〇・四秒の自由
同期との対面から、三日が過ぎた。
四人での特訓は、思ったよりも、ぎこちなくなかった。
早瀬の皮肉は、敵意ではなかった。彼は、俺に対する戸惑いを、皮肉という形で出していた。三日目には、その戸惑いも、薄らいできていた。
河合は、相変わらず、よく話さなかった。でも、彼女が話す時、彼女の言葉は、いつも、何かを問うていた。
黒瀬は、ほぼ無言だった。でも、彼は、訓練の場では、誰より早く動いた。
俺は、彼ら三人の動きを観察しながら、自分の能力との違いを、少しずつ、整理していた。
三日目の特訓は、バグE、抜け落ちの応用がテーマだった。
宮園さんは、特訓室の中央に立って、課題を出した。
「黒瀬と遠野くん、二人とも、バグEを使える。今日は、二人の発動を、同じ条件で計測する」
彼女は、ストップウォッチを取り出した。
「私が立っている。私の前に、コップを置く。君たちは、私の認識から消えて、コップを取って戻る。発動時間と、動作完了時間を測る」
俺はうなずいた。
黒瀬も、短く頷いた。
最初は黒瀬だった。
彼は、宮園さんの正面、五メートルの位置に立った。
俺と早瀬と河合は、部屋の隅で観察した。
ストップウォッチが鳴った。
黒瀬は動いた。
次の瞬間、彼はコップを持って、宮園さんの前に立っていた。
動作の間の、何かが、抜け落ちていた。
俺の認識の中でも、彼が動いた瞬間が、空白になっていた。
ストップウォッチを見た。
〇・二秒。
宮園さんは、わずかに首を振った。
「正確には〇・一八秒。短い。安定している」
黒瀬は、無表情のまま、コップを宮園さんに差し出した。
次は俺だった。
俺は、宮園さんの正面に立った。
黒瀬と同じ五メートル。
ストップウォッチが鳴った。
俺は、宮園さんの認知を過負荷にする情報の流れを作った。
頭の中で、複数の情報が、同時に走った。
彼女の表情、視線の向き、瞬きのタイミング、息のリズム、僅かな身体の揺れ。
その瞬間、俺は彼女の認識の中から、抜け落ちた。
走った。コップを掴んだ。Uターンした。戻った。
ストップウォッチが、止まった。
俺は、黒瀬と同じ場所に立っていた。
手にはコップがあった。
ストップウォッチを見た。
〇・四秒。
宮園さんが、目を瞬かせた。
「〇・三八秒。黒瀬の二倍」
彼女は、ストップウォッチを、降ろした。
「遠野くん、君、また、伸びたね」
早瀬が、横で、ふっと笑った。
「マジで、化け物だわー」
彼の声は、皮肉ではなかった。
ただ、感心と、軽い諦めが、混じっていた。
河合は、無言で、俺の方を、じっと見ていた。
彼女の目は、俺を観察するというより、何かを「考え続けている」目だった。
「河合、何か言いたいの?」
宮園さんが、彼女の方を向いた。
河合は、しばらく黙ってから、口を開いた。
「〇・四秒という時間は」
彼女の声は、相変わらず、静かだった。
「人間の選択を変えるのに、ちょうどいい長さです」
部屋が、わずかに、静まった。
俺は、彼女の言葉を、頭の中で、何度か、反芻した。
〇・四秒。
人間の選択を変えるのに、ちょうどいい長さ。
その意味を、俺は、まだ、完全には、理解できなかった。
でも、何かが、その言葉に、引っかかっていた。
「人間の選択は」
河合は続けた。
「実は、〇・四秒以下の時間で、決まっています。視覚刺激が脳に届いて、判断が形成されるまで、〇・三秒から〇・五秒。その間に、人は、自分が何を見ているかを、決めています」
「うん」
俺は、相づちを打った。
「先輩のバグEは、その時間、相手の認知を止める。ということは、先輩は、相手の選択が形成される、その瞬間に、自分の存在を、消すことができます」
部屋の中の三人が、彼女の方を見ていた。
彼女は、続けた。
「相手の中で、選択は、行われます。でも、その選択の対象に、先輩は、入らない。先輩は、相手の意思決定の構造から、〇・四秒間、外れています」
俺は、息を呑んだ。
彼女の言葉は、俺がバグEを使う時の感覚を、別の角度から、言葉にしていた。
俺は、相手の認識から「抜け落ちる」。
でも、河合の言葉でいえば、俺は「相手の意思決定の構造から、外れる」。
その差は、たぶん、些細なようで、根本的だった。
「自由って、何だと思います?」
河合は、俺の方を見て、訊いてきた。
俺は、答えに、迷った。
「先輩が、〇・四秒間、相手の意思決定の対象から、外れる時。先輩は、その〇・四秒間、世界の構造から、自由になっています」
「自由」
「世界の意思決定構造は、誰が、何を見て、何を選ぶかで、できています。先輩は、その構造から、〇・四秒間、抜け出ています。誰の選択にも、入らない。誰の意思決定にも、影響を与えない。先輩だけが、その〇・四秒、自由です」
俺は、しばらく、何も答えられなかった。
河合の言葉は、能力の哲学的な再記述だった。
でも、それは、ただの再記述ではなかった。
俺の能力の、本質を、彼女は、別の言葉で、見ていた。
俺は、相手の認知を止めることが、能力だと思っていた。
彼女は、それを「俺が、世界の意思決定の構造から、外れること」だと、見ていた。
宮園さんが、河合の肩を、軽く叩いた。
「いいね、その視点」
彼女は、笑った。
「遠野くん、河合のこの視点、いつか、君を救うかもしれない」
「救う」
「うん」
宮園さんは、それ以上は、何も言わなかった。
でも、その「救う」という言葉が、俺の中で、しばらく、残響していた。
帰り道、駅のホームで、俺はノートを開いた。
書いた。
「〇・四秒。人間の選択を変えるのに、ちょうどいい長さ」
線を引いて、その下に書いた。
「俺は、その間、世界の意思決定の構造から、外れている」
もう一度、線を引いた。
「俺は、その間、自由」
ペンを置いて、俺は、窓の外を見た。
夜の街の灯りが、流れていた。
〇・四秒。
その短さの中に、自由がある。
その自由を、俺は、何のために、使うのか。
その問いは、まだ、答えが、見えなかった。
バグEの応用と、河合の哲学的考察回。
〇・四秒という短い時間に、人間の選択を変える長さがある。河合の言葉で、俺の能力が、別の角度から再定義される瞬間を、書きたかった景色のひとつでした。
宮園さんの「河合のこの視点、いつか、君を救うかもしれない」、軽い口調の中に、何か重いものが含まれている一行です。次回、宮園さんから、もう一段、深い話が出てきます。




