三十三 あの時の男の子
フィラスと踊り終えたあとも、マルヴィナは数人の男性と踊ることになった。だが、どの男性と手を繋いでも、フィラスと踊った時のような気分の高揚は訪れない。
踊るたびに疲労だけが積み重なっていって、ドゥーガルドやユリーズと話し込んでいたクレメントに許可を取り、マルヴィナは一人、壁際で休むことにした。
本当はバルコニーで休みたかったけれど、外の寒さを考えれば、とてもじゃないがドレス姿で出ていくことはできない。
「お嬢さま、喉が渇いたでしょう。お飲み物をどうぞ」
いつの間にか、ドレス姿のラティーシャが隣に立ち、ジュースの入ったグラスを差し出してくれた。
「ありがとう、ラティーシャ」
マルヴィナがグラスに口をつけ、ジュースを味わっていると、セオンがラティーシャの前に進み出た。
「ラティーシャ、わたしと踊ってくれないか」
ラティーシャは普段の冷静さはどこへやら、アクアマリン色の目を大きく見開いた。
「え!? ですが、わたくしはダンスを習ったことがないので、他の方を……」
「大丈夫だよ。わたしが上手くリードして、踊り方を教えるから」
(おお、意外な組み合わせ)
マルヴィナはちょっとびっくりしたものの、尻込みするラティーシャに笑いかけた。ドゥーガルドに憧れるあまり、他の男性からの誘いを受けないのはもったいない。
「踊ってきなさいよ、ラティーシャ。きっと、セオンならダンスも上手よ」
「ですが……」
ラティーシャは、なおも、もごもごと言っていたが、結局、差し出されたセオンの手に、ためらいがちに自身の手を乗せた。二人は踊る人々の列に加わる。
「……ほう、兄は彼女を誘いましたか」
ついさっき聞いたばかりの声のほうに目をやると、フィラスがこちらに向けて歩いてくるところだった。急に鼓動が高鳴り出し、マルヴィナは焦った。
「え、ええ。ちょっと意外よね」
「そうですか? わたしは意外だとは思いませんでしたが」
「どうして?」
「兄はよく、ラティーシャの作るお菓子を褒めておりましたから」
セオンは十代の少年らしく、食には貪欲なようだから、ラティーシャの作る数々のお菓子に魅了されてしまったのかもしれない。
ラティーシャとドゥーガルドの仲を応援しているマルヴィナとしては複雑なところだが、こればかりは当人同士の問題だ。なりゆきを見守るしかない。もちろん、この先、ラティーシャが悩むようなら、しっかり相談に乗ろう。
(それはともかく……)
マルヴィナは、ちらりとフィラスを見やった。どうしよう。さっきから、彼を目にするだけで、胸がドキドキするし、落ち着かない気分になる。それをフィラスに悟られないようにしなければ、と考えると、身体まで強張ってしまう。
(変に思われていないかな……)
一方、フィラスも口を引き結び、踊るセオンとラティーシャを見つめている。
とても気まずいけれど、フィラスにはどこかへいって欲しくないし、他の誰とも踊って欲しくない。相反する感情をマルヴィナが持て余していると、フィラスがこちらに顔を向けた。
「……殿下、ずっと、伺おうと思っていたのですが」
マルヴィナは顔を上げた。
「な、何?」
「昔――子どもの頃に、わたしと会ったことがありませんか?」
「え?」
「もう、だいぶ前のことなので、お忘れかもしれませんが、わたしは覚えていましたよ。時々、うちに遊びにいらっしゃっていたコーア伯に、あなたのような姪御がおいでだったことに、とても驚いた記憶があります」
(――じゃあ、あの男の子は、フィラスだったんだ!)
