社会見学?
やあ(´・ω・`)
ようこそ、「きみこえ」へ。
このシャーリーテンプルはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。
うん、「ほぼ1ヶ月遅れ」なんだ。済まない。
馬の耳にって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、この更新を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「尊み」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい。
そう思って、この文を書いたんだ。
じゃあ、好きなシチュエーションを聞こうか。
私が転校してから一週間も過ぎると、何とか新しい授業や生活にも慣れ、結羽を始めとしたクラスメイトたちともうまくやれるようになってきた。
最初は馴染めないんじゃないかとかそんなことを考えなかったわけではないけれど、今こうしているのはひとえに結羽のおかげかもしれない。
そんなある日のこと。あの日の一件以来、彼女のことを本質的な意味で理解しようと試みる私は、様々な手段で理解を深めようと画策していた。
いろいろと手立てを講じてみるものの、ことごとく突っぱねられて思うような成果が出ない。今日は数えて十二回目のチャレンジだ。
「ねえ結羽ちゃん」
「なあに……?」
私が問いかけると、相変わらず無自覚でやってるのか首を傾げて上目遣いで答える彼女。ちょっと動揺してしまったが、こんなのもう慣れっこだ。
気を取り直して続きを伝える。
「結羽ちゃんの家ってさ、やっぱり本がいっぱいなの?」
今日の計画は何とかして家に上げてもらおう、という算段だ。
「まあ……うん。いっぱいあるで」
「へー。どんな本があるの?」
「えっと……そうやね。ミステリーとか、ファンタジーも読むし……うん、とにかく色々、かな」
ぼかして言われてしまった。
まあいいか。次に本題へと切り込む。
「結羽ちゃん家に行ったら、いろんな本が見られるのかなあ」
「えっ……?」
「行ってみたいなあー、なんて」
「う、うぅ……」
これはチャンスと見たぞ。すかさず次の一手を打ち込みに行く。
「もっと結羽ちゃんと仲良くなりたいんだけどなー私もなー?」
ちらりと彼女の表情を窺う。動揺して目を回す仕草も可愛らしい。
しばらくの間「えっと……その……」としどろもどろになった後、「……わかった」と観念したように呟いた。
「ほんと!? ありがとー!」
喜びで跳ね上がる私を他所目に、結羽はなぜか浮かない表情をしていた。
その日の放課後、私たちは結羽の家へと向かっていた。
いつもの道を逸れて住宅街に入ると、それだけで見たこともない景色が広がっていた。
辺りを見回すだけで常に新しいものが視界に入る。こんなに楽しいことは今までなかった。
そんな街の一角に結羽の家はあった。
「あ……ここ」
二階建ての家屋が目の前にそびえている。
「お邪魔しまーす」
「あ、ちょっと待って」
「?」
廊下に上がろうとする私を結羽が引き止める。慌てたように家に上がると、そのまま部屋へ飛び込んでしまった。
「どしたの?」
「ちょ、ちょっと汚いからっ……!」
なるほどたしかにガサガサと物を動かしたりする音が聞こえる。……なんだろうか、初めて東屋に来たときも思ったけど、結構引きこもり体質なんだろうか?
