第13章 ただ人数が減っていく
※本作は架空の島・架空の戦争を舞台にしたオリジナル創作です。
特定の実在人物・部隊・出来事を直接描いたものではありません
残ったのは五人だった。
灯子は五人の名前を頭の中で繰り返した。声に出すと何かが起きそうで、唇だけを動かした。
灯子。千鶴。澄江。夏子。律子。
十三人の名前を一息で言えたころがあった。いま最初から言おうとすると、途中で順番が分からなくなる。かなの次は誰だったか。美代と富美、どちらが先に座っていたか。
忘れたわけではない。忘れていないはずなのに、疲労と恐怖が記憶の棚を勝手に入れ替えていた。
澄江のノートがあることだけが、灯子には少し怖い安心だった。自分の頭が壊れても、紙の上には名前がある。
灯子。
千鶴。
澄江。
夏子。
律子。
朝から砲撃は遠かった。
空は薄い雲を浮かべた青で、木漏れ日が地面へ丸い模様を落としていた。昨日までなら美しいと思ったはずだった。灯子は、その静けさを信用できなかった。砲声がしない時間ほど、次の一発を待って身体が固くなった。
鳥の声が聞こえた。
律子が靴を脱いだ。
踵の皮が剥けて血が出ていた。
「ちょっと待って」
みんなが止まった。
律子は布を巻いた。
「痛い?」
夏子が聞いた。
「痛い」
「歩ける?」
「歩く」
律子は結び目を締めた。
そのとき、森の向こうから一発だけ飛んできた。
誰を狙ったものか分からない。
近くで爆発した。
灯子は倒れた。
口の中に土が入った。
舌の上で砂がじゃり、と鳴った。耳は塞がったように遠く、視界の端だけが白く明滅した。灯子は自分の身体がどこまで無事なのかを、手、腕、脚の順に確かめた。そうしてから律子を探した。その順番を、あとで何度も憎んだ。
顔を上げた。
律子がいなかった。
数歩先に倒れていた。
「律子」
返事はなかった。
千鶴が近づいた。
すぐに首を振った。
律子は、靴を履き直そうとして死んだ。
誰かを庇ったわけでもない。
残ると決めたわけでもない。
正しいことを選んだわけでもない。
ただ砲弾がそこへ落ちた。
律子が巻きかけていた布は、片方だけ地面に残っていた。ほんの少し前まで「痛い」と言っていた声と、その布切れがどうしても同じ世界のものに思えなかった。灯子は拾おうとしたが、夏子に腕を引かれた。次の砲弾が来るかもしれなかった。
四人は歩いた。
誰も律子の死について話さなかった。
話さなかったというより、話を始める場所がなかった。さっき「痛い」と言った。布を巻いた。砲弾が落ちた。死んだ。それ以上でも以下でもなかった。
夏子が一度だけ後ろを振り返った。
「布、置いてきた」
律子が足へ巻こうとしていた布のことだった。
灯子は返事をしなかった。取りに戻る理由も、戻らない理由も、どちらも同じくらい空しかった。
昼過ぎ、開けた斜面を一人ずつ渡った。
千鶴が先に行った。
無事に向こう側へ着いた。
灯子も渡った。
澄江も渡った。
夏子が最後に来た。
その途中で砲撃が始まった。
「走って!」
灯子が叫んだ。
夏子が走った。
一発が斜面の下へ落ちた。
二発目。
千鶴が灯子を地面へ引いた。
土煙で何も見えなくなった。
音が止まった。
灯子は立った。
「夏子?」
夏子は少し離れたところに伏せていた。
動いた。
生きていた。
「千鶴?」
返事がない。
千鶴は灯子のすぐ横にいた。
さっきまで灯子の肩を掴んでいた手が、もう動かなかった。
破片が胸に入っていた。
灯子は理解できなかった。
夏子の方が砲撃の中を走っていた。
千鶴は伏せていた。
それでも千鶴が死んだ。
灯子の肩には、千鶴に引き倒されたときの指の痛みがまだ残っていた。身体には確かに触れられた感覚があるのに、その手の持ち主だけがもう返事をしない。因果が途中で切れたようだった。助けた方が死に、助けられた自分が生きている。そこに意味を探すほど、頭の中が壊れそうになった。
「なんで」
誰も答えられなかった。
千鶴は何も言わなかった。
言う時間がなかった。
三人になった。
夕方、澄江が咳き込んだ。
ノートを胸に入れて歩いていた。
「持つよ」
灯子が言った。
澄江は頷いてノートを渡した。
それだけだった。
しばらくして銃声が聞こえた。
三人は走った。
どこから撃たれているのか分からない。
木の陰へ入った。
灯子は夏子を見た。
夏子はいた。
「澄江?」
自分の声が森の中へ吸い込まれた。少し前まで背後にあった足音がないことに、灯子はそのとき初めて気づいた。いつから聞こえなくなっていたのか分からない。友達一人分の音が消えていたことすら、逃げる間は気づけなかった。
いなかった。
戻ると、数十歩後ろに倒れていた。
灯子が名前を呼んだ。
澄江はもう動かなかった。
銃弾だったのか、破片だったのか、分からなかった。
ノートは少し前に灯子へ渡していた。
だから残った。
託すつもりだったのかもしれない。
ただ重かったから渡しただけかもしれない。
もう聞けなかった。
二人になった。
夕方、灯子と夏子は尾根へ出た。
海が見えた。
空が赤かった。
夏子が言った。
「ねえ、灯子」
「何?」
「私さ――」
爆発音がした。
灯子は地面へ伏せた。
顔を上げた。
夏子が倒れていた。
「夏子」
返事がない。
灯子は這って行った。
「夏子」
何度呼んでも返事がない。
夏子が何を言おうとしていたのか分からなかった。
アイスのことだったのか。
家族のことだったのか。
何でもない冗談だったのか。
最後まで分からなかった。
灯子は一人になった。
反射的に「千鶴」と呼びそうになった。危ないとき、迷ったとき、灯子はずっと千鶴の名前を先に呼んでいた。その習慣だけが身体に残っていた。
声に出す直前で、もう返事がないことを思い出した。
灯子は口を閉じた。
しばらくすると、背後で足音がした気がした。振り返る。誰もいない。木の葉から落ちた水滴だった。
また歩く。今度は夏子が息を切らす音が聞こえた気がした。
いない。
怖かったのは幽霊ではなかった。自分の頭が、まだ友達のいる世界の音を作り続けていることだった。
一人、という言葉は人数を表すだけのはずなのに、身体の周囲から空気までなくなったように感じた。返事を期待して名前を呼ぶ相手がいない。歩幅を合わせる足音もない。怖いと言えば聞いてくれる人さえいない。灯子は初めて、自分の呼吸の音がうるさいと思った。
一日のうちに四人いなくなった。
あとから思い返しても、そこに整った別れは一つもなかった。
言いかけた言葉も、帰ったらするはずだったことも、砲声の向こうへ途中のまま消えた。
朝には五人いた。昼には三人になり、夕方には二人になり、やがて灯子だけになった。数字だけが簡単になっていった。




