22話『芽吹く情動を埋めて』
今の状況に、理解が全く及ばない。
──アベルを捕食しようと迫っていたあの熊は、カインの後ろにはぐったりと倒れ込んでいた。
どうして、兄のカインがいるのか。
なぜ、熊が倒れているのか。
一体何が起こったのか。
「重い。いつまで乗っている気だ」
疑問が際限なく溢れている間にも、耳元から地鳴りのような声がした。
「あ...っ!ごめんね!......それにしても、なんでクマが倒れているの?」
アベルはすぐに身を起こし退いたあと、仰向けに倒れるカインをそのまま両手で引っぱり上げた。
苦しげに咳き込むカインが膝を伸ばし、すぐに眉間に皺を寄せた。
「オレが仕留めたんだよ」
「え...!?カイン兄さんが...?」
よくよく見れば伸びている熊の側にはカインの農具───フォークが落ちていた。その先端には血がびっしりと染まっていた。あれで熊を倒したんだろうか。
「オレはずっとあの熊を奇襲する機会を狙っていたんだ」
「そうなんだ......、ボクはてっきり、兄さんが水やりに行ってたのかと」
「ちげぇよ。近くで熊の鳴き声が聞こえたから畑の近くで身を隠していたんだ。まさかお前が先にオレの畑に来るとは想定外だったが、結果的に囮になってくれた」
「え?カイン兄さんずっとあの場にいたんだ。気づかなかった......それより、ぼくが囮って......」
「お前にそのつもりはなかったと思うが、逃げ回るお前が熊の注意を引きつけたことで、最後にオレの攻撃が届いたんだよ」
熊は基本的に一つの目標にしか攻撃出来ない。害獣退治を日常業務としているカインはその習性を利用して熊の撃退をある程度心得ている。
とは言っても、“熊の不意をつく”のが絶対的前提条件となる。熊との真正面の対立なんて、いくらカインでも無理な話ではあったのだ。
「幸い熊はすっかりお前に夢中のため、こちらには全然気が付いていない。だから、オレはその隙に熊の後ろに回り込んだんだよ」
アベルの矢の攻撃のよって熊が完全に見境なしの興奮状態に陥り、立ち上がった時こそがカインの狙っていた機会だった。
飛び出し、あらかじめ潜伏時に持っていた農具のフォークを振りかぶり、立ち上がった状態の熊の後ろ足の踵の上、腱の辺りに叩きつけたのだ。
「えっと、なんで熊が立ち上がった時がチャンスなの?」
アベルの質問にカインは、ひどく面倒臭そうに後頭部を掻くが、意外にも律儀に答えてくれた。
「熊は後ろ足で立ってしまうと後方への攻撃手段を持たないし、俊敏に振り返る事は難しくなる。立ち上がってさえすれば後ろからは攻撃し放題になるのだ。こんな巨体なら余計だろう」
固い毛皮で厚い皮膚だったが、カインの渾身の一撃はなんとか毛皮を切り裂いて肉へ到達した。そこを素早くも強い力で二度、三度とぶっ刺す。
数度打ち付けるとブツンという感触がして熊の後ろ脚の腱が切れた。熊は片足の腱を失って立っていられなくなり、バランスを失って前方に転倒する。
その隙をカインが見逃さない。
今度は思いっきり熊の頸筋にトドメといわんばかりに強く、重く、突き刺した。
重い一撃ではあるが、忍耐力が極めて高い熊だ。念には念を入れることに越した事はない。
しかし、
「その時にお前がヘマさえしなきゃな」
完膚なきまで仕留めようと、あと何撃か加えてようとした時に、アベルが誤って木から落ちてしまったのだ。
考えるよりも体が動いた。
カインは舌打ちを放つと、手に持つ凶器を手放して、アベルの元へ───。
「そっか。あの時ボクは兄さんに受け止めてもらったんだ。......ありがとう。おかげでぼくは命拾いしたよ」
