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 雪乃たちが地面に座り込んで荒い息を吐くエイベルに近寄ると、その表情は確かに『エイベル』のものとは違っていた。眼光は鋭く、もう体を動かす余力すらないはずなのに今にも飛び掛らんとでもいう形相である。

 元々、精霊は人が好きだ。特に、自分たち精霊を視ることができる目を持つ人間が好きなのである。しかし、今のこの精霊の表情には元来あるはずの明るい朗らかな表情はすっかり消え去ってしまっていた。その表情には恨みの色しか見えない。


「――お前、人間じゃない。でも、精霊でもない……」

「私は雪乃。この世界の守り神の任を与えられてるの」

「……まさか、本当に?」


 精霊は探るような視線で雪乃を見る。まさに信じられないものを見たとでもいうような瞳である。


「本当。あなたは水の精霊ね?」

「ぼくは……水の精霊のジーン……」

「ジーン。それじゃあ、今からあなたを解放する。でも、だからといってここにいる人たちを傷付けたらダメ。約束できる?」

「……分かった。約束する」

「いい子。――その者、水の精霊ジーンを留めし魔の石よ。在るべき姿に戻れ」


 恐らく渋々なのだろうが、ジーンは確かに雪乃の問いに頷いた。精霊は嘘を吐かない。というよりも、吐けないのだ。なぜなら嘘を吐けば彼らが扱う精霊としての力が失われてしまうからだ。だから、彼の肯定は信用できた。

 囁くように杖の石に語りかければ、石は一瞬だけふんわりと青白く光った。そしてエイベルの体からは力が抜け、崩れ落ちるように地面に転がる。


「――息はあるようです」

「そう。良かった」

「誰か村の人に頼んで、休ませましょう。イリス、お願いします」

「はい」


 素早くエイベルに駆け寄ったニーグは彼の呼吸を確認し、見える範囲に怪我などがないことを確認したようだ。そのまま近くに居た村人を呼んで、イリスに頼んで彼を村長の家に運ばせている。

 そんな騒ぎの中、空で嬉しそうな声を上げる手のひらほどの大きさの精霊の姿があった。


「――本当に、ぼく自由になってる……!」

「そう。あなたはもう自由だよ」

「……ぼく……ありがとう。ユキノ様」


 空を嬉しそうに飛びまわっていたジーンは雪乃の顔の前にやって来て、お礼を言いながら小さく視線を下げた。


「これに懲りたら人間にはできるだけ近付かないようにね」

「うん。そうするよ。でも、……エイベルも昔はこんなやつじゃなかったんだ。――それじゃあね」


 そう呟くジーンの声はどこか寂しそうだ。そしてそのままひらひらと飛ぶ小さな精霊の姿は、あっという間に見えなくなってしまう。

 精霊と契約して力を借りるためには、大前提としてお互いの本当の名前を知っていなければならない。そして精霊だって本当はそう簡単に名を明かしたりはしないものだ。

 少しずつ時間をかけお互いに信頼をして本当の名を明かして契約する。契約というのは本来そういうものだった。人間だって考えもなく名を明かしてしまえば、精霊に何をされても文句は言えない。精霊の力は人間にとっては小さなものではないし、精霊にとっても力を貸すことは何でもないことではないのだ。

 しかし、人は力を持つと勘違いしてしまうことがある。それが自分の力であると。彼らの間に何があったかは分からないが、その背中は晴れやかであり何となく悲しいものだった。


「ユキノ様、大丈夫?」

「リリス。ありがとう。私は大丈夫。そうだ、リリスのことも村の人にお願いしなきゃね」


 エイベルが運ばれていくのを見ていると、腰の辺りにリリスが抱きついて雪乃の顔を見上げていた。たくさんの力を使った後だったので、疲れた顔をしていたのかもしれない。

 雪乃は無理やり笑みを作って、リリスの頭を撫でながら彼女の今後に考えを巡らす。彼女は神になったばかりのひよっこで、誰かの信仰の力がなければすぐにでも消滅してしまう。祠にお参りをしてくれるお婆さんが居たので大丈夫だとは思うが、リリスのこともよく村長に言っておかなければならないだろう。そうしなければ、あっという間にここの土地の守りはなくなってしまう。


「私、ユキノ様と一緒が良い」

「私もそうしたいけど、あなたにはここをお願いしたいの。これはリリスじゃないとできないんだよ」


 雪乃が名前を付け誕生を促したので、リリスにとっては雪乃は母親か姉に近い感覚なのかもしれない。寂しげな感情を隠そうともせず、腰の回した手に力を入れて雪乃をじっと見つめている。そんなリリスを置いていくのは確かに可哀そうになるが、リリスは土地神だ。ここに留まることが一番力を発揮できるし、ここに存在していることに重要な意味があるのだ。


「……会いに来てくれる?」

「もちろん。私達の時は長くて短いもの。いつだって会いに来るよ」


 人の身ではない雪乃たちにとっては、そう大変なことではない。その気になれば千里の距離も一瞬だ。今の雪乃は主に大神殿に居るが、それだってその限りではない。


「分かった。じゃあ、ここにいる!」

「ありがとう。ここのことはリリスに頼んだからね」

「うん!任せて!」


 リリスは自分の気持ちに折り合いがついたのか、明るい顔で頷いてその場から消えた。まだ実体を長く保てるだけの力は足りないのだろう。


 その時。

 雪乃は一仕事終えたせいか、なんだか体がどっと疲れを感じているのに気付いた。リリスを目覚めさせるためにほとんどの力を渡してしまっているせいだろう。雪乃自身への信徒は多くないので、力の量も多くはないし、それが集まるのにもまだまだ時間がかかる。


「ユキノ様……?」

「……ごめん、ニーグ」

「ユキノ様!?」


 ふらりと揺れた体を側で見ていたニーグが慌てて支える。


「眠い。後はお願い」

「えっ」


 ぽつりと呟くのが精一杯だった。雪乃はそのまま意識を手放し、重い体を意識の闇に沈めた。 

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