十分ぐらい待つと、ようやく彼女が部屋から顔を出した。
「お……お待たせ」
彼女に招かれて中に入る。すぐさま本棚が視界に入った。
「ほえー、やっぱいっぱいあるねえ」
右端から左端、辺り一面本が積み上がっている。ざっと見る限りでもその数は数百以上であることが確認できる。これはさながら小さな図書館と言っても差し支えない。
順に見ていくと、ジャンルはミステリーだったりファンタジーだったり、たしかに色々だ。
「あ、あの、千紘ちゃん……?」
「え?」
「それ、慎重に取らんと、だめ……」
怪訝な顔の結羽にたしなめられて、ようやく自分が本棚の書物に手を掛けていたことに気付いた。
「ああごめんごめん、そうだよね」
彼女にとって本は命より大切なもの(偏見だけど)のはずなのに、何やってるんだ私は。
「しかし、ほんとにいっぱいだねー」
「パパもママも、昔から……面倒見る代わりに、本は買ってくれたから……」
「そうなの?」
たしか結羽の両親は共働きなんだっけ。
空に浮いていた視線を結羽に戻すと、その表情にはどこか陰が掛かっているように見えた。
「うちは本があるから寂しくなかったけど……よう考えたら、一緒にいた時間って、そんなにあらへんかった」
震える声が痛々しい。
「無関心なんか……あんまり、わからへん」
「……そっか」
彼女の内なる闇がまた見え隠れした。
気丈だな、と思った。寂しいのを我慢して、こうやって取り繕って。両親に心配をかけまいとする彼女の優しさ故だろうか。
あの日見せた涙を思い出すと、また彼女のことが愛おしく思えてきた。
そっと肩に手を回し、優しく抱き寄せる。
「ち、千紘……ちゃん……?」
「ん……今は、こうさせて?」
「…………」
運動も何もしていないという彼女の体躯は、壊れてしまいそうなほどに華奢で脆弱だった。
壊れてしまう前に、私が守らないと。そんな決意を、密かに胸の中で刻むのだった。
思う存分彼女の体温を味わい、ゆっくりと離れる。目の前には恥ずかしそうに顔を赤らめる結羽の姿。
柔らかい髪を撫でてやると、満更でもなさそうな表情で俯いた。なんだこの小動物ほんと可愛いなあ……。
が、あまりにも甘ったるい空気ではいけない。危うく本来の目的を忘れるところだった。
「ちょっと本見てもいい?」
「え……? あ、うん」
動揺したような素振りを見せた結羽だったが、すぐに承諾してくれた。
本棚から慎重に一冊を取り出す。それは売れっ子小説家・有島浩一の作品だった。
「あ、これ見たことある」
「ほんま? 有島先生の本……ええよね」
「あー、中身を見たわけじゃないんだけど……」
母親が編集の仕事でこの本に関わっていたらしく、その話題が出た時に私も少しだけ見たことがあるだけだ。
それを伝えると、何を感じたのか結羽は突然食い付いてきた。
「それ……ほんま……?」
「え? ま、まあ、ほんとだけど。どうしたの?」
「千紘ちゃんのママ……有島先生の編集してはったん……?」
それに応じて軽く頷く。すると、結羽は心から凄い、と思った様子で恍惚とした。
「いいなぁ……羨ましいなぁ……」
そこまで言うほどか。
まあ本の虫な結羽のことだから、何か思うところがあるのだろう。
「私はあんま知らないんだけどね……」
有島浩一。たしか若手の小説家だっけ。ライトノベル調の作風にミステリーをドッキングさせ、ミステリーの敷居を下げたと母は評していた。
「会ってみたいなぁ……ね、千紘ちゃん?」
「ね、じゃないから。いきなりそんなこと言われてもなあ」
「一生のお願いやから……!」
「使うの早くない?」
こんなところで使っちゃっていいのか。絶対後で後悔するやつだ。
「まあ、一応お願いだけはしとくけど……」
残業パレードで向こうも忙しいだろうし、結構難しいだろうなあ――。
「いいわよ」
「は?」
いいのか。
その晩、私は這い出る欠伸を噛み締めながら母の帰りを待っていた。時間にして十一時過ぎ。
課題もないのにこんな時間まで起きていることもそうそうないので、かなり体に堪えた。
それと残業の多い父は会社に置いてきたらしい。無慈悲だなあ。
「いいの?」
「ええ。なんなら今週末にでも」
そんな軽いノリでいいのか、編集者……。
「というか今週末じゃないとダメかもね」
「まあ、良いならそう伝えとくけど……。なんでオッケーするの?」
「特に。こっちの世界に興味を持ってくれる子がいるのは喜ばしいことだからね」
「はあ」
冷凍チャーハンをレンジに入れる背中が答えた。
『今週末"じゃないと"』という言葉が引っ掛かったが、ちゃんと言葉通り伝えておこう。喜ぶだろうな、結羽。
「それにしても、ちゃんとちぃにも友達ができたのねぇ。てっきりぼっちかと思ってたわ」
「んなわけないでしょ」
「えー。ずいぶん楽しそうに話すし、ちぃったらその子にぞっこん?」
飲んでいた麦茶が水飛沫に変わった。
「ちち、違うから! 相手女の子だし!」
いきなり何を言い出すんだこの人は!
