17話『楽園追放』★
人類の愚かしさを
神は決して許しはしない。
過ちの代償は、必ず払わされる。
──もっとも、おぞましい形で。
「エデンの外は今の君たちには想像もつかない苦難が溢れ返っている状態だ」
淡々と言葉を綴るミカエルの説明は全くアダムの耳に入らなかった。
「常に過ごしやすい環境にある楽園とは違って、外の地上は寒暖差が激しい。その毛皮を神からの最後の慈悲だと受け取り、出て行くといい」
先程からアダムはただ呆然と両手にある毛皮を見つめ、爪は食い込むほどそれを掴んでいた。
つまり、これは楽園にいた人間が新しい道へと踏み出した証であり、今までの平穏な日々との────決別の証でもあった。
「私たちが、罪を犯したから?だからアダムにとって大事な楽園の動物たちも犠牲になったの?」
エバの問いに対してもミカエルは答えを与えなかった。ただ簡潔に、
「彼らは“糧”になったのだ。君たちのこれからの“生”のために」
それが何を意味するのか悟った途端、アダムは生まれて初めて体験する抑えきれない程の感情が嗚咽になる。
「…っ、….くっ」
頭を垂れると、草の地面にポタポタと透明の雫が零れ落ちる。必死に堪えに堪えてい悲しみがは堰に切ったように止まらなくなる。
「あぁああああああぁッッ──!」
やがては、ありったけの号泣を空へとぶつけた。認めたくない現実を全身で拒否した、こんなことがあるものか、と。
アダムは崩れるようにその場でしゃくりを上げて泣き続けた。
すまない!すまないすまない……、
すまない!!
自分の体を抱き締めるように交差した腕の中の毛皮に顔を埋め、アダムは我武者羅に犠牲となった動物たちに謝った。
そんなことをしても亡くなった命は還らないことを知っても、アダムは謝ることをやめられなかった。
遊びや気まぐれで共に居たのではなく、心から大切にしていたものを失った──そんな表情で泣き崩れるアダムは、以前の彼では考えられないほど取り乱していて、それをミカエルはただ静観するだけだった。
「……っ、こんな……、ひどい仕打ちがっ、お父さまの愛だとミカエルは言うのね?これじゃただの罰と変わらないわ!」
泣き崩れるアダムをエバはぎゅっと抱きしめずにはいられなかった。そして、どこか非難めいた視線をミカエルに向けた。
一方、ミカエルは吐息に失望の色を乗せて、エバの無理解に落胆を示す。
「君たちは罪を選んだ。罪には、贖いが必要なのだ」
「でも……っ、私たちはちゃんと罪を償ったわ!それが“楽園の追放”のはずよ。楽園の動物たちは関係ないじゃない!」
「エバ。何をもって贖罪とするかは全ては神の御心次第。君たちが決めることではない」
エバの訴えを聞き咎めて、ミカエルはアダムとエバを見下ろしながら告げた。その声音は明らかに険しさを帯びていた。
「ただ君たちが悔いを改め、これからも神を信じ奉るのであれば、いつしか赦される日も来る、かもしれない」
「そんな……別に私たちは、私は赦されようだなんて──」
「口を慎んだ方がいい。エバ」
赦されなくても構わない、というエバの発言が最後まで続くことを許さなかった。
彼女の言葉を遮ったミカエルの声には強い牽制を孕んでいた。
「全ては我が主のご意志によって決定される。もとより君たちの意思など関係はないのだ」
「……そうね。そうだったわね。お父さまは私たちの意思なんて最初から必要としなかったものね」
エバの口調は変わらず丁寧だが、どことなく不満げで悲しそうな響きが残っていた。
その直後には柳眉を逆立てて反論するかと思ったが、意外にも彼女は紅唇を結びそれっきり黙りこんだ。
重々しい沈黙が流れ、冷たい風だけが鼓膜を叩いていた。
そこで口を開いたのは意外にもアダムだった。
「……エバ、いいんだ。ミカエルは何も間違った事を言っていない」
「アダム……!」
そこでアダムは片膝を立てて、なんとか立ち上がろうとする。
頬には涙の筋が残っていた。
ひどく乱れた感情をなんとか整え、アダムは心配そうにこちらを伺うエバに精一杯笑顔を見せた。
そのまま彼女の脇を抜けて、まだおぼつかない足取りミカエルへ歩み寄った。
