幕間・凪ノ弐
最近、良く夢を見る。
誰かが泣いている。その姿を見た俺は、もの凄く胸が痛くなる。
泣いて欲しくない、なのに俺の手も声も相手には届かない。焦りと、悲しさと、自分に対する怒りで一杯になる。
泣かないで、ごめん…ごめん…ごめん…。
「ごめん…」
大体、いつも謝る自分の声で目が覚める。俺は一体、誰に謝っているのか、夢で泣いているのは誰なのか。
布団に体を起こし、掛け布団ごと膝を抱え込む。泣きたい気分なのに、俺は涙を流せない。頭の中に居るもう一人の俺が涙を止める。
涙を流せば、大事な何かを失う…と言う。
だから俺は今まで涙を流した事がない。義母に言わせれば、赤ん坊だった頃から俺は涙を流した事がないらしい。
ゆっくりと布団から這い出し、三歩だけ足を踏み出す。
そう云えば、人に言わせれば俺の歩き方は変わっているらしい。足を地面から離さず、擦るように歩くからだそうだ。自分では一度も意思した事はないけれど、不思議なものだ。
手を伸ばすと、吐き出し窓のガラス戸を開けて、雨戸を開ける。外から流れ込む、冷たい濃い草木の匂いが、朝の訪れをハッキリと印象付ける。
けれども、まだ夜は空けきっていない。薄暗く、朝の光と夜の闇がせめぎ合っている、朝とも夜とも付かない時間…俺の一番好きな時間だ。
「相変わらずだな、もう起きたのか?」
部屋のドアが静かに引かれ、義父が顔を覗かせる。
「一度でいいから、お前を起こしてみたいもんだな。おはよう」
呆れたような、感心したような、その表情は複雑だ。
「おはよう」
俺は機械的に返事をする。別に、義父も義母も嫌いなわけではない。が、俺の居場所はココではないと知っているから、馴れ合う気はない。とは言え、今まで育ててくれた恩はある。
だから義父に言われるまま、義兄と共に朝の修行、夜の修行、山行、滝行…諸々をこなしてきた。そして義父は、義兄ではなくやたらと俺に術を教え込みたがった。まあ、その度に義兄に嫌われていくのは確かだった。
気にしないと言えば嘘になる。他人の家庭に理由は何であれ紛れ込んでしまったのは間違いないのだから。
そんな事を考えながら、ノロノロと着替え始める。それにしても、今日は酷く体がダルイ。修行用の着物に着替えるのが億劫にさえ感じる。
「はぁ…」
知らずと溜め息が漏れた。
回りには子供だと言われる。しかし、頭で考えている事は、自分でも可笑しな程、子供ではないのだ。ふと気が付けば、だいぶ前から同じ年頃の子供とは遊べなくなっていた。
テレビにも、漫画にも、ゲームにも…まあ、ゲームは種類にも由るけれども、まず興味がない。
好きな事と言えば、昔の文献を読む事だったり、術の完成度を高める事だったりする事位だ。昔の文献にいたっては、何故だか現代の本を読むように難なく、スラスラと読む事が出来る。むしろ、今の本より文章的には読みやすさすら感じる位だ。
俺は机にある、古ぼけた本に目を遣った。あの本は最近見付けた物で、義父ですら読む事が出来なかった代物らしい。なのに、俺には簡単に読む事が出来ていた。
内容はこの神社に既に無くなった秘術らしい。
今、俺が世話になっているココは、神仏混合の神社とも寺とも付かない所だ。でも名前だけは神社付くので、便宜上は神社で通っている。そしてもう一つ、表立ってはいないので何とも言えないが、義父は裏業とでも言うのか、退魔師としても仕事をしているらしい。丁度、十二年前、俺は義父のその仕事帰りに拾われたと聞いていた。
何故、義父が俺を拾ったのかは未だ良く分からないが、正直、余計な事をしてくれたと思っている。
それが偽りのない俺の本当の気持ちだ。
ようやく着替えを済ませ、本堂へと向かう。廊下はまだ暗く、本来なら電気を点けるところ だろうが、俺はどうやら普通より夜目が利くらしい。余計な明かりはそれこそ俺の邪魔になる。
いつものように隣にある義兄の部屋の前を通り過ぎる。が、今日は何故かその前で一瞬足が止まった。
無言で部屋の入り口を見やる。何だろう、この気配は?