「あら、そういう恋もあるのよ?」
「例外だよそういうの!」
そんな感情を抱いたことがないと言えば嘘になるけど! 認めたくはない!
「物語には常にイレギュラーがなくっちゃ」
「人の話を聞いて!」
結局、その日は『そういう恋』の言葉を散々反芻して悶々とし続けたのだった。
週末になり、ようやく結羽との社会見学(?)の日がやってきた。
目の前にそびえ立つビル。実際はそんな高さではないのに、なぜか私たちはそのシルエットにただただ圧倒されていた。
「よし、行こっか」
「う、うん」
足並みを揃えて未知の領域へと踏み込む。そこでは既に母が待ち構えていた。いいのか仕事放っておいて。
申し訳程度の決めポーズと共に彼女は言い放つ。
「ようこそ、私たちの墓場へ!」
「その言い方やめよう! 結羽ちゃんドン引きしてるから!」
身も蓋もない言い方だなあ! まったく!
「さ、ともかく。オフィスはこっちよ」
「人の話を……ちょっ、待ってよー!」
自分勝手な人だ。親の顔が見てみたい――いや、何回も見たことあるけどさ。
結羽の手を引いて奥に進む。その横顔を覗くと、戸惑いながらも嬉しそうな彼女の表情がそこにあった。
編集室の扉をくぐった私たちを待ち構えていたのは、まるでドラマで見たかのような机と人々だった。
「うわあ……」
「すごいね……」
二人合わせて感嘆の声を漏らす。隣で母がうんうんと頷いていたのが気になったが。
「私のデスクはこっち。いらっしゃい」
既に二人分用意されていた椅子に腰掛ける。
「さてと。改めまして、千紘の母・東井百花です。よろしくね」
「あ、に、西川結羽、です……よろしく、お願いします……」
「あなたのことは千紘から色々聞いてるわ。うちの不肖の娘が迷惑掛けてないかしら?」
「もー、お母さんってば」
「迷惑やなんて、そんな……!」
そこは自慢の一人娘でしょうが普通。なんでこの人が私の親なんだろう。
それに、突然の笑えないジョークに結羽もうろたえて――。
「……千紘ちゃんは、こんな私に話しかけてくれてっ、優しくて、そのっ、仲良くなってくれたんが、嬉しくて……!」
あれ? 違う?
「えっと、一緒にいてくれるんが、好きっていうか、何ていうか、その……!」
「……………………」
「あらあら」
なんで公衆の面前でそんなこと言っちゃうかな……こっちは恥ずかしすぎて死にそうなんだけど……。というかいっそ死にたい……。
何かを言い切った顔の少女と真っ赤になってデスクに突っ伏すもう一人の少女、それを微笑して眺める女性。傍目から見たらさぞ珍妙な光景だっただろう。
「結羽ちゃん……そういうことはあんまり人前で言わないでね……」
「えっ、うち、何かダメなこと言った……!?」
ダメじゃないけど……むしろ嬉しいけど……!
