第三十六話 出発前夜
出発の前夜。ギルド本部の囲炉裏端に、遠征隊の六人と、留守を守る面々が、集まった。
遠征隊は、六名。俺、ロイド。剣聖ガルド。聖女リノン。魔導計測のヴェラ。学統のエリオット。そして、一級計測士、テオ。
「テオ」俺は、最終確認をした。「もう一度、聞く。深度百層だ。生きて帰れる保証はない。……それでも、行くか」
「行きます」
テオは、即答した。二年前、俺の背中に隠れていた少年の声じゃない。
「師匠。俺、大会の裂け谷で、初めて自分の声で計測を決めました。あのとき、分かったんです。師匠は、俺に『師匠の代わり』をやらせたんじゃない。『俺自身』をやらせたんだって。……深度百層は、たぶん、その総仕上げです。行かせてください」
「……よし。合格だ。二回目の、な」
留守を預かるのは、ミアだ。市場部門筆頭にして、今や本部の全権代理。彼女は、跳ねるおさげを、きゅっと結び直して、俺の前に立った。
この二年で、ミアも背が伸びた。出会った頃は台に乗らないと帳場に手が届かなかったのに、今は俺の肩ほどある。声の通り方も、市場の呼び売りから、人を束ねる者のそれに変わった。
十五だった娘は、十七になり、四十人のギルドを地上で回せる女になっていた。
「師匠。留守は、任せて。公共計量所の着工も、支部の運営も、予約券の管理も、ぜんぶ回してみせる。……あたし、遠征には行けないけど」
「ミア。お前が留守を回せなきゃ、俺は安心して深層に降りられない。……前に言ったろう。俺が測れなくなったら、お前らが基準だ、と。今回は、地上の基準が、お前だ。いちばん重い役だぞ」
「……うん」
ミアは、少し俯いて、それから、いつものそばかすの笑顔で、顔を上げた。
「約束して、師匠。ぜんぶ測って、ぜんぶ記録して、ぜんぶ持って、帰ってくるって。……測り残しは、なしだよ。計量士なんだから」
「ああ。測り残しは、しない。……ただし、ひとつだけ、持って帰れないものがある」
「え?」
「深度百層の、景色そのものだ。あれだけは、この目で見て、記録に『絶景。数値化を放棄する』と書いて帰るしかない。……許せ」
「もう! そういうとこ! ……いいよ、許す。その代わり、絶景、めいっぱい見てきて。あたしの分も」
囲炉裏の火が、ぱちぱちと爆ぜた。ドガからは、テッサから激励の便りが届いていた。
『師匠殿。深度百層、無事を祈る。テッサの山は、俺が守る。死人の数、今年もゼロだ。……聞き棒、テオに持たせろ。谷の声を聞く道具は、いちばん深い場所でこそ、役に立つ』。
テオは、その聞き棒を、もう荷袋のいちばん取り出しやすい場所に、括りつけていた。
夜が更ける。明日、俺たちは、人類が一度も正確に測ったことのない場所へ、降りる。
俺は、記録簿の新しいページを開き、遠征日誌の一行目を、書いた。
『第一日。これより、ゼルガ大迷宮・深度百層完全測量遠征を開始する。目標――世界でいちばん深い場所の、正確な数値。持ち帰るもの――全ての測定値と、全員。以上』
ペンを置いて、囲炉裏の火を見た。二年前、荷物持ちの計量士が、酒場を追い出された夜。あの夜の俺に教えてやりたい。
お前はいつか、世界でいちばん深い場所を、仲間と測りに行くぞ、と。
――たぶん、あの夜の俺は、こう答える。「へえ。……で、その計測回数は、何回目になるんだ?」と。
数えておこう。百万と十二回の、ずっと先。今夜が、新しい第一回だ。




