16話『原罪の始まり』★
アダムとエバは楽園から追放されることになった。
あっさりと神に見つかってしまった彼らは潔く神の前に姿を現したのだが、イチジクを身に纏う二人は、【知恵の実】を食べてしまった事をすぐに見抜かれてしまった。
案の定、神は大層お怒りであった。
禁忌を破り神の逆鱗に触れたヒト──人間には神の恩恵を授かる権限などあるはずもなく、神はアダムとエバを楽園から立ち去る事を命じ、そして各々に「罰」を与えた。
男であるアダムには命を終えて再び土に還るまで、一生土を耕し自分で働いて食べ物を得る苦しみを、女であるエバには産みの苦しみを課せられた。
なお、人類に罪を唆したヘビという動物は皆四肢を奪われ、死ぬまで地面に腹をつけて這いずり、塵を食べて生きるよう命じた。
善悪を知る知恵の実を食べた人間は、知識を得て恥や分別を身につける代わりに、生きるのが厳しすぎる環境の中で多くの苦悩を背負うことになった。
そして、人類の何よりの最大の罰は「いつか必ず死ななくてはならない」ということであった。
二人は二度と楽園にいた頃には戻れない。
◇◇◇◇◇◇◇
エデンの楽園から離れる前に、エバは樫の木の丘へ向かった。慣れ親しむこの場所に居られるのもこれで最後なのだから。
目の前に広がるいつもの楽園の新緑の光景だが、それは遥か下。落ちれば確実に怪我では済まされない高さのある崖の縁に、エバは一人で佇む。
そこからはいつも通りあの知恵の木がよく見える。あんなに焦がれた知恵の実を生やす木が、今となっては他の果実と何ら変わらなく感じた。
(楽園の外って、此処とは想像もつかないほど過酷なところだとは聞いたけど......)
それでもエバにとってはもはやこの楽園も、知恵の木にも不思議と未練はなかった。
ちなみにアダムは行きたいところがあると言ってこの場にはいない。
「エバ」
突如として降って来た声に、エバは沈みかけた思考を引き上げて視線を向ける。
「──ミカエル。そっか、......もうそんな時間なのね」
「ああ。私はここで君たちを見送ろう」
エバに声を掛けてきたのはミカエルだった。
彼は神に罪を犯したアダムとエバをエデンの楽園から追放するようにと命令された。だから此処にいる───いわば、見届け人のような役割だった。
「無知とはある意味では純粋さの象徴である」
虚ろな瞳にエバを映して、やけに乾いて聞こえる声でミカエルは言った。
「蛇の姦計により【知恵の実】を口にしたヒトは無知ではなくなった。君たちは神の言い付けに背くと共に、楽園の住人の資格である純粋さを失ったのだ」
「ええ......それが、当然の処罰でしょうね」
「──何故だ」
事も無げに受け入れるエバに、ミカエルの声が明らかに硬くなった。
それに対してエバは弱々しく眉を下げていたが、ミカエルの目を見返すことを躊躇しなかった。その眼は真剣な光を帯びる。
「この世界で君たちほど神に愛された創造物は他にはない。それなのに、何故神を裏切るようなことを──」
ミカエルの表情は相変わらず覆面で見えないけれど、その厳しい声色からはしてきっと歪んでいるに違いない。
この一連の流れからして訊かれる事は分かりきっていた。思い当たる節に行き当たるエバは嗚呼、と声を上げる。
「その質問をされるのはミカエルで三回目ね。......お父さまは私とアダムに嘘をついたからよ。私たちヒトを思い通りに支配しようと、」
「エバ。それは誤解だ。いいか、よく聞くんだ。知恵を持つことは必ずしも良い事ばかりではない。善悪を判断できるようになれば、君たちはいずれこの世界に蔓延る醜い一面をも知ってしまうことになる」
「......」
「そうなれば、世界のそう言った醜い部分は容赦無く君たちを傷つけるだろう。だが、神はそんなことなど望んでなどいない。人類にはいつまでも楽園で幸福と恩恵を享受して欲しかったのだ」
「だから自分の意のままに、何もわからないヒトをあの楽園に飼い殺すのが神の愛というの?──ごめんなさい。私には理解できないわ」
心の底から分からないとでもいうようにエバは首を控えめに左右に揺れた。それでもミカエルの咎めるような視線を弱めない。
「【知恵の実】を口にしたとしても、主の御心を理解できないというのか。それはいかに愚かな事か」
