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妥協の希望を飲んだ僕は、憑き物の手を取って苔むした道を歩いて行った。何のためか、それはせめてこの憑き物に、妥協の希望を先輩に伝えさせるためだ。僕が後見人として見届ける中で、伝えて欲しいから、僕は憑き物を誰の目も届かない部室へと迎え入れるために歩く。あそこなら、誰の目も気にしせず事情をこと細かく話せる。
ただ、憑き物からしたら久々の歩行は、なかなか慣れないものだったらしく時折僕の腕に掴まったりしてきた。柔らかい感触は、僕にとって嬉しかったけれど、中身が違うと思うと罪悪感に駆られる。寝込みを襲うみたいな、体だけを弄んでいるような、酷く下衆な気持ちになった。まあ、それでも、先輩の体の柔らかさは僕の情動を駆り立てた。頬は赤くなったし、顔には汗が浮かんだ。
本能に駆られて、理性で罰する僕は何だか奇妙な表情なったらしい。憑き物が心を覗かなくとも、人をからかう笑みを浮かべてくるくらいには、分かりやすい反応だったみたいだ。だから、憑き物は僕の右腕に掴まりながら、というよりも抱きながら、顔を覗いてきた。
「お前、分かりやすいぞ。ふふふ、でもそういうところが初ねえ。女の体を知らぬ少年の若さは、微笑ましいよ。でもお前、こういうことも自分から誘えるようにしないと、男として廃れるよ。お前のソレを、一生使わないで死んでしまうよ」
「うるさいです……」
随分と余計なお世話だ。憑き物は、僕の股間を指して、いつもの様に妖しい笑い声を漏らした。本当に、余計なお世話だ。下世話なお世話は、榊だけで良い。あいつの口から、ふと出る一言は結構僕を傷付けるからそれだけで十分だ。それに、先輩の顔で言われると熱が色々と籠るから止めて欲しい。
いや、これも下世話な話だ。今は、心頭滅却して心を澄まし、この柔らかい温かみから頭をすっきりさせることが先だ。
青い風と共に、先輩の甘い香りが僕の鼻腔をくすぐる。それから、ギュッと僕の腕に憑き物は抱きつく。柔らかさと、温かさが僕の左腕に集中する。覗き込んでくる憑き物は、自身の行動の理由が分かっているようにニヤニヤと笑っている。本当に、止めて欲しい。こんなんじゃ、僕の僕は起きてしまう。うん、下品だ。けど、本当だから、たちが悪い。
たちの悪い憑き物は、絶え間なく僕に微笑んでくる。けれど、僕はそれに興味ない様に歩を進める。もちろん、憑き物も僕の歩みに合わせて歩いてくれる。
噛み合ってるようで噛み合わない、服従の関係であるようでそんな関係では無い僕らは、日差しの中を歩く。青い匂いに満ちる竹林を歩く。蝉が鳴く中を歩く。苔むした石畳が続き、乾いた土の中、僕らは歩く。ただ、相変わらず僕の熱は冷めてくれない。本能の熱は、中々冷めずらい。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
未だに熱が集まり、右腕には心地よい柔らかさを抱きながら、僕らは旧校舎の玄関前に辿り着いた。僕にとって、精神的疲労が酷く溜まったけれど、憑き物からしたら愉快以外の何物でもないらしい。僕の当惑する感情が、よっぽど面白かったんだ。弄ばれてる……。
まあ、良いんだ。怪異なんてこんなものだ。一々感情的になってたら、切が無い。時には、諦めも肝心だ。けれど、ずっと諦める訳にもいかない。時には、言ってやらないといけない時もある。さっきみたいに、自分が切に願うことは、はっきりと言わないと。
「あなた、僕の腕から離れて下さい。流石に、ここは不味いです。誰かに見つかろうものなら、特に椿さんっていう心底面倒くさい先輩に、見られたらとんでもないことになりますから。絶対、騒ぎますよ。あの人暴走しますよ。そしたら、僕の学生生活が崩壊します。あと二年半の高校生活が、台無しになります。だから、どうか離れて下さい」
右腕を抱く憑き物の方を見て、僕はそう言った。はっきり言った。ただ、言い方は酷く情けないと自分でも思う。というか、はっきりと言ったのかどうかすら怪しい。頼み込み的な、懇願的な、男らしくないこと千万だ。大体、僕はいつも女性に意見を言うときは、こんな感じになってると思う。だから、榊から女々しいとか言われるのか。今度から変えてみよう。まあ、こんな決心も何度目か分からないけれど、今度こそ頑張ろう。
軟弱な言葉を紡ぎ終えた僕が、心の中で弱腰な性格に決心すると憑き物はその赤い瞳を僕に向けてきた。その瞳は、嫌に輝いている。それに、口角は上がっている。獲物見つけた獣みたいだ。いや、実際、この怪異は自称梟だから獣なんだろうけどさ。それでも、知恵のある人間から獣の雰囲気を感じられるっていうのは、間違いなく嫌な予感でしかない。
