戻れなくなる、と彼女は言った
翌週の特訓中、宮園さんはまた俺を屋上に連れていった。
季節が一段進んでいた。風はもう冷たくない。空気は澄んでいた。
彼女は今日もコンビニのおにぎりを二つ持ってきていた。一つを俺にくれた。
俺は受け取って彼女の隣に座った。
「先輩、今日も話があるんですか」
「うん。先週のね続き」
宮園さんは包装を破きながら言った。
「先週は世界の話をした。今日は私の話をする」
俺は黙って彼女の言葉を待った。
彼女はしばらくおにぎりを噛んでいた。
俺もおにぎりを食べていた。
二人の沈黙は気まずいものではなかった。
彼女は自分のペースで話し始めるのを待っていた。
「私ね、外でそこそこいい仕事してたよ」
彼女はぽつんと言った。
「外、というのは、私たちがいまいる場所の、もう一つ外側」
「はい」
「研究機関にいた。専門は神経科学。人間の認知の仕組みをずっと研究してた」
俺は彼女の方を見た。
「家族もいた。夫と子どもが二人」
彼女の声は淡々としていた。
でも、俺はその声に何か奥行きを感じた。
それは彼女がいま話している話が、自分にとって遠い物語ではない、という奥行きだった。
「3年前、私はこっちに来た」
「自分の意志で?」
「うん、志願した」
「なぜ」
宮園さんはしばらく黙った。
遠くの空を見ていた。
「神経科学の研究で、私はある仮説に辿り着いた。意識というものは神経回路の上で動く、ある種のプログラムだ。だから、神経回路の物理層を変えなくても、プログラムの方を別の場所で動かせるはず」
「別の場所、というのは」
「シミュレーション空間、仮想空間」
彼女は俺の方を向いた。
「私の研究は、それを実現するシステムの開発だった。チームには三十人いた。十年かけてシステムを作った。完成した時、私たちは志願者を募った。最初の被験者は、システムを作った私たち自身がなるべきだった」
「先輩はその被験者の一人」
「うん」
俺はおにぎりを置いた。
彼女の話は、俺の頭の中でしばらく整理がつかなかった。
彼女の言う「外」は彼女がいた研究機関だ。
そして「こっち」は、その研究機関が作った仮想空間だ。
俺がいま生きている世界がその仮想空間だ。
俺はずっとシミュレーションの中で生きていた。
その仮説はE011で「この世界はRPGだ」と書いた時、すでに俺の中にあった。
でも、その仮説を研究者本人の口から、断定的に聞くのは初めてだった。
「先輩、こっちに来て何年くらい滞在する予定だったんですか」
「最初は半年。実験の最初のフェーズで、私は半年で外に戻る予定だった」
「いま、3年」
「うん、戻れなかった」
「戻れなかった、というのは」
「物理的に戻れる。でも、戻りたくなくなった」
彼女の声がわずかに細くなった。
「こっちで私は、何かを掴んでしまった」
「何を」
「役割」
宮園さんはおにぎりの最後の一口を食べた。
「外で私はずっと、研究者としての自分を生きていた。論文書いて学会出て家族養って、それなりに充実してた」
「はい」
「でも、こっちに来たら、私の役割が全然違う場所にあった」
「役割、というのは」
「教官役。気づいた人間に世界の構造を伝える役。気づいた人間と一緒に、世界の構造を変えようとする役」
俺は彼女の言葉を反芻した。
外での研究者としての役割と、こっちでの教官役。
彼女は後者を選んだ。
「外でも似た仕事はできるんじゃないですか」
「できない」
宮園さんは即答した。
「外には、君みたいな人間はいない。気づいた人間に、世界の構造を丁寧に教える。そんな役割は外にはないよ。外では、世界の構造は誰も気づかないものだから」
「はい」
「こっちでだけ、私は私自身でいられる」
彼女の言葉は軽い口調だった。
でも、内容は深かった。