申し訳なさそうに慌てる結羽の前で、はっきりとダメだなんて言えるはずがなかった。
「まあまあちぃ、ありがたく受け取っておきなさいな」
「はい……」
人生で一番恥ずかしかった一瞬かもしれなかった。
「さーて、そろそろ仕事の時間かな」
腕時計に目をやって母が呟くのを聞いて、慌てて私は跳ね起きた。
「え、仕事入ってんの?」
「ええ。別に見てても構わないわよ」
「それっていいの?」
「勿論。それに……そこの結羽ちゃんは喜ぶんじゃないかしら」
そう言って彼女が結羽に目配せすると同時に、私たちと同じドアを開く音が聞こえた。
「どうもーっす」
その姿を目に収めるのと、結羽が立ち上がるのと、どっちの方が早かっただろうか。
刹那、結羽は今までに聞いたこともないような声を発した。
「有島先生!?」
「おわぁっ!?」
突然の声に私が驚くのと同様に、ドアの側の「彼」も面食らった表情をした。
間違いなく彼は、名作を世に送り出した有島浩一その人であった。
「おー、ヒロ君。元気ー?」
「ええまあ……っていうか、この子は?」
彼が指差す先には鼻息荒く興奮気味の結羽。驚きのあまりキャラクターが迷子のようだ。
「えーとね、ヒロ君のファンなんだってさ」
「ほー……そりゃ嬉しい。ファンと対面するなんて滅多にないからね」
逆にあったら困る、という突っ込みは野暮だろうか。
「その、えと、は、初めまして……! わ、わたっ……」
「結羽ちゃーん。めちゃくちゃ取り乱してるけど」
挙句の果に関西弁までどこかへ置いてきたらしい。ここまで我を忘れるのも意外だ。
「まあまあ、座って座って。ゆっくりお話でもするかい?」
「は、はい……!」
目を輝かせて答える結羽。
……なんか、複雑な気分だ。
(あら、嫉妬?)
(してないから!)
耳打ちする母に噛み付いた。
「まったく、もう……」
それにしてもだ。この状況、あまりにもできすぎているのでは。
(ねえ、もしかして今日じゃないと駄目っていうのは……)
(そういうことよ)
やっぱり図られていた。おのれ母上、策士め……。
「千紘ちゃん、サインしてもらった……!」
「そ、そっかぁ……」
嬉々として目を輝かせる結羽。楽しいのはわかるが、鼻息が荒いし顔が近い。
「いやー、それにしても東井さんがいきなり転勤って聞いたときはビックリしましたよ」
「ごめんねー。伝える暇がなかったもんでさ」
色紙を後生大事に抱えたファンとひとしきり談笑した後、彼は母にそう言った。
「おかげでこっちまで来るのに新幹線使いましたよ。あーあ、僕もこっちに住もうかなあ」
「あら、いいのよ。こっちは地価が安いからね」
「はは、前向きに検討しますよ」
「千紘ちゃん、検討するって……!」
「あー、あれ業界用語で『真面目に検討するとは言ってない』って意味だから」
彼女には申し訳ないが、これが現実だ。「そっか……」と俯いた横顔が深刻だったのが面白い。
「さてさて、そろそろ真面目に話し合いしましょっか」
「はーい」
そう言って二人は対面し、おそらく次に出るであろう新作の話を始めた。
「……で、ここの主人公の心情がこうなのよね」
「あー、まあ、はい」
「なら、ここはこっちの方がいいんじゃない?」
「なるほど……そういう見方もあるのか」
そんな二人のやり取りを結羽はしきりに書き付けている。
真剣な表情の彼女に横槍を刺すわけにもいかず、手持ち無沙汰になった私はその横顔を眺めていた。
なんというか、本当に好きなことには一途だなあ。将来作家志望なのか編集志望なのかはわからないけれど、そこには「本」あるいは「物語」に対する熱い情熱を感じられた。
二人が対談を終わらせる頃、またも編集室に客の姿があった。
「こんちわー」
振り向くより先、その声で私は確信した。
「お父さん!」
「やあ千紘、元気かい?」
手を振って微笑む眼鏡の男性。その姿を忘れたことがあっただろうか。
父は荷物を抱えてこちらへやってくると、それをさっきまで母たちが話していた机の上に置いた。
「はい、百花さん。差し入れだよ」
「わーいありがとノブくん! 好き!」
「ちょ、ここでそれは……!」
あーあ。また始まった。
仲が良いに越したことはないが、うちの両親に関しては仲が良すぎて逆に困るのだ。普通に考えて、我が子の前で堂々とイチャイチャする親がいるだろうか。
周りの人も有島先生も「またやってるよ」みたいな目で見てるし。本当に勘弁してくれ。
こんなもの、結羽には見せられないし見せたくない。そっとその目を手で覆った。
