三十 帰省の承諾
一学期最後の日曜日。今日は友人たちとは礼拝と食事の時に話をしただけで、フィラスは部屋で一人、読書をしていた。今日中に読み終えてしまいたい本があったのだ。
それは、マルヴィナが貸してくれた本だった。フィラスは自分でも知らぬ間に、顔をほころばせた。
彼女は冒険小説が好きらしい。好きな本の話をした翌日、「わたしの愛読書なの」と本を差し出してきた時のマルヴィナの表情を、フィラスはありありと思い出せた。
早く感想を教えてあげたい。フィラスはページをめくる手を早めた。
その時、静かな部屋に、扉をノックする音が響いた。
日曜日に、わざわざ自分の部屋を訪れる者。何人かの顔が頭に浮かぶ。
今一番きて欲しくない人物を思い浮かべたあとで、フィラスは手を止めた。
「どうぞ」
「フィラス、邪魔するよ」
扉を開け、部屋に入ってきたのは、まさに、今一番会いたくない人物――兄のセオンだった。嫌な予感は当たるものである。
「何のご用でしょうか、兄上」
兄の要件が大体分かった上で、しらばっくれるようにフィラスは尋ねた。
セオンはにっこりと笑う。
「父上から手紙が届いた」
「帰って下さい」
即座にフィラスが告げると、セオンは心外だとでも言うような表情をした。
「まだ、内容も言っていないじゃないか」
「聞かなくても分かります。どうせ、俺も一緒に帰ってこいというお達しでしょう」
「その通りだ。なあ、フィラス、一緒に帰ろう。お前が一緒でないと、父上にお小言を言われる上に、冷ややかな視線のおまけがついてくるんだぞ」
「いつも冷ややかでしょうが、あの人は!」
「そんなことはない。父上にだって、機嫌のいい時はある」
「例えば?」
フィラスが問い詰めると、セオンは目を泳がせた。
ちなみに、手紙がセオン宛てに届くのは、フィラスが父に手紙を一切、送っていないからだ。日曜日の手紙を書く時間、フィラスは乳母をはじめとした使用人たちに宛てて、手紙を書いている。
それはともかく、兄が必死になる気持ちも、分からないでもない。
宰相秘書官を目指す兄にとっては、父ユリーズの命令は将来を左右する至上命題なのだ。もし、父に「使えない奴」と認定されでもしたら、秘書官どころか、官僚への道すら固く閉ざされてしまうだろう。
フィラスは、ふと妙案を思いついた。
「兄上は、いっそ、国王秘書官を目指されてはいかがです? 国王陛下なら、父上と違ってお優しいですし、頭ごなしに命令もなさいません」
セオンは渋い顔をした。
「嫌だよ。父上の下で働くのは、わたしの子どもの頃からの夢だからな。父上の政治的手腕を間近で見て勉強できるんだ。素晴らしいじゃないか。国王秘書官を目指すのは、そのあとでも遅くはない」
「そうですか。俺は別に、父上の政治的手腕が優れているとは思いませんが」
フィラスが皮肉を込めて言い放つと、セオンは眉をひそめた。
「フィラス、お前、まだ……。あの事件は、父上こそが被害者だと、何度も言っているだろう」
「一番の被害者は、母上ですよ」
フィラスは断言した。自分と兄の、父への認識は違い過ぎる。これ以上話を続けても、水掛け論になるだけだ。
セオンは仕方なさそうに、手紙を差し出した。
「お前の気持ちはよく分かった。せめて、手紙の内容を読み上げさせてくれないか」
少しやり込めすぎたかもしれない。兄が何となくかわいそうになり、フィラスは譲歩することにした。
「まあ、それくらいなら……」
「そうか。ありがとう、フィラス。じゃあ、読むぞ。
『セオンへ。
充実した学校生活を送っているようで、大変結構。
さて、さっそくだが、本題に入ろう。冬期休暇にレオニス女公殿下が王都にお帰りあそばすにあたり、王宮では、殿下のお披露目パーティーを、大々的に催すことになった。
ついては、フィラスも連れて、必ずパーティーに出席するように。間違っても風邪など引かず、屋敷に戻ってこい。
ユリーズ・アスフォデル』」
(女公殿下の、お披露目パーティー、だと?)