「すまない。少し、気が動転した。元はと言えば、神の言いつけを守らなかった私たちが悪いのに、それを神に怒るのはお門違いだもんな」
「……アダム。君は身を弁えているようで何よりだ」
「私は受け入れるさ。そしてこの子たちの犠牲を無駄にはしない。」
先程深い喪失感を無理やり抑え込んで、アダムは穏やかにかつて動物たちだったその毛皮に視線を落とす。
そして、一度両手でキツく握りしめながら、慣れない動作でそれを身につけた。
「だから、これを着るよ」
「……いいの?アダム」
「──自分の罪をちゃんと背負うさ」
「そう……。アダム、あなたがそう決めたのなら、女の私もそれに従うだけよ」
「ありがとう、エバ」
アダムの意思を尊重し、エバも同じように毛皮を着た。アダムは優しく微笑むと、自分の額をエバの額にそっとつけた。
それはまるで誓いの儀式。
「それでいい……」
ミカエルが、そんな彼らの決意を見守るようにそう言い放つ。
その一言には、今までのような冷徹さはなかった。ようやく心から真っ直ぐと自分たちを見つめて言ってくれたミカエルに、アダムは小さく息を呑んだ。
それから、微笑みかける。
「ミカエルにも、礼を言うよ」
「なぜだ?私は君たちに利益をもたらすようなことなんて何一つした覚えはない」
「ははっ、君はわかりづらいけど、とても優しい天使だってこと俺はわかっているさ。ずっと心配してくれたんだろう?いや、今も心配している。俺とエバのこれからを」
アダムは顔をあげて、ミカエルに微笑んだあと、言葉を続ける。
地平線も朝の色に染まり、ミカエルはアダムの言葉を聞いていた。
「君が厳しい言葉を言うのはただの神の教えだけではない。俺たち人間が少しでも早く神から赦される日が来るように、ミカエルなりに俺たちのことを思って導いてくれようとしたのだろう」
「……君は、私を過大評価しすぎている」
どこか困惑を隠せないミカエルの様子に、アダムはかっははと笑うと言葉を紡いだ。
「そんなことないぞ?真っ当な評価さ。今の私にはわかる。なんだって私は──」
【知恵の実】を食べたのだから、とその続きを言おうとしたけど、その言葉を発するのはさすがに場違いな気がして、アダムは口を噤む。
「ごめんな。ミカエル。君を裏切ってしまって」
「……なんのことだ」
「私たち人類を信じていたのだろう」
「────」
「ラファエル先生から色々と聞いたよ。天界の反乱のこと、その原因も」
「────」
「そして、ミカエルとあのルシフェルという天使に何があったのかも、」
「────!」
思わぬアダムの言葉に、ミカエルは息を呑んだ。動きが明らかに一時停止し、彼は佇む姿勢のまま、愕然とアダムという存在を凝視する。
「それを聞かされて、今日ここでまた君に会ってやっぱりそうなんだと思った。だって、初めて会った時に比べ、ミカエル少し変わったよな」
「……、」
一見すれば以前と変わらないミカエルの雰囲気だが、よく観察すればその態度には少しばかり冷たさを帯びていた。
「ミカエルは大切なものを切り捨てるまで、人類の存続を守ってくれたのに。その恩を仇で返すような形となって本当に申し訳なく思う……」
「………….」
人類の誕生が主なる火種となって、ミカエルは己の半身でもあるルシフェルと対立し、最後は彼を堕天させ、地獄のドン底へ追放するまでに至った。
それ故、アダムたちが神に背く行為は、そんなミカエルの信念と決意そ踏み躙るに等しい。
人類は見込み違いだったと憂うだろうか、仕方ないと見限ったのだろうか。
胸が痛まない訳はない、だがそれを越えるくらいに強い想いがアダムにはあるから。
「すまない。ミカエル。そして、ラファエル先生にも謝ってくれ──私たち人間は君たち天使が祝福するような【神の至高なる創造物】になれなかったよ」
「……」
終始無言を貫くミカエルの冷然とした態度にやるせない思いに駆られたが、ミカエルがルシフェルと袂を分かつに至らしめた原因の一端を担った人類にそんな資格はないと、唇をかみ締めて、ようやく顔を上げて歩き出した。
久しぶりの再会の、あまりに苦すぎるその味を噛みしめながら、黙って踵を返して楽園の出口へ歩くしかなかった。
「待て」
不意にミカエルの制止に、アダムとエバは立ち止まり振り返る。