「ふえっ、や、見えへんよぉ……」
「見なくていいの……」
二人のイチャイチャが終わる頃、私の心はなぜかぐったりともたれていた。
「――さてと。ここからは僕の出番だ」
眼鏡を上げる仕草をして、東井信彦は私たちの方へ向き直った。
「まだ何か用あったっけ?」
「何を言う。折角この僕の仕事ぶりを見せてあげようというのに」
「いや、いらない」
「がーんだな……」
だってまあ、私が用があるのは編集だけだし。
「お願いだよ〜……後生だから〜」
「情けないから土下座しないで! ま、まあ……結羽ちゃん次第かな!」
「えっ、う、うち!?」
脇腹を突かれたみたいな声を上げて結羽が驚く。巻き込んでごめん、ほんとに。
「う、うちは……見ても、ええかな、って……」
「本当かい!? ありがとう結羽ちゃん、恩に着るよ……」
「そ、そんな……うちは……」
ああ、この会話グダグダすぎる……。
「話が決まったんならもうウチには用はないでしょ。さ、散った散った!」
謙遜し合いの会話を母が両断してくれた。
「手厳しいな、百花さん……」
「そりゃそーよ。大御所すら組み敷く鬼の東井と言えば私のことよ」
「ひえっ……」
「ははは……」
会話に入れず、後方でただ苦笑いするしかない有島先生の顔がやたら印象に残った。
後ろ髪引かれまくりな結羽を引きずって車に乗り込む。結局サインだけでなく連絡先まで聞き出し、それでようやく満足したようだった。
「さ、出発だ」
「そういやどこ行く予定なの?」
「伊吹書店。駅前にあるあそこに売り込みに行くつもり」
「あ……伊吹書店……県下最大のとこ……」
「そうそう。話が通るといいんだけどなあ」
「自信ないの?」
「いや、いやいや。これでもこの道十年以上なんだから、これくらいの仕事はこなさないと。……ただ、気持ちのほうがね……」
困った声で父が呟く。いつもはなよなよしてるけど、やる時はやる人なのでまあ今回もやってくれるだろう。多分。
そんな私の思考などつゆ知らず、父は「あー、緊張してきた……」なんて言いながら手で汗を拭っていた。
「千紘ちゃんのパパは……本、好きなんですか……?」
後部座席から問いかける結羽に彼は答える。
「んー……そうだね、好きだよ。好きだからこそ続いてるし、幸いにもうちのところはいい職場みたいだしね」
「ちゃんとこっちでも上手くやれてるんだ」
「まあね。……ああ、あと。むしろ好きじゃないと、この仕事はできないのかもしれないね」
「……?」
向かった先で、私たちはその言葉の意味を知ることになる。
「さ、着いたよ」
十数分後、私は大きくそびえ立つ建物の前に立っていた。
「これ……ほんとに本屋なの?」
「残念だけどそうだね。僕も初めて見るけど、すごいなこれは……」
目視でも十メートル以上はあるビルに大きく掲げられた店名。つまりはこの中に本が所狭しと並んでいるわけだ。ある意味想像を超えた、トンデモ建築物だった。
そんな『私立図書館』とでも言うべき建物を目にしているにもかかわらず、結羽のリアクションはほとんどない。むしろ現地人故か「そんなに珍しいものなのかな……?」と困惑している様子だ。
「ま、まあ。気を取り直して入るとしよう」
ガラスの自動ドアを潜り抜けて辺りを見回すと、至るところ本棚だらけ。驚きを通り越して最早呆れてきた。
私がお上りさんよろしくきょろきょろとしている間に、父は書店員の一人を捕まえて話を通していた。
間もなくして、どこからともなく恰幅のいい男性を連れてさっきの書店員が登場。言うまでもなく何かの責任者なんだろう。
やってきた男性を見るやいなや、父は肩に提げたビジネスバッグから本を一冊取り出し、男性と対面した。
「……すごいね」
結羽が独り言のように呟く。確かに彼は男性に対して物怖じすることなく本の売り込みをしている。
その表情は真剣かつ誠実。ストーリーの見どころ、世界観、その本にしかない魅力――彼から放たれるのは、本への理解がなければ到底現れないような言葉。
「――ああ、そういうことか」
「千紘ちゃん?」
誰に言うでもなく頷いた。「本が好きじゃなきゃできない」という言葉は真実だ。本が好きだからこそ、ここまで本を熱く語れる。
「……うん、そうやね。千紘ちゃんのパパ……すごい、キラキラしてる」
「ふふ、ちょっと見直しちゃったな」
「……千紘ちゃんって、パパのことどう思ってるん……?」
……強いて言えば、もやしだろうか……?