俺は、彼女がなぜ戻らないのかを理解した。
戻れなくなるのではない。戻りたくなくなるのだ。
こっちで自分の役割を見つけた人間は、もう外には戻れない。
「先輩、外の家族は」
「いる。連絡はたまにシステム経由で取ってる。でも、私の意識は3年間こっちに残ってる」
「外の身体は」
「研究施設で眠ってる。生命維持装置の中で。3年間ずっと」
俺は息を呑んだ。
彼女の身体は外でずっと眠っている。
彼女の意識だけがこっちにいる。
彼女は自分の意志で、そういう状態を選んでいる。
「君も」
宮園さんは俺の方を向いた。
「いずれ、似た選択を迫られる」
「俺は、こっちの住人ですよね」
「分からないよ、それは」
彼女はゆっくり言った。
「君、規格外。こっちの普通の住人で、君みたいに五つ目までのバグに辿り着く人はいない。たぶん、君はこっちの住人として作られてない」
俺はまた、息を呑んだ。
彼女の言葉は、E029で俺が書きながら口にできなかった仮説に、答えを与えていた。
俺もたぶん、外から来ている。
ただ、俺は彼女と違って来た記憶がない。
「俺は、いつ外から来たんですか」
「分からない。私は君のファイルを見たことがない」
「ファイル?」
「うん。被験者にはそれぞれ、外での経歴ファイルがある。桐生さんはそれを管理してる。君のファイルが桐生さんの手元にあるはず」
桐生雅彦。
彼の名前がここで、もう一度出てきた。
「先輩、桐生さんってどういう人ですか」
宮園さんはしばらく黙った。
屋上の風が彼女の短い髪をわずかに揺らした。
「彼はボス。私の上司。優秀な人」
「先輩は彼を信頼してますか」
宮園さんはまた、しばらく黙った。
今度の沈黙は最初の沈黙と違っていた。
最初は自分のペースで話し始める沈黙だった。
今度の沈黙は、何かを慎重に選んでいる沈黙だった。
「桐生に、気をつけて」
彼女はゆっくり言った。
「彼は優秀。でも、彼の優秀さがこっちの世界のために使われてるかどうか、私には分からない」
「先輩」
「これは私の感じてることだから、君が確かめて。私が言える限界、ここまで」
俺は頷いた。
彼女は桐生雅彦への警戒を、間接的に俺に伝えた。
でも、その伝え方は断定的なものではなかった。
彼女自身も確証を持っていない。
ただ、何かを感じている。
その「何か」を、俺自身に確かめてほしい、と彼女は言った。
俺はE026で対面した時の桐生の手の動きの不自然さを思い出した。
目の奥のほんの一瞬の冷たさ。
整いすぎた答え。
俺の中の違和感は、宮園さんの言葉でもう一度活性化した。
屋上の風がもう一度吹いた。
俺たちはしばらく、何も話さなかった。
彼女はおにぎりの包装を、丁寧に丸めていた。
俺は空を、ぼんやり見ていた。
雲がゆっくり流れていた。
帰り道、駅のホームで俺はノートを開いた。
書いた。
「宮園さんは3年前、自分の意志で外から来た」
線を引いて、その下に書いた。
「俺は外から来ているかもしれない。でも、来た記憶がない」
もう一度、線を引いた。
「桐生に、気をつけて、と彼女は言った」
ペンを置いて、俺は窓の外を見た。
夜の街の灯りが流れていた。
俺の中に、新しい問いと新しい警戒が、同時に生まれていた。
明日からの特訓はたぶん、いままでと少し違う色を持つことになる。
宮園さんの自己開示が、もう一段深まる回でした。
「外で、そこそこいい仕事してた」「家族もいた」「3年前、自分の意志で来た」、彼女の人生の輪郭が、ここで初めて見えてきます。彼女の役割が、外と内で違う。だから、戻りたくなくなる。書きながら、宮園さんの選択の重みを感じました。
「桐生に、気をつけて」、ここからの物語に、新しい色が混じり始めます。次回、二つの世界での主人公の生活を、俯瞰します。




