15話『背徳の戯れ』★
禁断な所業が、この瞬間はどこか神聖な儀式に思えた。
ゴクン・・・
最初の罪を飲み込んだ音が聞こえた。
その直後、
禁忌を破った人類を強く非難するかのように、大地は苦しみ悶える如くその奥底から震え慄き、大自然が呻き声をあげた。
ヒトに──人間に死を齎す原罪が下されたことを嘆き悲しんだ。
しかし、アダムは頓着することなく、無心に残りの罪の味をまた齧っては、咀嚼した。
クククと、何処かで誰かが笑った。
女の震えは既に止まっていた。
「これで、あなたも人間になれたわね」
【知恵の実】の欠片を飲み込んだ後再び顔を上げた時、エバはまるで別の生き物のようにどこか歪で神聖なる微笑みを浮かんでいた。
「これから私たちずっと一緒だね。アダム」
永遠に。
口元で交わる両手から隠しきれない──半月を象った唇から漏れたどこか恍惚に浸る昂りの声からは、ついさっきまで露わにした哀しいほどまでに儚くも弱い彼女はもうどこにもいない。
その昏き片目からは一筋の涙が流れる。
「エバ......、」
もうあの頃の彼女は、完全に消えてしまった。そう思った時だった。
「…ッ、く…っ」
───刹那、心臓の鼓動とは違う衝動がドクリと胸を打ち、咄嗟に胸元を押さえた。
(なんだ、これは!)
世界の色彩がぐるんと反転した。視野が一気に広がり、頭もズンズンと冴え渡る。
アダムの目は一瞬虚になった──が、またすぐに涙の膜を張ったように輝きを取り戻した。
彼の中の、明らかに何かが変わったのだ。
本能的にそう感じ、咄嗟に体内に巡る不思議な気配に意識を集中させれば、信じられない感覚を掴んで目を見開いた。
(なんだ、何が起こっている......?)
自分という魂が肉体なんてちっぽけな器なんかに収まらず、狭い殻から抜け出し、それ以上の崇高な領域へ思う存分に根が蔓延る。
(この、感覚は、)
───それは、不思議な開放感だった。
今まで一度も感じたことのなかった、奇妙な爽快感。
トクトクとうるさかった脈打つ心臓の音が、耳元で聞こえるような静寂と緊張の中、ピタリと落ち着いた。
「気分はどう?アダム」
「ああ......今のところはなんともない。むしろなんだか清々しい気分だ」
「うふふっ、だから言ったでしょう?死なないって。私、嘘ついてないでしょう」
「そう、だな......、ッ!?」
そこでふとエバの豊満な肢体が目に飛び込んで、アダムはそれを直視できず反射的に視線を横へ逸らした。
おかしい。
エバの裸なんてこれまでいくらでも見てきたのに、今はなぜかそれを見てはいけない──そんな背徳感にアダムは襲われる。
この胸に広がる感情はなんというものなのだろうか。
アダムの今まで知っていたことは、本来の意味を成していなかったのではないかと思うほど、目まぐるしく世界が回る。まるで、天地が逆さまにひっくり返るようなそんな不可思議な体験。
自分は今どうなっているのだろうか?
目の前の女から目が離せないというのに目が回る。なんだこれは。全くもって理解できない。
「アダム?」
「っ、」
薄桃色の形の良い唇が呼び掛ける。やけに蠱惑的な声が耳から全身にゆっくりと毒のように回る。身体が熱くなっていく。
アダムは「あ、ああっ…!!」と何とか言葉を絞り出したが、目が回るくせに脳がうまく回らない。
「......やっぱり具合でも悪くなったかしら?」
愛らしく首を傾げ、エバは明らかに挙動不審なアダムの顔を覗きこむ。
胸が強調される姿勢になり、アダムはサッと顔を赤らめた。咄嗟に顔に手をやり、必死に平静に保とうとするが、熱を収まる気配がない。
「エバ。すまない......何か、なんでもいい、お互いの体を、」
隠した方がいい──続きが言葉にならないほど動揺している。
だが、アダムの意図を汲み取ったエバはにっこりと微笑む。
「恥ずかしいわよね?」
「え」
「私もね、知恵の実を食べたあと、裸のままなんて物凄く恥ずかしかったんだから。でも急に裸を隠しちゃったらアダムに変に思われて怪しまたらいけないでしょ?だから今までずっと我慢していたの」
そうどこか悪戯っぽく言うエバに対して、アダムはやり場のない戸惑いと、お互い裸のままという羞恥心が溢れ出した。
どこか肩身を狭くする彼に、エバはアダムの手をとってゆっくりと【知恵の実】を彼の口へと導いた。
「ねぇ、もう一口食べて?」
蕩けるような声で促されたアダムは、もう一度恐る恐る齧った。
ああ。この世のものとは思えないほど美味い──食べるほど謎の中毒性に侵されるほどに。
「さぁ、もう一口どうぞ」
アダムが含んだ一口が飲み込んだのを確認して、またすかさずエバはずいと残りの果実を彼に差し出した。
