管賀江留郎『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』①
管賀江留郎著『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』から。
「二俣事件」および「拷問王」紅林麻雄刑事によって生み出された一連の冤罪事件発生経緯とその要因について。
●『二俣事件』の発生。
1950年、昭和25年1月6日夜、当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)にて、就寝中の父親(当時46歳)、母親(当時33歳)、長女(当時2歳)、次女(当時生後11か月)の四人が一度に殺害されるという事件が発生。
父親と母親は鋭利な刃物による出血死で、長女は扼殺、赤子の次女は母親の遺体の下での窒息死だった。
●名刑事・紅林麻雄警部補率いる捜査チームによる「拷問捜査」の開始
通報数時間後に、国家地方警察の強力犯(知能犯以外の殺人強盗などを担当)主任の紅林麻雄警部補が、部下とともにかけつけ捜査を開始。
しかし彼らのチームは既に「幸浦事件」の裁判でその拷問捜査が問題になっていたのだが、にもかかわらず彼らは幸浦事件のときと同じように、素行不良者を片っ端から引っ張ってきて、二俣署裏の銀行から借りていた巨大な土蔵内で暴行を加えて白状させるという手法を取った。
ところが事件発生から一ヶ月近くが過ぎても一向に真犯人は捕まえられず、2月3日、事件の早期解決を焦った捜査班は、近所に住む少年(18歳)を三百数十人目の容疑者として逮捕し、殴る蹴るの暴行を加え続け、4日後に犯行を自供させた。
●山崎兵八刑事による拷問捜査の内部告発
が、ここで、捜査の一員だった山崎兵八刑事が、拷問について内部告発をした。
起訴された少年にはアリバイがあり、返り血も浴びておらず、雪に残した足跡の大きささえ合わないというほど、彼が犯人ではないという明白な証拠が揃っていた。
にもかかわらず、判決でどうやら死刑判決が出ることが間違いないとわかり、山崎刑事は内部告発をする決心をし、新聞社に手紙を出すことにした。
その結果、一審の判決が出る前日、11月23日の読売新聞に拷問を告発する記事が出て、浜松地裁での判決は延期となり、山崎を証人に呼んで、改めて審理することとなった。
山崎は法廷でも拷問と少年の無罪を訴えたが、しかし二俣署長も法廷に出て、山崎刑事の証言をことごとく否定しただけでなく、勤務態度が悪いなど、ネガティブな人格批判を行い、山崎が署内では嫌われ者の変人だと語った。
しかも、結局12月27日に死刑判決が出され、さらにその日のうちに山崎刑事も偽証罪で逮捕されることとなってしまった。
実際には偽証の取調べなどまったくないまま、拘置所に33日入れられたあげくに、名護屋大学教授・乾憲男博士の精神鑑定で「妄想性痴呆症」と診断され、偽証罪は不起訴で釈放となり、山崎刑事はそのまま警察を辞めさせられることとなった。
●退職後の山崎家の苦難
二俣町より20キロほどの山奥に住んでいた山崎一家は事件後、家長である山崎氏が逮捕されると村八分に遭い、電気を止められるなどの嫌がらせを受けた。
長男は幼稚園で、ブタ箱に入ってる人の子とは遊んじゃいけないといじめられ、また父親が精神異常者だと鑑定されたことで、親戚一同からも縁を切られただけでなく、失職後、働き口の手段にと考えていた自動車免許まで取り上げられてしまった。
この地域一帯を管轄していた新聞配達経営者がみかねて村の新聞配達を任せてくれたため、辛うじて一家を養っていけることにはなったが、その後も山崎家では家が放火され全勝するなどの苦難に見舞われる。
しかもこの事件では長靴の男が家に入るのを目撃した直後に火が出たという目撃証言をした山崎家の当時小学三年生だった次男が逆に警察から疑われて、無理やり警察署にまで連行され、お前が火をつけたのだろうと凄い剣幕で長時間に渡って責め続けられることとなった。
●山崎刑事による告発本の出版と真犯人の推測