何だかとても懐かしい。まるで、今さっきまで見ていた夢に引き戻されたような感じがする。
京。
その単語が突然ふと頭に浮かんだ。その瞬間、ハッと、目が覚めたような感じがした。
そうだ、京だ。
これはとても大切な言葉だ。きっと俺は、何かとても大事な者を忘れている。
「あれ、どうしたの?那岐、僕に何か用でもあるの?」
ぼうっとした視線の先、いつの間にか義兄の部屋の扉は開いていた。そこには不思議そうに俺の顔を覗き込む義兄の顔がある。
「別に。…オハヨウ」
クルリと廊下の先に視線を戻す。けれども、この感じ、この悲しい気配…。
「ねえ、兄さん。もしかして昨日、何かあった?」
どうしても気になり、背中を向けたまま聞いてみる。
「え…?何かって?」
顔を見なくても相手の動揺が伝わってくる。
「なにか、変わった事だよ。…あった?」
「べ、別に何もないよ?どうしたんだよ、急に?」
その場を取り繕うような言葉。義兄は嘘が下手だ。
「そう。なら、いいんだ」
「変なヤツだな。ほら、那岐、急がないと父さんに叱られるよ」
変に明るく言い切る言葉。本当に、嘘が下手だ。義兄は俺の顔を見ないように、通り抜けざまに軽く俺の頭を叩き、急いで本堂へと向かった。
俺の目には、その背中は心なしか、嬉しそうにみえた。そして俺は、言いようもない不快感がこみ上げるのを感じた。それは、何処か、大切にしていた宝を勝手に触られた様な不快感に、とてもよく似ていた。
イライラしながら、本堂へと入る。すると、そこに今まで見たこともない女の人が義父と向かい合って座っているのが見えた。ココに、義兄の姿はない。
義父は俺の姿に気付くと、少し考えた風な表情をする。
「那岐、こっちへ来なさい」
義父が俺を呼びつけた。しぶしぶその声に従う。
「…なぎ?」
その女の人は、俺の名前に眉根をしかめた。
「こちらは仙道芳華さんだ。この度、仙道流本家の当主になられた方だ。挨拶しなさい」
俺は義父の左隣に座ると、床に手を突いて頭を下げた。
「守月那岐です。はじめまして」
「仙道流当主、仙道芳華よ。ヨロシクね。面倒だから、芳華さんって呼んでね」
仙道流当主はにこやかに俺に微笑み掛ける。その張りのある声、華やかに微笑む顔を見る限り、恐らく、かなり若いはずだ。
俺と仙道流当主はしばらく互いを見つめ合った。
あの若さで当主となるからには相当な使い手と見るべきだろう。相手は、俺を穴が開くほど凝視してから、深い溜め息を一つ吐いた。
「…なぎ、ね。ごめんなさい。昔の知り合いと、名前が一緒だったものだから」
少し、困ったような表情をしてから、彼女は席を立った。
「守月さん、今日は朝早くから失礼しました。当主就任の挨拶はまた後日、改めて行う予定ですので、どうぞ、お手数でしょうがお越し下さい。…そのときは、是非、那岐くんと幸人くんもご一緒に。失礼します」
チラリともう一度、彼女は俺を見る。
「そういえば、私の知り合いに、凪の他に京という人も居たんですよ…。それでは」
意味ありげに言葉を残し、本堂を後にしていく。義父は彼女を見送るために一緒に席を立った。
京、だって?
頭の中でカチカチと、まるでパズルがはまるような音がする。
京、芳華、何処かで…?
