黒の章 第七話
「老人たち」
天井は立ち上る湯気に白く霞んでいた。
さほど広くは無いが、十分に足の延ばせる湯船につかりながら、彩香はぼんやりとしていた。
白く濁るお湯から指先だけ出してお湯をかき回す。
壁が下半分しかないのを見たときは、入るのが躊躇われたが、辺りには木々が風に靡き、鳥のさえずりが聞こえる。
秘湯の風景だ。
ゆっくりと湯に浸かると、不思議なくらい落ち着いた。
全ての悩みが体中から流れ落ちていく様な、また、全身に力が充填されているような、そんな気分にもなった。
白い肌が真っ赤になるほど温まっる頃には疲れはすっかり消えて無くなっていた。
「あぁすっきりした、あれ、何これ?」
レイジに渡された着替えをみて彩香は眼を丸くした。
新品の男物の下着の上下と、黒いつなぎの服だった。
「作業服じゃないの、これ?」
ぶつぶつ言いながら囲炉裏の部屋に戻る。
軽く浮くような障子を開けると、ひとつだけ用意されたお膳の上で、温かそうな湯気を立てる食事が用意されているのが眼に飛び込んできた。
ご飯に味噌汁、焼き魚にお新香。
決してご馳走ではないが、米粒の輝きや、魚の香ばしい匂いが食欲を駆り立てる。
そういえば夕べから何も食べていない。
彩香は一心不乱に飛びついた。
余りのおいしさに息をするのも忘れ、一気に食べ終えた。
「お替わりするかい?」
土間からの声に驚いて肩をすくめると、釜戸の前に笑顔の老婆が座っていた。
「ごめんなさい、気付きませんでした。・・恥ずかしい」
言葉の最後はかなり小さくなった。
「私は今来たんだよ。嬉しいねぇ、全部食べてくれて」
「とってもおいしいです。お替りいいですか?」
「いいともさ。いっぱい食べな」
老婆は嬉しそうに微笑んだ。
初対面だというのに不思議と緊張感が無かった。
大満足の食事を終えると、彩香はすることも無く、昼間の猫のように縁側に座って、日の高くなった空を見上げていた。
雲の多い空だった。
夕べに比べると、気分は随分と落ち着いた。
不思議と穏やかな気分に包まれて、時間の経つのも忘れ、何も考えがめぐらない。
広い庭の背の高い樹をぼんやり見ていると、幹と幹の間を人影が動いた。
「あれ?誰か居るのかな」
眼を凝らして、身を乗り出して暫らく見ていたが、特に動くものは無い。
「お願い」
少女のような声が何処からか聞こえた。
立ち上がって辺りを見回すが、誰も見当たらない。
南に面した広い縁側、後ろの和室、庭の樹の影。誰かがいる気配は無い。
「あれれ?」
眼が丸くなる。
確かに聞こえた、何処かで聞いたことがある声。
何処で聞いたんだっけ?首を傾げてみる。
彩香は縁側の端まで歩いてみた。
高い天井、柱の見える白い塗り壁の上の方は黒くくすんでいる。
土間に戻って階段を上がると、2階は板の間の広い空間が広がっていた。
仕切りを入れれば部屋が幾つも出来そうだ。
縦横規則的に並ぶ柱は、見たことも無いぐらい太い。
彩香はその一本に触れてみた。
表面は黒く変色してヒビが入っている所もあるが、手のひらには木の温もりが感じられた。
ハッとして振り返る。
誰かが後ろに近づいた気配があった。
「こんにちは。誰かいますか?」
ガランとしている広い空間からは、やはり返事は無い。
壁が無いとは言え、柱によってできる死角も多い。
ぐるっと一廻りしたが、やはり誰も居なかった。
外から見たとき、もう一段上の階の窓が見えたのを思い出して階段を探した。
広間の奥には、誇りだらけの機械が置いてあったが、彩香にはそれが何をするものなのか検討もつかない。
壁際に、階段のような段差のついた箪笥があった。
階段にしては幅が狭く手すりの無い箪笥を、彩香はゆっくり、慎重に昇った。
蓋の様になっている天井を押し上げると上の階へと繋がっていた。
「わぁ、いいな。こうゆうの憧れてたんだよな。屋根裏部屋みたい」
天井が床まで傾斜し、黒く太い柱や梁ががっしりと組まれているその部屋の両端に、明り取りの小さな窓があった。
外から見えた窓だ。
はめ込まれている障子を開けるとガラス窓は無く、直接外の風が吹き込んできた。
恐る恐る下を覗き込むと3階とはいえ、学校の屋上くらいの高さがあるように見えた。
余りの高さに、地面を見るやすぐに顔を引っ込めた。
が、真下を誰かが歩いているのに気が付いて、また恐る恐る顔を出してみた。
杖を突いて歩いている人影は老人のようだ。
レイジの言っていたジジババのジジだとすぐに解った。
彩香は挨拶しようと土間に降りていくと、その老人は土間の前で杖を突いたまま立っていた。
「やあやあ、よく来たな。レイジから聞いてるよ」
老人は顔中皺だらけにして笑った。
初めて会う人なのに、朝の老婆と同じように、なぜか以前に会った事がある様な気がしてならなかった。
「寒くないかい?囲炉裏の所が暖かいよ」
「はい、大丈夫です」
まるで本当の祖父と会話しているようなおかしな感覚だ。
背中が曲がり、杖がないと立つ事さえも大変そうな老人だったが、優しい笑顔で見つめる目は真っ黒で、光があるようにも見える。
「いきなりこんなこと聞くのも変かもしれないですけど・・ここには、私と同じくらいの女の子も住んでますか?」
彩香が尋ねると老人は急に表情を変え、目を見開いた。
「み、見たのかい?」
「チラッとですけど・・」
目を剥いて驚く老人の表情に、彩香は少し戸惑った。
「お、お婆さん、お婆さん!」
尋常ではない驚き様に、自分がとんでもないことを訊いてしまったのかと急に不安になった。
「何ですか?大きな声を出して、まだちゃんと聞こえますよ」
老婆が囲炉裏の部屋から顔を出す。
「茶をくれ!」
「はいはい」
「・・・」
彩香は肩透かしされた気になった。
「ちょっと待っといで、のどが渇いてな。まだ時間はあるから、ゆっくりしてなさい」
老人はそう言うと、囲炉裏の部屋へと入って行った。
「お譲ちゃんもおいで」
老婆が手招きする。
彩香は釈然としない顔で老人に続いた。
「あの驚きは何なのよ」