山崎兵八氏は、1997年、平成9年に『現場刑事の告発 二俣事件の真相』という本を出版。
この本で山崎は二俣事件の真犯人ではないかと見込まれる有力な容疑者を名指しで公開していた。
その容疑者は取り調べにおいて、赤ん坊の行方を警察も知らなかった段階で母親の下敷きになっていると示し、山崎が、赤ん坊はまだ生きているんじゃないかというと、「死んでる死んでる。死んでるはずだ」と、犯人でもなければ口に出ることはないであろうおかしな答えをいったり、さらにその容疑者は、被害者が死んだ場合、自分に利益が出るという関係にある人物だった。
●紅林麻雄警部補による冤罪事件の本質
冤罪疑惑の発覚後「拷問王」と呼ばれるまでになった紅林麻雄警部補による冤罪事件の数々は、戦前のままの自白偏重主義を引きずった旧い手法を続けたために起こったといわれることが多いが、これは必ずしも正しくなく、むしろ、昭和22年に発布された新憲法大38条第3項と、昭和23年に制定された新刑事訴訟法第319条第2項の「自白のみでは有罪にできない」という条文を回避するために始まった新しい冤罪だといえる。
●<秘密の暴露>と<推定証拠>
紅林警部補が拷問によって引き出した自白は、「私がやりました」という素朴なものではなく、<秘密の暴露>といわれるものだった。
犯人しか知りえない事実を、真犯人に仕立て上げたい容疑者自らの口から自白・自供させるというやり方。
これまで無数に扱った事件が裁判で崩れたことは一度もないと豪語していた紅林警部補の秘訣は、<推定証拠>なるものを巧みにとらえ、またそれを自ら作成するところにあった。
警察も知らない事件の核心についての被告の自白という<秘密の暴露>は、裁判官の心を動かす一番の<推定証拠>だった。
●紅林警部補による巧みな拷問行為の隠蔽
紅林警部補は一連の事件で<拷問王>と呼ばれたが、部下に命じるだけで本人は拷問を一切行うことはなかった。
新憲法と新刑事訴訟法によって定められた<拷問による自白は証拠とすることができない>という条文を回避するため、彼はそのためにも、暴行を加える「割り方」と、調書を取る「書き方」に役割分担をさせ、場所を隔てるということまでした。
こうすることで、たとえ拷問を咎められることがあっても、自白はそれとは関係がないとする形式を取ったのだった。
●紅林刑事が冤罪を続発させつづけた理由
しかしなにゆえ紅林は冤罪事件を続発させなければならなかったのか?
かつて紅林の同僚として「浜松九人連続殺人事件」の捜査にも加わった刑事の南部清松氏は、捜査協力に加わった現場で彼らの捜査の実態を知り、「二俣事件」の山崎兵八刑事よりも先に、紅林刑事の批判を行うようになった。
南部刑事はその「二俣事件」でも紅林から捜査協力を依頼されて同じ捜査メンバーに加わっていたが、やがて証拠ではなく拷問による自白に頼る紅林の捜査方針に疑問を持ち、山崎氏よりも前に自ら法廷に証人として立つったり、「島田事件」の再審請求にも加わり、その上申書で厳しい紅林批判を行った。
紅林は1941年(昭和16年)8月から翌1942年(昭和17年)8月にかけて発生した「浜松連続殺人事件」の捜査を担当し、解決に導いたとして表彰されたが、このときの事件の解決は、間違って逮捕した真犯人の兄からの自供によって解決したため、捜査の実際の功労者というものは存在しなかった。
それでも警察のほうでは、表彰者を誰か推薦しないといけなかったため、県警本部の刑事課長が浜松署に花を持たせて紅林刑事に表彰を授けることとなった。
が、紅林刑事は、これが新聞で大々的に報道されたために「時の人」となり、本人もまた誇って警察学校などで講演するようになり、強力犯捜査の権威者となって君臨するまでになった。
南部氏は、
「もし事件が未解決に終わらんか事故の権威者としての地位は直ちに失墜することを恐れ、次々と心中苦しみながらも冤罪事件を作り上げていったものと、私は断言してはばかりません」
と批判し、それが彼の冤罪を生む原因だとした。
