プロローグ 硝子の揺籃(ガラス・クレイドル)
三十年前、世界は一度、完璧に磨き上げられたはずだった。
かつて『硝子の揺籃』と呼ばれた聖域。
今や魔王の不浄に塗り潰されたその最深部で、二人の男女が立ち尽くしていた。
人類の武の極致、『武神』九条 巌。
人類の魔法の源流、『始祖』エレノア。
死力を尽くした闘いの果て、両者の体力は既に限界に近い。
対峙する魔王もまた、その擬人化した美しい貌を歪ませ、怨嗟の声を漏らしていた。
「――終わりだ、不浄の王」
巌が、愛刀『無垢』を逆手に持ち替える。
彼が求めたのは、魔法による奇跡ではない。全神経を一点に集約させた、純粋な「震動」と「質量」の伝播。
ドォォォォォン!!
放たれた衝撃は、魔王が張った不浄の結界を物理的に食い破り、本丸の床――地蓋をクモの巣状に粉砕した。
轟音と共に、地下数百メートルに眠る純白の岩塩層まで届く、巨大な『風穴』が穿たれる。
「……あとは任せたわよ、あなた! ゴミ捨てのルールは、知ってるわね?」
傍らで杖を掲げたエレノアが、残る魔力のすべてを術式へと変える。
噴き上がる岩塩の飛礫が、魔王の闇を白く染め上げていった。
魔力の防護障壁を完全に削ぎ落とされ、全魔力を喪失した魔王は、もはや人の形を保つことすらできない。液状の闇へと還りかけ、ドロドロとのたうち回る不浄の王。
そこへ、一人の男が静かに歩み寄った。
九条 巌。その手に握られた銘刀『無垢』は、既に背の鞘へと納められている。
巌は低く身を構え、全身のバネを右足の一点へと集中させた。
「――九条流・体術、『巌砕』」
空気を切り裂く、渾身の回し蹴り。
その硬い爪先が、魔王の存在の核を正確に捉え、音速を超えて撃ち抜いた。
「往け。不浄の王よ。……その面、二度と見せるな」
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波と共に、魔王の巨体は自らが蓋をしていた『岩塩の大穴』の底へと、絶叫を置き去りにして叩き落とされた。
直後、傍らで魔力を練り上げていたエレノアが、始祖の杖を振り下ろす。
「――これで、おしまい。……あとの掃除は、岩塩に任せなさい」
天から降り注いだのは、眩い光を放つ巨大な結晶の柱。
そこには、母エレノアの叡智である『二重の術式(破邪・帰還)』が刻まれていた。
結晶の柱が穴に突き刺さると同時に、世界を覆っていた闇は晴れ、三十年に及ぶ長い封印が、今、ここに完成した。
封印の柱が岩塩の奈落へと突き刺さった瞬間、長年不浄に耐えていた魔王城の構造が、限界を迎えて悲鳴を上げた。
天井の結晶が剥がれ落ち、漆黒の瓦礫が激しい勢いで降り注ぐ。
「……あ、危ないわ……っ!」
魔力を使い果たし、膝をついたまま動けないエレノア。
その肩を、無骨な腕が力強く抱き寄せた。
九条 巌だ。彼は愛刀『無垢』を腰に差すと、抗う暇も与えず、愛する妻を軽々と肩に担ぎ上げた。
「――掴まっていろ。ここもじきに、お掃除(崩壊)される」
巌の脚が、瓦礫の山を爆発的な勢いで蹴り上げる。
九条流の体術を極めたその脚力は、崩れゆく城壁さえも「足場」に変えて、垂直に近い壁を跳ね回る。
「ちょっと! 巌、お姫様抱っこじゃなくて『米袋』みたいに担ぐのは、レディに対して失礼じゃない……!?」
「……効率を重視したまでだ。……舌を噛むなよ」
背後で轟音と共に崩れ去る、かつての絶望の象徴。
立ち込める土煙を突き抜け、二人のシルエットが夜空へと躍り出た。
空に浮かぶのは、かつて『硝子の揺籃』と呼ばれた、透き通った月。
世界から不浄が消えた瞬間を祝うかのように、静かな銀色の光が二人を照らしていた。
瓦礫の煙を突き抜け、夜空へと躍り出た巌とエレノアのシルエット。