どうしよう。嬉しい。
何か言わなければ。頭の中を、無数の言葉が駆け巡る。マルヴィナは半ば必死で声を絞り出した。
「それって、戴冠式でのこと?」
フィラスの表情が明るくなった。
「そうです。覚えておいででしたか」
「ええ。もちろん、覚えているわ。でも、再会した時に、あなたとセオンのどちらが、わたしに親切にしてくれた子か分からなくて――ずっと言い出せなくてごめんなさい」
ようやく言えた。にもかかわらず、恥ずかしさでマルヴィナの頬は熱を帯びた。
マルヴィナは今まで、忘れられていたらどうしようと思うあまり、フィラスに七年前のことを聞き出せなかった。
だが、フィラスは軽やかに、その壁を超えて見せたのだ。不安だったのは、多分、彼も同じなのに。
フィラスには勇気があるのだ。自分にはない勇気が。
「そのようなことは、お気になさらないで下さい。覚えていて下さっただけでも、こちらは嬉しいのですから」
フィラスに「嬉しい」と言われ、マルヴィナの心臓はトクンと跳ねた。どうしよう、フィラスと目を合わせていられない。
でも、自分も勇気を出すのだ。もし、彼と再会したら、ずっと言おうと思っていた言葉を言わなければ。
「……あの時は、親切にしてくれてありがとう」
いや、違う。これも言いたかったことのひとつだけれど、もっと他に言いたいことが……。
「いいえ。わたしは周りの大人に、腹が立っただけですから」
フィラスが踊る男女を眺めながら言った。マルヴィナは、思わず彼を見上げる。
「腹が立った?」
「ええ。あなたが泣いているのに、大人たちは誰も助けようとしなかった。――そのことに、腹が立ったのです。殿下が誰の子孫であろうと、あなたには関係がないのに。だって、あなたは何もなさっていないでしょう?」
その言葉は、マルヴィナの心の深いところまで届いていき、温かい余韻を残して、いつまでも響いた。今まで自分が抱いてきた劣等感や重荷から、解き放たれたような感覚だった。
「……ありがとう、フィラス」
フィラスと目を合わせて言ったあとで、マルヴィナは次の言葉を考えた。このままいつまでも、彼と話していたかった。
「あの時、フィラスはどうして、王宮にいたの?」
「国王陛下がお喜びになるからと、両親がわたしと兄を同行させたのです。もちろん、わたしたちはまだ子どもだったので、正式に招待されてはいませんでしたから、陛下に一言祝辞を申し上げて、屋敷に帰る予定でした。その前に、兄と二手に分かれて、久し振りの王宮を探検していたのです」
「フィラスたちも、探検していたのね!」
彼もあの時の自分と同じことをしていたのだと思うと、マルヴィナは嬉しくなった。
「はい。わたしは迷子にはなりませんでしたが」
珍しい。フィラスが冗談を言っている。
「でも、どうしてわたしに何も言わずにいなくなってしまったの? その頃から、叔父と知り合いだったのでしょう」
「ああ、それは……」
フィラスは少し言い淀み、気まずそうに答えた。
「その、知り合いに女の子と手を繋いでいるところを、見られたくなかったもので……」
シュツェルツとは正反対の考え方だ。でも、そんなフィラスを、マルヴィナは可愛いと思った。彼の欠点や弱点も愛おしいものに思えた。
フィラスはその後も、無口な彼にしては饒舌に会話を続け、マルヴィナはパーティーが終わるまで、幸せな時間を過ごした。
*
夢のような時間はあっという間に終わり、現実に引き戻されたマルヴィナを待っていたのは、連日の公務だった。
王都に帰ってきているレオニス女公を一目見たいと押し寄せた民衆に、王宮のバルコニーから手を振って挨拶をしたり、救貧院や孤児院に慰問にいったりと、分刻みのスケジュールをユリーズによって組まれてしまったのだ。
お披露目パーティーのあと、休む間もなく、三日ほどそんな忙しい日々を過ごしたマルヴィナに、ゆっくりと休日を過ごす許可がようやくユリーズから出たのは、年末のことだった。
「うちにくるといい。そのほうがゆっくりできるだろう」
ドゥーガルドの言葉に、マルヴィナはありがたく甘えることにした。クレメントに呼び出される以前、王都に滞在する時は、いつもそうしていたのだ。
ターリスにあるレギュラス女伯としての屋敷には、必要最低限の使用人しか置いていないし、年末ということもあり、彼らには休暇を出している。王宮では、ユリーズがいる限り、くつろげない気がした。
(そういえば、フィラスは何で、ターリスに帰ってくることにしたのかな)
パーティーで訊くのを忘れていた疑問を、今更のように思い出しつつ、マルヴィナはドゥーガルドの家に遊びにいく準備を進めた。