●万能感あふれる「秀才型犯罪」とそのトリックの脆弱さ。
紅林の事件解決のための<推定証拠>の構築方法は、それ自体が万能感を抱いた秀才型の犯罪者によくみられるパターンと似ていて、そしてそのトリックの脆弱さも同じ。
紅林は思いついた自分のトリックを、こんな推理をできるのは自分だけで、余人には見抜けないだろうという過信があったのではないか。
紅林の、何の罪もない4人を死刑台に送り一人を無期懲役にせんと謀った恐るべき無差別連続殺人計画は、「万能感あふれる秀才型犯罪」の典型。
しかし優れた頭脳で築き上げたトリックは一見巧みなようでいて、頭だけで考えたバーチャルな世界ゆえの脆弱さから脆くも崩壊し、そして真実が露呈していってしまう。
しかし紅林は、これまた万能感を抱いた秀才型の犯罪者の常として、自らの非を決して認めようとはしなかった。自らの非を認めることは、そのバーチャルな世界を築き上げた自らの優秀さを否定することになり、肥大化した自己像が崩壊してしまうから。
●御殿場署次席の「名刑事」から派出所交通整理への転落
「幸浦事件」「二俣事件」「小島事件」という、犯人解明まで何ヶ月も要した難事件を次々と解決した紅林警部補の名声は頂点に達し、国家警察本部長官(今の警察庁長官)から優良警官表彰と記念の腕時計を受け警部に昇進。御殿場署次席にまで上り詰める。
ところが三事件とも次々と最高裁で死刑が破棄され非難が高まるや、一転して派出所勤務の交通整理にまで降格。
さらに「幸浦事件」「二俣事件」「小島事件」の無罪が確定し、紅林はこれまでの名刑事という賞賛から一転、「拷問王」の悪名を付けられ厳しく糾弾される側となってしまった。
それでも紅林は決して自分の間違いは認めず、逆に自分を世間の理不尽な攻撃にさらされた受難者だとして考え、『真実は犯人だけが知っている』という反論の手記を『週刊文春』昭和34年12月21日号に掲載。
警部の身でありながら交通整理にまで左遷させられたのは警察上部からの辞職圧力だったが、紅林は辞めなかった。
それは、「それでは負けることになるのである。正義のために、民主時代の警察官の信用のために、わたしは身を引いてはならない」からだといい、
さらに自分を非難する者は、「ヒトラーがユダヤ人追放を叫んだときのような、きちがいじみた姿」の者たちによる「言論の暴力」だとし、
自分に拷問を受けたと訴える被告は弁護士による洗脳で嘘を事実と思い込まされているのだと反論した。
●「虚構」と「現実」の混同
特異な事件を起こす犯人について「虚構と現実を混同した」とは戦前からよく指摘される分析だが、紅林刑事に関してはこれが逆に見事にあてはまってしまう。
法廷など彼の目の前で繰り広げられた現実と、紅林刑部の脳内が噛み合っていない。
紅林は、「この三事件を通じてわたす及び検察側にとって不利なのはまず被告の犯行を証明する物的証拠まったくないことだ」と語っていたが、
紅林は実際には、自白以外にも数多くの物的証拠を提出していて、しかもそれが決めてとなって、被告の一審二審での死刑判決につながっていた。しかもその物的証拠が、最高裁で否定されることによって被告の無罪が確定するという結果になった。
また自身の拷問行為についても、
「わたしの心境はこうである。よし、面白い、わたしが拷問をしたというのなら、いつどこでやったか伺いましょう―これなのだ」といって認めなかったが、
すでにそれは裁判の法廷の席で、有罪とされた被告の口や、自白せずに釈放された人々らによって証言されていたことだった。
紅林によれば、犯人たちの自白は、決して拷問によるものではなく、彼らの良心の呵責によってなされたものだということだった。
実態はどうであれ、彼の"脳内の思考”では、そのように処理されているかのようだった。
紅林刑事の冤罪事件は、それ自体が「現実と虚構を混同する秀才型犯罪」に酷似。
すべての事件が解決した昭和38年7月末に紅林刑事は警察を去り、そのわずか一ヵ月半後の9月16日に、脳溢血のために死去した。55歳という若さだった。