一連の流れの状況を、アベルはようやく理解した。兄に助けてもらったことを素直に感謝して喜ぶも、
「・・・・・・でも、どうして助けてくれたの?」
「......あん?」
通常のカインなら、アベルがどうなろうと、熊の徹底駆除を優先しただろう。
だが最終的にカインは木から転落するアベルを助けることを選んだ。
ほんの僅かな期待が込められた問い掛け。そんなアベルの心理見抜き、カインは「はっ」と久々に鼻を鳴らす。
「別に。お前のためじゃない。あのままお前を見殺しをしたら、父と母から責められるだけじゃ済まないからな」
感情を無理して凍らせているのだとか、そんな表現とは程遠い、ひどく冷徹で当然の言動。
だがそんな相変わらずな兄を見るのも、とても久しく感じると同時に、アベルは場違いな安堵感を覚えた。
「──それでも、ありがとう」
兄がなぜ自分を助けることを優先したのか。どんな理由があるにしろ、カインの助けがなければ、今頃は間違いなく転落死体となって熊の養分になっている事ことにアベルは慄いて身震いした。
「カイン兄さんは......、熊が怖くないの?」
「初めてのお前とは違って、オレは何度か見た事はある。回数はそう多くはないが、あいつらは稀に下山してオレの畑を狙うからな。耐性はお前なんかよりかはある」
「それでも熊に攻撃する時のあの躊躇なさはすごいよ...あれは、そう簡単にできるものじゃないと、ぼくは思うよ」
自分はパニックに陥って攻撃が当たらない上に、最後は臆して逃げることしかできなかった。アベルは兄の果敢さに内心舌を巻かされた。
「......畑仕事はどうしても獣害問題が付き纏う。熊のことだってその恐ろしさはうんざりするほど父からを吹き込まれた。対策法も撃退方法も色々と教わった......不本意だがそれが役に立っただけだ」
そう答えるも、妙だとカインは内心疑問に思った。
熊はライオンやトラと同じ猛獣であるが故に、「肉食動物」と思われがちだが、本来は山の中にある野草や木の実で充分な生活できるほどの「雑食動物」なのだ。
そんな熊が下山するのは山の食べ物が少なくなる時だけ。カインの畑に果物や野菜があることを知ってしまった熊は時に少々のリスクを冒してでもそれを食べようとすることがあるものの、本来クマはとても臆病な生き物で、人間がいると分かるだけで避けて逃げることの方が多い。
たとえ逃げなくとも、それは最終的にカインが畑周辺に張った罠だけで撃退できることがほとんど。
「正直な話。あれほど攻撃的な熊はオレも初めて見る」
「え...?そうなの?クマはとても凶暴だから、人間では手に負えない猛獣だってお父さん言ってたよ?」
「極限までに腹を空かせているか、あるいは怒らせたら確かに厄介だ。だが、基本熊は臆病だ。特段理由がなければお前を見かけたら普通は静かに逃げるはず......」
なのに、アベルの射る牽制の矢だけで、あれほど執拗に人間を襲うなど───その熊の生態から考えられないような大胆不敵な「犯行」を繰り返すのはなぜなのか。
獣の殺意は食欲起因であれば理解可能。やはり冬眠からの目覚めによる極度の飢えからくるものなのかと思った。
だが、
「あのクマはそんなにお腹空かせては、いないと思うよ」
カインの推測を否定する言葉がアベルの口から出た。
「なぜそう思う」
「えっとね、実は──」
詳しく話を聞けば、どうやらあの熊はこの畑にたどり着く以前には、一度アベルを襲った前科があるらしい。
その時アベルが落とした数々の動物の肉で腹ごしらえしたそうじゃないか。
(飢えが原因ではないのなら、なぜ...あれほど凶暴化している?)