次の瞬間、もう我慢の限界だとでもいうようにアダムは奪う勢いで残りの果実を口に押し込むように頬張った。しゃくしゃくと、噛み締めた心地の良い音がエバの耳に届く。
食べ進むにつれて、いかにも甘美な果汁がアダムの顎を伝ってその強靭な肉体に滴る。
それを目敏く気づいたエバは、アダムに零れた果汁の蜜をねっとりと掬い上げて、本当に美味しそうに飲み込んだ。
胸板、脇腹、太腿を吸い上げる度に、恍惚としたアダムの吐息がエバを擽り、その度に彼女の奥底が熱る。
すべて食べ終わった頃には、アダムの表情にはもう完全に夢心地になっていた。
「エバ............」
黙ったまま上体を屈めるようにして、ゆっくりとエバの顔を覗き込めば、柔らかな光を宿す瞳が長い白銀の睫毛に縁取られた目蓋に覆われていく。
一文字に結われたその艶やかな女の唇に、男は優しく己のそれをそっと重ねた。
始めは軽く、しかし次第に強く押し付け合う。
互いの輪郭が曖昧になるほどに。
元がひとつだったかのように。
甘い痺れを伴った口づけを終えると、アダムはエバの口元に残る唾液を丁寧に舐め取っていく。
くすぐったさと心地良さにエバは思わず笑い声を漏らした。
アダムはうっとりした頭で、今度は徐に自分に絡みついたままの彼女の胸元をじっと見つめる。
白い肌に淡く色づいた膨らみ。
それはまさに今が食べごろの果実のようで......、
「嗚呼、エバよ。君のそれも、知恵の果実に似ていて......とても、美味しそうだ、」
ついさっきあんなにも目を逸らすほど恥じていたのに、食べた知恵の果実に植え付けられた「知恵」が、早速「性欲」へと導いたのか。アダムは形のいい二つの双丘から目を離さずにいた。
───“食べたい”。
そこには芽生えたばかりの「欲情」の影が見え隠れする。
釘付けするアダムに気づかないはずもなく、エバは微笑ましくなって、見せつけるように少し屈んだ。ぷるんぷるんと艶やかに揺れ動くそれにアダムは思わず生唾を飲み込んだ。
「うふふ。なら、味わってみる?」
「っ、」
甘い誘惑に───昂る、凶暴な獣が、アダムの中で目を醒す。
「愛しているよ。エバ」
「私も愛しているわ。アダム」
その愛の囁きを最後に、アダムはもうアダムではなくなった。ただ、意識の全てをエバに向け、魂の全てをエバへと解き放っていた。
互いの身体を舐め合い、吸い合い、甘く齧り合った。まるで【知恵の実】を食べていた時のように、相手の体の隅々まで貪り触れた。
「はっ......!」
「ああ......っ」
果実を思わせる仄かな香り。
涙よりも淡く儚い潤み。
柔らかな嗚咽にも似た途切れない嬌声。
全身全霊で互いを求め、声もなく、言葉もなく、静かにそれに浸る。
時には痛い時もあったが、アダムとエバは今までにない幸福な時間をただ過ごしたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
ふわふわと浮いている様な感覚の中、温かい腕に抱きしめられている感触にエバは僅かに目を開く。
何度かゆっくりと瞬きをすれば段々と辺りの景色に焦点があってきて。
目の前に日に焼けた健康的な肌の色をした逞しい胸板が見えて、それをじっと見つめてしまう。
少し顔を上げれば端麗なアダムの顔。
真っ直ぐな黄金な瞳は、今は瞼の裏に隠されている。
昨日のことは、夢だったのだろうか。
「いた......っ」
少し身動きすれば、僅かに軋むように痛む下半身と身体中に咲いている赤い“所有印”がそれを否定していた。
そのせいでエバに昨夜何があったかを鮮明に思い出させた。知恵を授かった今では昨夜の“行為”の意味を理解する。
その途端、身も悶えるほどの羞恥で頬に熱が集まるの同時に、そんな痛みでさえもエバはたまらなく愛しく思えた。
女としての本懐を果たし、女として満たされる幸福感。
その相手が、大好きな人である幸福感。
彼を受け入れる充足感。
(全部、アダムの愛の証だもの)
──誰のものでもない。私だけの。
昨夜アダムから注がれた熱の残滓が腹の奥で未だに渦巻いているような気がして、キュンと疼いた。
そんなぼんやりとした思考のまま、ぺたりと彼の胸板を撫でれば、優しい手つきで頭を撫でられて髪をゆっくりと梳かれた。
「おはよう。エバ。起きてたのか?」
「......アダム......」
耳を擽るテノールの声は自分の大好きな人のもので、エバは自然と笑みが浮かんでしまう。
声の方へと視線を上げれば、片肘をついて手に頭を乗せて此方を優しい笑顔で見下ろすアダムの姿があって、じわりと心が暖かくなった。
