鏑木さんに、話した
もう一人で抱えきれない、と思った瞬間に、答えは決まっていた。
鏑木さんに話す。
桐谷ではなく、鏑木さん。
桐谷は俺と何かを共有しているけれど、まだ言葉にできない。彼女に「俺はバグを使えるんだ」と切り出すのは、まだ早い気がした。
鏑木さんは違う。彼は最初から何かを見抜いていた節がある。
彼は俺の側ではないかもしれないし、味方ではないかもしれないけれど、少なくとも驚かない。
その日のシフトは午後四時から夜十時まで。
俺は早めに店に着いて、開店準備を手伝った。
鏑木さんは厨房で仕込みをしていた。普段と変わらない淡々とした手つきだった。
「鏑木さん」
俺は声をかけた。
鏑木さんは顔を上げずに答えた。
「ん」
「シフト終わりに少しだけ、話したいことがあって」
鏑木さんは仕込みの手を止めて、俺を見た。
「閉店後でいいか?」
「はい」
「分かった」
それで会話は終わった。
俺は接客の準備に戻った。
夜十時、最後の客が帰った。
店長は早めに退勤して、店には俺と鏑木さんだけが残った。
鏑木さんはレジを締めて、バックヤードに移動した。俺もエプロンを外して後を追った。
バックヤードは狭い。畳一畳分くらいの広さに、ロッカーと小さな机と古い椅子が二脚あるだけだ。
鏑木さんは机に向かって座った。
俺は向かいの椅子に座った。
「で、結論は?」
鏑木さんは、いつもの口癖から始めた。
俺は息を整えてから、言った。
「俺、おかしいことをしてます」
「どんな」
「人の頭を、書き換えてます」
鏑木さんは何も言わなかった。
俺は続けた。
「言葉一つで、相手の記憶や感情を書き換えられるんです。先週から、それに気づいて、何度か試しました」
「成功してるか」
「全部、成功してます」
「ふうん」
鏑木さんは机の上で、両手を組んだ。
「お前、それを誰かに話したのは初めてか」
「初めてです」
「そうか」
鏑木さんは少し黙ってから、口を開いた。
「お前なら、いつかそうなると思ってた」
俺は、息を呑んだ。
その言葉は、想定していなかった。
「鏑木さん、それ、どういう」
「お前、最初からおかしかった。バイトリーダーになったのも、客に好かれるのも、店長が頼り切ってるのも、お前の力じゃないって俺は最初から思ってた」
「鏑木さん、それは──」
「待て」
鏑木さんは手を上げて、俺を制した。
「俺は、お前の能力の正体までは知らない。ただ、お前が普通じゃないってことは入店した日から見えてた」
「なんで、入店した日から」
「それは話せない。でも、お前が今日来て話してくれたのは、いいタイミングだ」
鏑木さんは目を伏せて、机の角を指でなぞった。
「俺は、お前を見守る側だ。お前を止める側じゃない」
「見守る、って」
「お前が何をするか見ている。それだけだ」
鏑木さんはもう一度、俺の目を見た。
「で、結論は? お前、これから何をする」
俺はしばらく答えられなかった。
鏑木さんが知っていたこと自体が、衝撃だった。
彼が誰なのか。なぜ俺を「最初から」見ていたのか。
訊きたいことがいくらでもあった。
でも、訊いても答えてくれないことも、わかった。
俺は、別のことを答えた。
「もっと、深いバグを、探そうと思ってます」
「他にもあるのか」
「あるはずです。バグA、バグB、バグC。三つもあって、それで終わりとは思えない」
鏑木さんは小さく頷いた。
「分かった。一つだけ、忠告していい」
「お願いします」
「気にし始めると、止まらないぞ──って前に俺が言ったの、覚えてるか」
「覚えてます」
「あれの続きだ。気にし始めて止まらなくなった先には、必ず引き返せない場所がある」
鏑木さんは机の上の手を、ゆっくり開いた。
「お前が引き返せなくなる前に、一人だけでも、信頼できる仲間を作っとけ」
「仲間」
「お前を止められる人間でも、お前を支える人間でもいい。一人で抱えるのが一番危ない」
俺は頷いた。
頭の中に桐谷の顔が浮かんだ。
集団笑いの場面で、書き換えに応じなかった一人。
あの時、彼女は何を見ていたのだろう。
バックヤードを出る前、鏑木さんはもう一言、付け加えた。
「お前が動き始めたら、俺も少し、動く」
「鏑木さん、何を」
「それは、まだ言えない」
鏑木さんはエプロンを片付けながら、それ以上は何も言わなかった。
俺は店を出て夜の道を歩いた。
空気が冷たかった。
でも、孤独ではなかった。
鏑木さんへの打ち明け回。書きたかった場面のひとつです。
「お前なら、いつかそうなると思ってた」「お前を止める側じゃない、見守る側だ」「俺も少し、動く」──鏑木さんの言葉が、それぞれ意味を持っています。彼が何者なのかは、第二部後半から第三部にかけて、徐々に明らかになっていきます。
次回、主人公はついに仲間を選びます。