パッと一瞬視界が白く染まった。そこには、まるでスクリーンに映し出される映画の様に様々な記憶が次から次へと展開していく。
黒い髪、白い指、悲しみを湛えた黒い瞳。涙、笑顔、そして、そして…。
『凪!』
踊るように、軽やかに走り寄ってくる、美しい胡蝶のような姿。
「京…!」
今まで当てはまらなかったピースが、ぴったりと嵌った。全てが思い出される。それと同時に、俺は走り出していた。
裸足で境内に飛び出し、芳華の後を追う。
「芳華!!待て!」
驚きを露に振り返る芳華と義父。
「芳華!てめぇ!まさか京に何かしたのか!?」
女とは言え芳華の方が背が高いので、胸座を掴む事は出来なかったが、飛び掛るように術を使う利き手を押さえ込んだ。
「那岐!なんて口の利き方を…!」
驚いた義父が俺を羽交い絞めにして芳華から引き離す。
「芳華!何か言え!!芳華ぁ!」
取り乱した俺に手を焼く義父を横目に、芳華は俺の前に仁王立ちになると、右手を一線、俺の左頬を振りぬいた。
パァン。
一瞬、その場に居た全員の動きが止まった。境内の木々の間から鳥が鳴きながら飛び立っていく。
「何ですって?!ふざけるんじゃないわよ!アンタこそ、こんなトコで何してんのよ!?京に何かしたかですって!?それはこっちの台詞よ!バカ!!」
その言葉と同時に、今度は左手で右頬が打ち抜かれる。
芳華の肩を怒らせ怒鳴りつけるその姿は、先ほどの落ち着いた当主の姿ではなく、頬を紅潮させて涙すら流している少女の姿だった。
「京は私の、私の…たった一人の友達なのよ?京は、私の親友なんだから!凪!アンタが、アンタがバカだから、京が居なくなっちゃったんじゃないの!!」
「芳華…」
次に言う言葉が見つからなかった。
「京に…京に何かあったら、私は絶対に許さないんだから!!凪の、バカ!」
芳華はその場に膝を着いて、声を上げて泣き崩れた。
唖然とその姿を見ていた義父の手は緩み、俺はそこからすんなりと抜け出すことが出来た。 芳華の傍に片膝をついて座ると、彼女の振るえる肩に手を置く。
「悪かったよ」
芳華は俺の小さな体に、縋り付くように顔を埋める。
「探したの…探したのよ。いっぱい、いっぱい探したの…でも、見つからなくて…凪と…同じ…名前の子が居るって、聞いて…もしかしたらって…」
言葉が途切れ途切れになりながら、芳華は言葉を続けた。
「京が、居なくなって、凪も消えて、皆、みんな…貴方たちの事、忘れてて…」
「だから、悪かったって。まったく…これだから、女は面倒なんだ。京は、誰に頼まれなくたって俺が必ず見つけ出してやるから、もう泣くなよ」
「…うん」
柄にもなく、芳華に優しい言葉を掛けてしまった。自分で言っておきながら、尻の辺りがむず痒くなる。
「那岐、これは一体…?」
一人、置いてけぼりを食ったような義父が、丸くなった目を見張りながら、俺たちを見下ろしていた。
「別に」
短く一言だけ答える。それは、これ以上の質問を許さない強い拒否の言葉だった。
俺たちの関係を人に話すのは酷く面倒だ。もとより、話す気など全くないが。
促すように俺は芳華を立たせると、迎えの車まで義父と共に送っていった。無言のまま、芳華は車に乗り込む。俺も無言のまま見送る。もう、互いに言葉を掛ける事はなかった。
ただ、義父だけは何か言いたげな雰囲気を出していたが、状況として何も言い出すことが出来ないでいる。
ゆっくりと芳華を乗せた黒塗りの車が走り出す。
俺はそれと同時に、車に背を向けて境内に戻っていく。義父は慌てて俺の横に並んだ。
「那岐、仙道さんとは何処で知り合ったんだ?」
俺はその質問に答えず、頭の中で今日までの出来事を繰り返していた。俺の術には何の落ち度もないはずだ。だとすれば、原因は一つしか思いつかなかった。
立ち止まり、義父に向き直る。
「…俺に、解呪の法を掛けたな?」
「何だって?」
義父は俺の言葉に険しい表情になる。
「俺の呪法は間違っていない。なら、原因は一つしかない。俺に、解呪の法をやったんだな?」
義父は無言になり、険しい表情は更に険しさを増した。
「…言ってる意味が分からないが?」
「嘘を吐くなよ。ま、どうせ全て失敗したんだろう?俺が、まだこうして生きてるって事は、そういう事だからな」
「何だって?」
「術は返されれば、術者自身に跳ね返る。そういう事だ」
俺はこれほど冷淡に物を言えるのだと、頭の片隅で思っていた。確かに育てて貰った恩はある。だが、俺の邪魔をする者は誰であれ許さない。
「まさか…おまえ…?!」
驚きと絶望にも似た表情を義父は浮かべて、目を見張っている。
「…さてね」
そう一言返すと、俺はサッサと踵を返し、部屋へ戻って行った。呆然と立ち尽くす義父の姿が目の端に映る。
「那岐…お前は…」
その問いかけには答えない。
俺は、自分の大切な者の為だけに生きる。今までも、そしてこれからも。
京、俺はお前の為だけに生きている。
部屋へ戻った俺は手早く着替えを済ませると、そのまま家を飛び出した。
俺は俺の居るべき場所へと戻るんだ。
夜が完全に空け切った、明るい空。その空同様、今の俺には何の迷いも無かった。