「そうね。ミカエルの言う通り、私たちは愚かだった。ヒトは元は愚かに創られたのでしょうね。だからこそお父さまは私たちが愚かではなくなるのを恐れた。それは何故だと思う?」
「......」
押し黙るミカエルに、エバは低い位置から意味ありげな上目遣いで彼を見つめた。
「私たち人が知恵を身につけて自分の意思を持ち、絶対的存在である神に逆らうようになるからなのよ」
「......それは否定しない。事実として、君たちは神の言いつけを破り、己の意志で【知恵の実】を口にしてしまったのだから」
「ミカエル。私は思うの。私たちは愚かだから、神の御心が分からないのではなく、むしろその逆なのよ。私たちが愚かでなくなってしまったから、善悪を区別できるようになったから、神の考えが絶対に正しいかわからなくなってしまったのだと」
一息、単語一つ、重ねられる言葉のたびにドロリと濁ったものが胸中に溜まっていくのを感じていながら、ミカエルは鉄の意思でそれを封じ込めた。その代わりに痛烈な批判をエバに向ける。
「その思い上がり自体が“愚か”だと言っているのだ」
「......そうね、神に絶対忠実な天使からすれば、今の私たち人間は救いようがないほど愚かに見えるでしょう。だって、あなたにとっては如何なる時も神が一番だものね」
私も初めはそうだったけれど、と後付けでエバは小さく呟いた。
「でも、ごめんなさい。今は違うわ」
エバはあの赤いヘビに出会ったことによって世界が変わった、見方が変わった。そして、新しい道を切り開く力を得たのだ。
「今の私にとって一番大事で、愛しているのはアダムなの。──お父さまではない」
やがて、彼女はゆっくりと振り返り、黄金に光る目でミカエルを捉えた。
エバは自然と微笑んでいた。
意識したわけじゃなく、ごく自然と。
もうそこには純粋無垢でおどけない雰囲気はなく、切なくも怜悧で鋭い意思が宿っていた。
「ミカエルにだって大切なものはあるでしょう?誰にも譲れない、大切なもの」
「───!」
それを受けたミカエルの体が、心が、魂が一瞬微かに震えた。
「その大切なものを守るために、手を汚しても構わない。たとえそれが許されないことだとしでも、そう思わない?」
絶対的な信念が伝わってくるエバの言葉に、既視感を覚えたからだ。
『貴様は己の信念のためならば、禁忌を犯す覚悟はあるか?』
そうだ。それはかつて、ミカエルがルシフェルから投げられた言葉の本質によく似ていた。
社交殿にてミカエルと密談を求めたルシフェルはその時にだけ、叛逆者としての片鱗を覗かせて神への真実の愛の心構えを語ったのだ。
あのとき、それを聞かされたミカエルはルシフェルを「神の意に逆らう不届き者」と切り捨て、真剣に彼と向き合ってはいなかった。
しかし、今ならあの時に聞かれたルシフェルの言葉の意味をようやく少しだけ理解できた気がした。
ミカエルは静かに目を伏せ、思考の糸を手元に繰り寄せる。
ルシフェルも最後まで「神以外のものに忠誠を誓わない」ことに固執していた。
だから彼は己の中の「神」を守るために、片割れの兄弟を裏切り、同胞を葬り、神への反逆という大禁忌を犯すことを選んだ。たとえそれがどんなに矛盾していて、周りの理解を得ずとも。
「────」
沈黙。沈黙。沈黙。
言葉を封じ込め、歯を噛みしめて、ミカエルは考えた。エバはそんなミカエルに何も言わず、黙って言葉を待っていた。
やがて、ミカエルは重たい口をようやく開き、
「残念に思うよ。エバ。私には君の考えが全く理解できない」
「......そう。私もとても残念だわ。ミカエル」
期待はずれの答えに肩を落として、エバはさらに足を一歩前に進める。
彼女の白銀の長い髪が風に靡き、日明かりが怪しく輝かせる。そんな彼女にミカエルはさらに問いかける。
「愛しているのならば、何故愛する者に罪を犯させる真似をする?」
「ふふ、あなたも人間になればわかること......かもしれないわね」
そう呟くエバの声は柔らかいのに、どこか冷たかった。天使のミカエルには分かってもらえなくて構わないと言いたげな、突き放すような色があった。
その身勝手さに、ミカエルの心中がまた穏やかでなくなる。
「......君は、君たちは、何もわかってなどいない。君たちが、犯した罪の真の意味を──」
エバが導いた結論に、ミカエルはさらに追及しようとする。