二人が硝子の結晶が舞う大地に着地した瞬間、それまで固唾を呑んで城を見守っていた数万の軍勢が、地響きのような声を上げた。
「――お、おぉぉぉぉぉっ!!」
「『武神』だ! 『始祖』様だ! 城が……魔王の城が崩れていくぞ!!」
漆黒の不浄が晴れ、月光が差し込む戦場。
その最前線で、血を浴びた大剣を杖代わりに立ち上がったのは、若き日の帝国軍軍団長、バルト・フォン・アイゼンだった。
「……ハッ、やりやがった。あの馬鹿夫婦……本当に魔王を『お掃除』しやがったぜ」
バルトが天に向けて剣を突き上げる。
「野郎ども! 喉が枯れるまで叫べ! 今日、この時、世界から汚れ(魔王)は消え去った!!」
その号令と共に、帝国正規軍、聖騎士団、そして義勇兵たちの歓喜が爆発した。
担がれたままのエレノアが気恥ずかしそうに手を振り、巌は無言で、ただ静かにバルトに向けて頷く。
この時、兵士たちの目に焼き付いたのは、英雄たちの神々しい姿だけではない。
「どれほど深い闇も、磨き上げれば光り輝く」という、九条家の「お掃除」の真理だった。
魔王城が崩落し、世界に一時の熱狂が吹き荒れてから数年。
かつての英雄たちは、華やかな式典や権力の座をすべて辞退し、二人きりで大陸の端々を歩いていた。
背の高い巌の隣で、相変わらず楽しげに魔導杖を振るうエレノア。
二人が訪れるのは、かつての激戦地や、不浄の気が溜まりやすい地の裂け目だ。
「――よし。ここでいいわね、あなた」
エレノアが地面に杖を突き立てると、幾何学的な術式が大地に染み込み、一枚の『浄化の石板』が音もなく埋め込まれる。
「……これで、三十年は持つか」
巌がその上を、自らの足で固めるように踏みしめる。
これは、魔王の再来を防ぐための予防策。
そして、いつか自分たちが守りきれなくなった時、「あの子」が戦う助けになるようにと願いを込めた、親心という名の保険だった。
「掃除は一度して終わりじゃないもの。埃(魔力)は、放っておけばまた溜まる。……でも、これで大丈夫。この石板は、私たちが遺す『福音』だもの」
二人が見上げる空は、かつての暗雲が嘘のように澄み渡っていた。
その旅路の果てに、二人は大陸から遠く離れた、名もなき南の島――『常世島』へと辿り着く。
波の音が、静かに、規則正しく響く南の果ての孤島。
かつて世界を揺るがした『武神』と『始祖』は、今、ただの「父」と「母」として、この小さな砂浜に立っていた。
「……お帰りなさい、あなた。今日の大掃除(漁)は、大漁だったみたいね」
蓮花が、浜辺に小舟を寄せた巌を柔らかな微笑みで迎える。
巌の肩には、伝説の銘刀『無垢』ではなく、自分よりも巨大な「大型の魔魚」が、その自慢の剛腕で軽々と担がれていた。
「……ああ。……こいつは、離乳食には少し早すぎるか」
巌が、不器用な指先でそっと触れたのは、蓮花の腕の中に抱かれた、小さな、しかし力強い生命。
漆黒の髪。そして、漆黒の瞳。
まだ一歳と六か月のその赤ん坊は、父が持ち帰った巨大な獲物(魔魚)を見ても怖じ気付くことなく、むしろ「……ふーん」とでも言いたげな、冷徹なまでの冷静さでそれを見つめていた。
「この子、あなたに似て、散らかっているもの(魔魚の暴れ)が嫌いみたい。……将来は、きっと綺麗好きになるわね」
蓮花が愛おしそうに赤ん坊を抱き直す。
その胸元では、母の叡智である『二重の刻印』が、夕陽を反射して静かに明滅していた。
かつて英雄たちが磨き上げた世界は、この子の代まで、その輝きを保てるだろうか。
否。もしまた汚れたとしても、この子なら、きっと。
浜辺に刻まれた三人の足跡。
それが、三十年後の「再清掃」へと繋がる、唯一の希望の轍となった。
これからの主人公 九条 冬花
現在、一歳と六か月。