「おはよう......アダム」
「まだ寝ぼけているのか?眠たいならまだ寝ててもいいんだぞ」
「昨日は無理をさせたからな」とこちらをじっと見つめる優しい黄金の瞳が恥ずかしくて、思わず彼の視線から逃れるように胸板を埋めた。
「もう、夜が明ける。それまでもう少し休むといい」
「うん......アダムもそばに......」
「ああ......いるよ。どこにも行かないさ」
アダムの言葉に頷いてエバが目を閉じれば、暗闇のなかで抱き寄せられてその腕の中に閉じ込められるのが分かって、彼女は頬を緩ませて、意識を飛ばした。
◇◇◇◇◇◇◇
朝一番。日の出の共に目を覚ました二人は川に行き水浴びをした。水に濡れた四肢はひんやりとして心地良かった。
だけど次第に肌寒さなってアダムとエバは寝ぐらの近くのイチジクの葉を取り、身体を覆った。
「どうして今までイチジクの葉をこうしてつなぎ合わせて着ることを思いつかなかったんだろう。こうすればすぐに体も乾くのに」
これまで水浴びした後は基本自然乾燥だった。常に適温を保つ楽園では決してそのせいで風邪を引いたり、体調を崩すようなことはなかったが。
「こうしてみるとまるで天使の衣みたい。私たち今までずっと平気で裸だったものね」
よく考えればこれまで裸だったのは自分たちヒトだけで、天使たちはみんな身体に何かを身につけていた。
今まではそれに対して何も疑問に思わなかった。
もし知恵の実を食べなかったら、これからも違和感を抱かずに誰かの前で裸でいたと考えると二人は羞恥心で悶えそうだった。
「知恵があれば、これからは自分たちの力で色んな物事を解決できるかもしれない。そうなれば、まさに私たちが敬う神のようだな」
「もうお父さまの助言を借りる必要もないのね......やっぱり、ヘビさんの言う通りだったわ......」
「......」
「お父さまは私たちのこと...」
「エバ。もうこれ以上考えるのはよそう」
「うん......」
アダムにやんわりと宥められ、エバは口を素直に閉ざした。
その後の二人は身体を寄り添って木の下でくつろいでいた。
しばらく穏やかな時間が流れた。
アダムとこうしてゆっくりするのは随分と久しぶりのようにエバは感じた。昨日まで荒ぶった感情に支配されていたのがまるで嘘のようだった。
知恵を授かったおかげか、感情を正しく制御することを自然と身につけたからであろうか。もしそうであれば、エバは知恵の実を食べたことをよかったと思えた。
むしろ食べずにあのまま感情が暴走してアダムを傷つける方がエバはよっぱど後悔するだろう。
ふとエバはそっと隣にいるアダムを見た。
視線を上げた先に、どこか遠くへ見つめるアダムの姿があった。
表面上は落ち着いてはいるものの、どこか深刻そうな顔をしていた。
その内心はきっと神を背いた不安と罪悪感に苛まれながらも、今後のことについてどうするか色々考えているのだろう。
その厚い二つの瞼が自立した静かな生き物のようにゆっくり思慮深く上下していた。
今まで見慣れた顔がどこか大人びて見えた気がして、エバは思わず目を瞬いた。
毎日顔を合わしてはいるが、こんなにもまじまじとアダムの表情を窺うのは久しぶりで、思わず見つめてしまう。
アダムの姿は、以前と変わっていないようで、大きく異なっていた。
視線や、仕草がどことなく大人びているようで、つい最近まで無知そのものであった純粋無垢な少年が知性的な男性へと変化しているのが良く解る。
それもこれも、すべてエバがアダムに罪を背負わせたのが原因だということは明白で、それだけがどことなく納得のいかない感じが胸の中に渦巻いていた。
(──私ってば、勝手ね)
その時だった。
〈アダム エバ〉
「「!!」」
何も前触れもなく、神の声が二人の鼓膜を重く刺さった。こんなに心臓が止まりそうになったのは、この先の人生ではきっとないだろう。
さすがにアダムとエバは慌てふためいた。
「ついにこの時が来たか...」
「ああ!どうしましょう!お父さまに何を言えばいいかっ!」
「エバ。落ち着いて。こうなる事はお互い覚悟も上だろう?」
「そ、そうだけど......まだ心の準備ができていないの......っ」
覚悟決めたといえど、自分たちの創造主に会うのはいつだって緊張はするものだ。──罪を犯してしまった後なら尚更のこと。
「......わかった。とりあえず一度隠れよう」
「ええっ」
二人はすぐに木の間に隠れた。息を殺して、神が通り過ぎるのをひたすら待っていた。
しかし、
神は、すべてお見通しなのだ。
〈そこにいるだろう 出よ〉
二人はすぐに見つかってしまった。