しかし、その言葉は途中で遮られた。彼がエバを説諭する前に、まったく想像のしていない方向から横槍が入ったからだ。
それは、
「お〜〜い!」
空間に響き渡るのは、荒々しい足音。それに伴う慌ただしい調子で紡がれる声は、この悲壮な雰囲気とは明らかにかけ離れている。
「あらあら。忙しないわねアダム。そんなに息を切らしてどうしたの?」
「あまりに君を見つけられなかったから、必死に走って楽園中を探し回ったのさ!」
汗を掻き、息を切らしていたアダムは遠くから丘を駆け上がり、エバに抱きついた。
「ふふ。アダムったら大袈裟ね」
「大袈裟なものか!私はてっきり、君がいなくなってしまったかと」
「あら、どうしてそう思うのかしら」
「それは、その......、【知恵の実】を食べた罰で、君まで取り上げられたのではないかと思って、」
「うふふ。おかしなアダム!私たちの罰は二人揃っての楽園からの追放なのよ?そんなことある訳ないのに......」
そう言いつつも、エバはどこか嬉しそうだった。なんとも言えない妻との温度差にアダムは肩を落とした。
「それは、そうだけど。よくよく考えればそれだけ俺は重い罪を犯してしまったんだなと。まぁ、今更懺悔なんてもう遅いと思うがな」
「......」
「楽園の追放は楽園にいる動物とも離れ離れになる。それが結構思った以上に俺には堪えててな」
哀しそうに俯くアダムに声を掛けたのは、
「──お別れはもう済んだのか?アダム」
「お別れ?アダムもしかして用事って」
今まで沈黙を貫いていたミカエルが低い声で横から確認すれば、エバはもしやとアダムに視線そ向ける。
「......ああ。此処にいるすべての動物たちに別れを告げてきた。......もう、二度と会えないからな」
そう言ったアダムの顔には笑顔がある。だけど、それは明らかに無理をしていると分かるような、空元気で編んだ笑顔だった。
「──もしかして、後悔してる?」
「か、勘違いしないでくれ!別に俺はっ、エバを責めている訳ではない!ただ、」
「うふふ、冗談よ。これからお父さまなしで、ずっと私と二人で生きていくことを覚悟しているのちゃんと知っているのよ」
「エバ......」
二人の間にはもはや誰も入る隙がないほど強い何かが結ばれている。もはやこれ以上何を言っても意味はないだろう。
そのやり取りを見ていたミカエルは賛同の声を投げた。
「エバの言う通りだ。アダム。神は君から彼女を取り上げたりはしない。そこは安心していい」
「ミカエル......」
「どんなことが起きようとも、死が分つまでは男と女は共に苦難を乗り越え生きる──それが本来神が望んだ“夫婦”という形であることに変わりはない」
「......ありがとう」
「我が主の教えを説いただけだ。それと──」
ミカエルが右の掌を空に向けると、空中から黒い物体がぱっと現れ、ゆっくりと浮遊しながらアダムとエバの目の前に止まった。
目を凝らし、それの正体を認識した途端二人は表情を変えた。
「──!これって......もしかして!?」
「そんな......違う、よな?ミカエル」
瞠目するエバと、縋るように否定を求めるアダムはミカエルに視線を投げる。
「────」
しかし、ミカエルの無言の返答でその願いが崩れ去ったことも、それが無意味であることも理解せざるを得なかった。いや、始めから理解しているのだ。ただ、それを受け入れたくないだけで。
「神からの愛。受け取るんだ」
泣きそうに顔を歪めるアダムとエバに、ミカエルが送る言葉は一つだけ。それが彼らの心を引き裂くには充分だった。
「──あぁ!!なんてことだ......!!」
アダムはひどく震えながらそれを掴み、大事な宝物のように胸に抱え込むと膝から崩れ落ちた。
そんなアダムを見て、ミカエルはもう一度「受け取りなさい」と突きつけるように言った。
促されるようにアダムは恐る恐ると胸の中にあるものをじっくり見た。
それはゴワゴワとした毛に覆われていた。手に触れるととても触り心地よい。だがそれが余計にアダムを追い詰める。
「なんて、酷いことを──」
この感触をアダムはよく知っている。
だってこれは──。
「この楽園に生きるさまざまな動物たちの毛皮から作られた衣服だ」
原罪は、既に始まっていた。