そんな『もやし』の方を見ると、ちょうど交渉が成立しようとしている頃だった。
「――わかりました。あんたがそこまで言うんなら、置いてみる価値はありそうです」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
その表情がぱっと明るくなる。例えるなら電気の通った電球のように。
真剣に職業に向き合っているからこそ、達成したときの喜びはひとしおなのだろう。
「いやー、上手く行ってよかった」
大役を果たした後にそぐわないような困った顔をして父は戻ってきた。
「千紘ちゃんのパパ……かっこよかった……です」
「そうかい? それならここに来た甲斐があったよ。ありがとう」
彼の目は活き活きとしていた。それは真に仕事を楽しむ者の目だった。
「さあ、仕事も終えたし出ようか。送っていってあげるよ」
「別にいいのに」
「いいからいいから」
言われるがままに車に乗り込む。
心地良いリズムに揺られ、結羽と隣り合わせ。
こんな時、よくできた人なら気の利いた言葉のひとつやふたつ掛けてあげられるのだろうけど、残念ながら私はそうじゃない。
「今日、どうだった?」
仕方なく無難な質問で済ますことに。
楽しかった、と言う横顔は本当に楽しそうで、引き込まれそうで。
「二人ともすごい真剣な顔してて……ほんまに本が好きなんやって思って……かっこよかった」
彼女の言う通り、父にも母にもそれぞれ仕事に対する熱意が見えて、彼らなりの生き方が体現されているように思えた。
本が好き。彼らを動かす理由は、それだけで十分だった。
「千紘ちゃんのおかげで……本のこと……もっと好きになった……」
そして、柔らかな、桃のような唇が動かされる。
「連れてきてくれて……ありがとうね、千紘ちゃん」
「…………っ!」
細く弓なりになった瞳に撃ち抜かれた。緩く上がった口角に突き刺された。
何よりも、その笑顔が嬉しかった。愛おしかった。
暖かな大地に命が芽吹き、翡翠の海が広がったかのような。そんな笑顔だった。
「……はあ、結羽ちゃんには敵わないなあ」
「え? うち、変なこと言った……?」
彼女が自分の魅力に気づくのは、まだもう少し先になりそうだ。
「じゃあ、僕は次の仕事があるから。千紘、結羽ちゃん、じゃあね」
「うん。気を付けてね」
結羽の自宅前で降車し、遠ざかるテールランプを見送った。
ありがとう、ともう一度微笑んだ彼女の頭を優しく撫でると、私も踵を返して歩き出した。
「じゃあね」
「うん」
爽やかな春の風が歩みを進める私の髪を弄んだ。
今日のことを思い返すと、自然と笑顔になってしまう。
有島先生と話しているときの笑顔、父や母を尊敬していたときの表情――どれもこれも、彼女は心から楽しんでくれていた。
(ほんとに、連れてきてよかった)
私の勝手な自己満足かもしれないけど、結羽との絆が深まったような気がした。
もっと仲良くなりたい。もっと知りたい。その感情の名を私は知っていたけれど、敢えて口にはしない。
言ってしまったら、陳腐なものになりそうだから。
「……そっか、本……本の世界、かあ」
私の中に生まれたひとつの光明。それを握り締めて、私は帰路を急ぐのだった。
文字数が増しました。
これを10回書いたら10万文字の壁が超えられるんだなあ、と思いました(小並感)
貴方の好きな百合シチュ、教えてください。教えてください(切実)
本垢→@mikan_leafeon
創作垢→@lac_bas
4/29 脱字があったので周辺と一緒に修正。