■1-10
ままならない天候による不作続き、戦時の兵糧攻め、蝗害。
歴史の中で人々は度々に食糧危機に差し迫られているが、作物の育成に必要不可欠な窒素化合物が土壌から枯渇していく例では、解決法がもしも見つからねば人類は農耕を捨てて狩猟と採集の民族に立ち戻らねばならぬやもとされた深刻さがあった。
窒素化合物を豊富に含むとして重宝されたチリ硝石はペルーの地にゴロゴロと転がっていたはずだったがいつの間にか無くなり、長い年月をかけて海鳥の糞が堆積して出来上がった島がまるごと一島、ものの数年で畑の肥やしと消え、いよいよ大がかりな追肥が困難になる。
空気中にほぼ無限のように存在する窒素だがその利用方法がほとんどなく、窒素化合物として土壌に固定するためにはマメ科植物の中でも食料に向かない種類の力を借りるという唯一の方法が残されてはいたが...。
増え続ける人口の食料を賄わねばならないのに、麦畑を一旦草原に植え替えている余裕があろうか。否。
そんな混迷の時代に生き、空気中の窒素から窒素化合物を生成する方法を模索し続け、見事にそれを発見して世界を食糧危機から救ったその研究者の名はハーバー法の名称にもあるフリッツ・ハーバー。
ハーバーの研究の進展に大いに助力したカール・ボッシュの貢献も称え、ハーバー法は正式にはハーバー・ボッシュ法と呼ばれる。
何と偉大な功績であろう。
救うはずの人類がその人口を爆増させることで資源を貪り尽くし、研究者らの敵のように振舞う背景描写にはドラマ性をも感じられた。
仁では工法が確立された今でもまともに作れる気がしないのにそんなものをゼロから生み出せる者が居たなどと、その果てしない距離感には呆然自失に暮れるしかない。
しかもハーバーは割かし当初から当たりをつけていた手法での試行錯誤の末に成果を上げたというから、まさに天才と賞賛するに尽きる。
ハーバーの偉業に気が遠くなりかけたその時、背中の方で藍が寝返りを打った。
様子を見ると、目が薄く開けられていた。
不意に起きたようだ。疲労感はまだ見受けられるが表情に苦悶が感じられなくなったのでひとまず安堵した。
「まだ寝てろよ」と声をかけると...
「大丈夫だあ」と夢うつつのような呆けた声が帰ってきた。
訛りの効いた、昔の喋り方が随分懐しい。
やたら我流な都会適応モードにすっかり毒されたのかと思っていた。
「夢...叶うまでうちは死なねえ。素敵な旦那様がおってな...子供は四人で...男の子と女の子が...二人ずつなんだあ」
「植物も寝ぼけんのか...」
呆れながら寝返りで乱れた布団をかけ直す。
「あ...」
訛った口調に覚えた懐かしさがほんの一瞬、遥か昔の遠い記憶を呼び覚ましかけた。
思い出しきれないもどかしさに頭を振って、窓の上部の通気口から室内に侵入しつつある蔦が視界を横切った。
何故だかこんなものさえ、どこか懐かしい。
ああ、そうだ。
幼い頃に秘密基地にしていた、蔦と雑草だらけの廃屋が思い出される。
そこで、まだ幼かった頃の藍とままごとをした事なんてすっかり忘れていた。
自分は面倒見が良いのだと主張したがる男子の友人が居てそいつがいつも一人だった藍に目を付けたのだが、女子の遊びには付き合いたくはないようだった。
今にして思えばその正体は植物なので当然だが、藍は運動神経が大変鈍い。
そもそも人間だって、獣・鳥・虫などの他の動物と比較するとその運動性能は勝てるところを探す方が難しい。実際、攻撃に迷いを無くした動物と素手の人間が単独同士で戦うのであれば中型犬にも負けるという。
生存競争のレートに大脳の発達というベットを総賭けしてまぐれ勝ちしたのが人間なら、自らを万物の霊長などと言って調子づくのは致し方のない事だ。
そんな人間より遥かに動けない植物が、やたら走り回りたい男子の遊びに強引に誘われて乗り切れない様子を見ているのは、事情を何も知らなくとも不憫に映った。
とはいえさすがに恥ずかしいので例の秘密基地にしている空き家で隠れてままごとに付き合ったのだ。
その設定はいつも同じで、藍が専業主婦で仁がその旦那役、男女二人ずつの子どもたちは藍のお気に入りの人形だった。
生まれた順番の設定までこだわって練られていたはずだが、それに関しては当時ですらまともに覚えられなかった。
「あれが、叶えるまで死ねない夢...?」
また寝ぼけて何か言ってくれやしないかと問いかけてみたが、藍はまた寝息を立てて眠りに入ってしまっていた。
動物と植物という違いはあまりにも致命的過ぎて、そんなものは到底叶うべくもない。
ただ、寄せる事は出来ようか。
それこそままごとの様に。
藍の抱く儚い夢と、
仁が失って、叶うならばその全てを取り戻したいと願った幼少の儚い思い出にも。
「あれからもう一年か...」
日本ではエクスプランター現象、東京では植物の成長暴走、都心はもはや樹海に呑まれつつある。
随分な変わりようにしてはまだ一年と言えなくもないが、どうしてもっと早く決断出来無かったのかと思えばこその“もう一年”だった。
「きっとなんもかも遅えんだけんど、あん頃に置いてきたもん拾ってさ...こっからやっとなんだわ。また歩き出してみてもええよなあ」
そこか遠くを見て誰にともなく尋ね、
宙に溶けゆくその言葉に
誰かが笑いかけてくれた気がした。
きっとそれは、まだ無邪気な頃の自分自身の笑顔であるように思えた。
「多分お前はこれからもずっと俺についてくるつもりだ。だったらもう隠すなんて言ってられない。何があっても絶対に守ってやるしかねぇじゃねぇかよ。ったく、俺に面倒はかけないんじゃなかったのか…」
今度のは目の前の藍の端正な寝顔に向かって愚痴っぽく語りかけた。
起きて聞かれていたら歯が浮きかねないので寝ていてくれたのは本当に良かった。