思わず、フィラスは反応した。表情を少し変えただけだが、生まれる前から一緒にいる兄は、その変化を目ざとく見つけたようだ。
自分と同じ顔ににこやかな笑みを浮かべながら、セオンは言った。
「楽しみだなあ、フィラス。女公殿下はきっと、大層美しい装いでお見えになるに違いない。一目、見てみたくはないか?」
「別に見てみたいとは思いませんね。俺は王宮のパーティー会場など、訪れたくもないですし」
「そうか? だが、パーティーに招かれる男は、みんな殿下に心奪われてしまうかもしれないなあ。お前はそんな大事な時に、シュツェルツ殿下と二人寂しくお茶会でもするつもりか?」
(くっ……)
兄の精神攻撃に歯噛みしそうになりながらも、フィラスは毅然とした態度を貫くことにした。
「その手には乗りませんよ。大体、女公殿下は、付き合って欲しいという誘いを、全て断っているそうではないですか」
告白した末、玉砕して、自分の何が悪かったのだろうと落ち込む生徒の相談にも、フィラスは乗ってきたのだ。
セオンは余裕ありげな表情を崩さない。
「それは、ラトーンでの話だろう。パーティーには、卒業生も、ラトーン以外の生徒も大勢出席するはずだ。もし、彼らが女公殿下のおめがねに適ったら、どうするつもりだ?」
「別に構いませんよ」と口に出そうとして、それができない自分に気づき、フィラスは舌打ちしたくなった。代わりに悔し紛れの言葉を口にする。
「仮に俺が出席したからといって、殿下が別の誰かに心惹かれない保証は、どこにもないでしょうが」
「大丈夫だ。わたしがちゃんとアドバイスをするから。大体、お前のほうが殿下と毎日顔を合わせている分、数段有利なんだぞ」
「兄上、俺は別に、殿下とどうにかなりたいと思っているわけでは……」
「自分の気持ちには、素直になったほうがいいぞ、フィラス。どうせ誰かが、将来は殿下の夫君になるんだ。それがお前で、なぜいけない?」
「全く兄上は……。年々、父上に似てきていませんか? そもそも、殿下のご意思というものがあるでしょう。それを無視して、勝手に話を進めないで下さい」
ふう、とセオンはため息をつく。
「やれやれ……我が弟は、どうにも積極性に欠けるようだ。そこまで言うのなら――そうだ! 父上に頼んで、お前の代わりにシュツェルツ殿下をパーティーにお招きしよう」
シュツェルツの名を出され、フィラスの胸はざわついたが、表面上は冷静を装った。
「馬鹿なことを。そんなことできるわけないでしょう」
「いいや、できる。国賓としてお呼びすればいいんだからな。女公殿下とシュツェルツ殿下がともに踊られる様は、さぞ見応えがあるだろうなあ」
兄が、「ああ、楽しみだ」と言い終わらないうちに、フィラスは声を荒げていた。
「分かりました。帰りますよ。帰ればいいんでしょう!」
自分でも不思議なのだが、シュツェルツがマルヴィナと踊ることを想像するだけで、胸がつかえたような気分になったのだ。
おかしい。シュツェルツがマルヴィナに好意を持っているのは、ほぼ確実だろうが、それが自分に、どんな関係があると言うのだ。
大体、マルヴィナは、分かりやすいシュツェルツの気持ちにすら、気づいていないようなのだ。それほど鈍感な彼女が、ともに踊ったからといって、シュツェルツになびくとも思えない。
不可思議な気持ちの正体をじっくり考える暇も与えず、セオンが嬉しそうに言った。
「前言撤回はなしだぞ、フィラス。期日までに、帰るための準備を、きちんとしておけよ」
用はすんだとばかりに、セオンは部屋を出ていく。自分と違う外見的特徴は、つむじの位置と身長だけという双子の兄の後ろ姿を、フィラスは忌々しい気持ちで見つめたのだった。