そのリスクを上回るだけの魅力がカインの畑にあるからか、それとも───、
「・・・・・・」
「カイン、兄さん?」
「まぁいい。それよりも、お前はここへ来る前に一度あの熊に遭遇したのか」
「あ、うん。次遭遇したらさすがに命の危険を覚悟したけど、でもぼくでも囮くらいに役に立って良かったよ!」
相槌の代わりに落ちたのは、ひどく短いため息だった。カインの物憂げな背中から苛立ちが僅かに立ちのぼる。
「さすがの能天気なお前でも命の危険を感じたか。それを承知で来たと言うのなら......聞かせてもらおうか。──なぜ、ここへきた?」
「え?」
非難の色を浮かぶその双眸が、アベルの胸を軽く衝いた。
「お前は今日父と狩りに出かけ、その後一度この熊に襲われたはずだろう。無事で済んだのに、なぜ性懲りも無くオレの畑へ来た?」
「そ、それは...、カイン兄さんが熊に鉢合わせするんじゃないかって、心配だったから...っ!」
「・・・・・だが、オレはいなかった。近くで身を隠していたからな。オレがその場にいないことをお前は確認したはず、なぜそこで帰らなかった」
カインの厳しい追及の視線にアベルは押し黙る。
カインの視線の怒りが示すのは、わざわざ自ら不必要に危険な場へ飛び込んだアベルへの糾弾だ。
「.......熊が畑の作物に夢中なっている間、お前は逃げればよかったんだ。なのに、何をトチ狂ったのかお前は熊に向けて矢を射て、あろうことか挑発までした。一体、お前は何を考えているんだ?」
淡々とした響きが差し込まれ、アベルは前方に視線を送る。
見れば、カインの両手は固い拳を作っていた。だが強張る声色とは違って、その顔には一切の表情が浮かんでいない。
「確かにお前が囮になったから、結果的にそれのおかげで熊を倒せたからよかったものの、一歩間違えればお前は熊に喰われていたんだぞ?なぜ....、逃げなかったッ」
「に...、逃げたくなかったからに決まってるじゃん」
「は?逃げたくなかった......?明らかに怯えて震えていた奴が、どの口を」
問い返すカインの低い声に肩がびくっと跳ねた。それでも、自らを鼓舞するためにアベルは懸命に声を張った。
「──ッ、そ、そりゃこわかったよ!?本物のクマなんて今まで見たことなかったし、あんなに大きくて、強くて、ぼくが想像してたのよりも全然恐ろしい生き物だなんて思わなくて...っ!で、でもね──!」
「そんなことよりも、.......っ、カイン兄さんの畑が熊に台無しになるのが嫌なんだっ!」
「...またお前はしょーもないことを...お前にはなんの関係もないオレの畑なんかのために、命の危機に晒すなんてバカバカしいにも程がある。はっきり言って、救いようのないバカだ」
「......“なんか”?」
感情の篭らない声。
それを耳に、アベルの中に滅多にない怒りの感情が津波のように押し寄せる。
わかっている。今この場で問答している場合ではない。しても不毛な言い争いにしかならない。わかっている。けれど、
「──どうして、そんなことを言うの?」
気がつけば、カインの胸ぐらを掴んでいた。
アベルの金色の目には、静かな青い炎が燃えていた。しかし、それでもカインはやはり顔色を一つ変えることはない。
「なんだ...図星だから怒っているのか?だって事実だろう。たとえオレの畑が台無しになったところで、オレには《神の豊穣がある。いざというときは、畑なんていくらでも簡単に復元できる。それくらいこと......いくらアホのお前にだって知らないはずないだろう?」
カインの言葉はさらにアベルの激情を昂らせた。
「ッ、そういう問題じゃないでしょうッ!?カイン兄さんの分からず屋っ!!!」
腹の底から声を出し、随分とはっきりと物を言うようになったアベルに、カインは内心僅かに驚愕していた。
「────── 」
カインすぐに言い返さないは、まさかアベルから反論の言葉を受けるとは夢にも思わなかった証拠だろう。
きつく眉根を寄せてアベルを睨みつけ、小さな動揺を悟られないようにカインが黙っていると、アベルが口を開いた。
「───カイン兄さんは、言ってたよね」
次に紡ぎだされた言葉の列は、予想外のものだった。
『楽して手に入る収穫物なんてつまらんだけだろう。苦労してこそ収穫した時の達成感があるというものだ』
「──!」
「カイン兄さんって本当はとっくの昔に《神の豊穣》を使っていないんだよね?」
カインの眉がピクリと動いたのは気のせいではない。
「ここにある畑はカリスマじゃなくて、すべてカイン兄さんが自分の手で一から育てたんでしょう?《神の豊穣》さえ使えば簡単に極上の作物を一気に創れるのに、そんな神の力に頼りたくなくて、すべて自分の力で育てたいほど拘っていて──そんな何よりも掛け替えのない畑を“なんか”だなんて言わないでよッ!」
アベルが珍しく怒ったのは、自分の命懸けの行動を蔑まれたからではない。──カインが何よりも大事にしているものを他のでもない彼自身が軽視したことだった。
「だから?だとしてもお前には関係ないことだろ。さっきから回りくどいんだよ。オレはそんなの、」
「聞いてよ!」
アベルもまた、カインがしたように最後まで言わせず断ち切ってくる。
「関係ない関係ないって、そうやってぼくの気持ちまで勝手に決めつけないでよ!」
これまでにないアベルの悲痛な心からの叫びは、カインから反論の意力を跡形もなく奪い去った。




