーヴァルトは勲功により一代限りの爵位を得るエーヴァルト家、その長男として生を受けた。八歳より、貴族の子女に義務付けられる通り貴族学校に通い、一年のほとんどを寄宿舎で過ごしている。

各家の事情はよく汲まれ、通学の生徒も存在するが、全く家から出したくなければ家庭教師をつけるだけの財力をもつ身分として、寄宿舎には入れないが貴族学校には通わせる中途半端さは否めなかった。紐帯はやはり、寄宿舎で育まれるからだ。

その少ない通学組から、途中で寄宿舎に入るというのはさらに珍しかった。通学であった理由が『虚弱体質』らしいので、成長し、体が丈夫になったから寄宿生活にも耐えうるだろうという判断らしい。

ミシェル・アルノー。ルーカスと同い年、アルノー家の秘蔵っ子。よく練られた金の絹糸を流したかのような美しい髪、深窓の令嬢よりも透き通る白い肌、晴天をそっくり移した青い瞳。通学の頃から、誰となく『天使』と囁かれてきた彼がなんと、入寮するらしい! ニュースは瞬く間に駆け巡り、男女性別関係なく、あらゆる学年の生徒が色めきだった。そのあまりに麗しい容姿のため、彼はすでに有名だったのである。


同室の栄誉に浴することとなったのは、以前より家同士の付き合いがあるというブリックナー家の次男だった。ただ、ミシェルがこれまで誰かと親しく話しているところを目撃した生徒はおらず、授業中に限らず休憩時間にも彼は無口で通していたので、ブリックナーもそう多く話したことがあるわけではなかっただろう。それでも、彼は学校中で噂される『天使』と同室になれることを誇っており、早くも小さな反発を生んでいた。


果たして、ミシェル・アルノーは入寮した。だが、何かと世話を焼こうとするブリックナーを振り切り、やはり、一人で行動していた。全学年が会する食堂に現れたとき、あの騒々しい空間が俄かに静まり返ったことは、彼のその容姿と共に語り継がれるだろう。そのときまで誰も、ミシェルが昼食をどうしていたのか知らなかったのである。煩わしそうにわずかに目を細めた彼は、テーブルに盛られたリンゴやオレンジを手に取ると、席につかずに立ち去ってしまった。

ルーカスはそういう、ミシェルの一挙一動にいちいちざわめく大衆を眺め、いつも通り昼食をとり、授業に出て、放課後は鍛錬に勤しんでいた。彼がいようがいまいが、ルーカスの日々に何ら変わりはなかったのである。そのときまでは。

ルーカスはだから、ミシェルがその日どう過ごしてきたかを知らない。昼食にいた、いなかった、などは時折耳に届くものの、気に留められずに忘却されていた。

昼食前の一番空腹を覚える授業が終わりになって、食堂へ向かうクラスメイトたちをよそに、その日、ルーカスは一度寮に戻らなくてはいけなかった。午後の騎士訓練の授業で使う剣を自室に取りに行ったのだ。剣を持ち、ついでに午前分の教科書などは置いて食堂へ急ぐルーカスの耳に、人の話し声がかすかに届く。何気なく目を向ければ、倉庫の陰に上級生数人と、あの美しい金髪が見えて、何か感想を抱く間もなく、天使は大きく拳を振りかぶっていた。


「触んなっ! 気色わりい!」


ルーカスは手のものを全てその場に置いて走った。ミシェルが、ぶちのめした上級生以外にも振りかぶろうとしていたからだ。

走りながら、天使の纏うシャツが理想的に捻られる体に沿ってシワになるのを見ていた。体の動きを邪魔しない、仕立ての良いシャツ。

だが、その二撃目は届かなかった。ルーカスがミシェルの背後から羽交い締めにしたからだ。


「ミシェル・アルノー! 落ち着け! 何してるんだ!」

「っくそ! 離せ! 僕に触るな!」


暴れるミシェルの体は、騎士専攻でないにも拘らず、バネのような筋肉で覆われている。しゃにむにもがく同輩の拳が眉間に当たり、一瞬怯んだ隙を逃さず、彼は拘束から抜け出した。


「お前も仲間かよ!」


繰り出される拳は鋭い。だが、気を衒った打ち筋ではなかった。バチン、と前腕で弾いたルーカスは、途端、真っ青になったミシェルを目撃する。


「……くそっ! 卑怯なくせして!」


続いた二発も難なく受け止めると、鮮やかな青い瞳が歪む。それ以上何も言わず、突然彼は踵を返し、寮へと走り去っていった。

ルーカスは呆然と見送り、ハッと気づいたときには上級生たちもゾロゾロと校舎に戻ろうとする後ろ姿だけがあった。割って入ったのが適切であったかどうかわからないまま、ルーカスは放った自分の荷物を拾い上げ、食堂へ急ぐ。

随分粗暴だ。だが、皆が天使と称したくなる意味はわかった。青空に靡く金髪の残像は、瞼の裏に焼きついて消えそうになかった。

よろしければ、評価、コメントなど残していただけますと、励みになります!

匿名フォームはウェブサイト欄ご参照くださいませ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