「これはほんの予言だ。君たちの慰めになるかは、わからないが」
「ミカエル…….?なにを、──っ!!」
刹那、アダムとエバの脳裏には数多の映像が駆け巡る。
──未来を、見たのだ。
後世の罪深さが、人類をリセットする大洪水が、終焉と再生が、別れと出会いが、様々な形で繰り返し提示される。
ああ、未来には悲しみと苦しみ、そして絶望しかないのか。
しかし、最後には、
「受肉した神の御子が人類の堕落を償い、最後は救済を齎すだろう。気が遠くなるほどの長い年月となるが、君たちの原罪もようやくそこで清算されるはずだ」
神の律法への服従というアダムにはできなかった努めを、子孫の「イエス」がいつか救世主となりアダムに代わって果たされることになる。
「人類の祖よ。君たちは定められて生を尽くすべし」
目が潰れるほど、眩くも聖なる光を放つ翼を大きく広げ、ミカエルは宣告した。
──ミカエルは最後に希望を与えてくれたのだ。アダムたちが未来に絶望して挫けぬように、強く生きるようにと。
「……エバ、行こう」
「……さようなら。ミカエル」
人類の男と女の眼からは、自ずから涙があふれ落ちるも、すぐにそれを拭いゆっくりと歩むを始める。
やがて、寄り添う二人の眼の前には、大きな門──「楽園の門」が待ち受けていた。
この向こう側にはいつか人類の安住の地となるべき世界が広々と横たわっているのだろう。
見送る姿勢のミカエルに対して最後にアダムとエバは頭を下げた。次に二人は手に手を取って、門を越える。
彷徨いの足取りが重くとも、それすらも甘んじてエデンの楽園を通って二人だけの寂しい道を辿っていく。
そこからは《神の知恵》こそが、人類の導き手である。
ついに楽園から姿を消した二つのシルエットを、それでもミカエルはただ無言で追い続けた。
◇◇◇◇◇◇◇
「アダム……エバ……」
人間がいなくなったところですっかり沈黙に支配されたエデンの楽園は、もうただの思い出の箱庭と化した。
変わらず花咲く草原に佇むミカエルはもうこの場にはいない二人の人間の名を呟くも、その声はもう届くことない。
「神よ……これでよろしかったのでしょうか」
澄み切った青空を見上げる、一人の熾天使。その目はどこか昏く翳っていた。
「ルシフェル……」
その時ミカエルの脳裏を蘇ったのは、ルシフェルの一言だった。
『主はいつかきっと後悔する日がやってこられる!人間はいつか必ず貴方を裏切り───』
光り輝き、一切の不浄を絶対に許さなかったのがルシフェルだった。彼にとって人間は「神の恵みに価しない汚れたもの」だと思っていた。
だからこそかつてのルシフェルは、最初から人間の堕落を強く訴えていた。
『なぜこのルシフェルが人を“欠陥品”呼ばわりをするかは、所詮今の貴様らでは到底理解できぬ』
しかし、天界の誰もがルシフェルの主張を受け入れなかった。
神ですらも。そして、ミカエルも。
『身にもって知るといい。いずれはその時が来るだろう──案外そう遠くないうちにな』
結局、あの堕ちた熾天使の予告通りになった。思えば、ルシフェルはこの顛末を予期していたのではないか。
この失楽園の悲劇を知っていて、あるいは初めから最後まで知っていたとすれば、なぜ人類が神に叛く未来を彼は知っていたのか。今更そこに疑問を感じたところで、真実は闇の中。
今ここでポツリポツリ、と言葉を紡いだところで、今となっては誰からも返事がないことは分かりきっている。
天界を見限ったルシフェルはもう自分の知らないところへ行ってしまった。
ミカエルは居た堪れずに深く伏せた。
『──ただ、変えるべき真実を見つけただけのこと』
耳の奥に今も焼きつく、あの反乱の最中でルシフェルが残した呪いのような言葉。
「変えるべき、真実……」
それは、果たして人類と何の関連性があるのか。
一瞬それが心の奥底に押し込められた不安が引き摺り出されそうになるも、ミカエルは頭を左右に振り、それを掻き消す。
──ともあれ、
「アダム、エバ。我々天使はいつでも人類を見守っている」
ミカエルのすべき事は変わらない。
「──君たちに、幸あれ」
それが我々天使の使命であり、我が主の望み。
楽園の門を越えると、
そこには────。