「嫌だね。大体、お前は儂を黄昏時の間だけ楽しませると誓っただろ? だから、嫌というよりも契約だ。契りは守れよ、少年」
「……分かりましたよ」
嫌な予感は見事に的中した。それも、何にも言い返せない条件を堂々と突き付けられた。全く、この怪異の言う通りだ。何の異論もない。ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだ。でも、そう悲観することばかりじゃない。なんたって、身に染みて分かったこともあるんだから。経験以上の学びは無いよ。
自分が結んだ契約が、前代未聞の精神的負担であることを理解した僕は、諦めて溜息を吐いた。それから、細心の注意を払って左手で真鍮製のドアノブに触れた。ドアノブは、夏の日差しに照らされてそこそこ熱かった。触れられないほどの熱さじゃないけれど、しばらく触れていると手を離したくなるほどの熱さだ。そして、音を極力たてないように建て付きの悪い扉を開けた。慎重に、慎重に、扉を開ける。もしも、椿さんにこの状況を見つかったものなら僕は、本当にどうすることも出来ない。それに、この怪異が何をしでかすか分かったものじゃないから。終始、ニヤニヤとこちらの気遣いを愉快に変換して僕の顔を覗いてくる悩みの種は、とりあえず無視だ。気にしちゃいけない。ちょっとの焦りが、大きな音に繋がるんだから。
ゆっくり、ゆっくり、慎重に扉を何とか開けられた僕はその場に誰も居ないことを確認した。順序が逆な気がするけど、そこは動転する気構えだから仕方が無い。ただ、運が良いことに一階には誰も居なかった。懐かしい大きな古い振り子時計が、その秒針を心地の良い音とも進めて、相変わらず薄暗い涼しい空間が広がっているだけだ。熱を帯びる左手が、一気に冷めた。
「椿さん、帰ったんだ。良かった、本当に良かった……」
取り繕いの安堵は、玄関に椿さんのローファーが無くなっていることを僕の視線が捉えると、揺らぐことの無い安堵へと変わった。胸の重荷が、下りた。これで、今現在の心配事はほとんど無くなった。
ただ、憑き物からしたら僕の不安が下りたことが、つまらなかったらしくその悪戯心十割の笑みを止めた。それから、僕の右腕から体を離した。現金な憑き物だ。
「つまらん。もっと、儂を楽しませろよ少年」
「だったら、もう少し僕に配慮した娯楽にしてください。それか、僕と先輩にとって危機が薄い娯楽にしてくださいよ。こっちは、今を生きる人なんですから」
「いやいや、少年。お前は、何も分かっていないよ。儂が、本当に愉快を感じるときは人が当惑している時だ。先をどうしようかと不安を抱いたり、不都合なことがばれたらどうしようと心配したり、そんな定まらなくて危機迫っている状況に、儂は愉快を覚えるんだよ。だから、儂にはそう言う意地の悪い愉快を存分にくれよ、少年」
僕の一歩前に出た憑き物は、わざわざ後ろを振り向いて、唇に人差し指を当てると性格の悪さがにじみ出る言葉を言った。そして、その言葉は今後、僕がどういった重荷を背負わなければいけないかを指し示していた。嫌になる。けれど、逃れられない契約だ。
なら、僕はせめてもの抵抗をしよう。
「意地が悪いと分かっているんだったら、止めて下さいよ」
「嫌だね」
例え、その抵抗に意味が無いと分かっていても僕はなけなしの言葉を吐く。その小さな牙まで収めてしまったら、僕はただの臆病者になる。僕は、臆病者じゃなくて、惨めな獣の方が良い。
小さくも硬い反骨精神を胸に抱き、僕は土足のまま土間から上がろうとする憑き物の手を取る。
「待ってください。あなた、ここは土足厳禁です」
何時の時代からお社に封印されていたのかもわからない、世間知らずの憑き物は僕の手を焼かせる。いや、先輩もこんな抜けてる感じだから、大して変わらないのかもしれない。でも、先輩と怪異の常識は雲泥の差だと思う。うん、そう信じたい。流石に、先輩の常識が怪異に劣ってるなんて、思いたくない。まあ、考えによぎるくらいだから、どこか先輩と掠っているところがあるんだろうけど……。
まあ、そんなことはどうだって良い。先輩と憑き物は、違うものなんだから。とかく、僕はこの怪異の手綱を取らなきゃならない。現代社会での生活に順応させなきゃならないんだから。
ただ、一つ不安がある。それは、この怪異が抱く喜びだ。この怪異は意地が悪い。そこだけが、不安だ。現代生活慣れない怪異のこれからを思い図る僕の気持ちなんて言うのは、この怪異にとって最高の喜びだ。そして、それを享受しようこの怪異はするかもしれない。もしも、そうなったら僕の胃に穴が空く。だから、僕の言うことを聞いてほしい。いや、駄目だったら否が応でも言うことを聞かせる。
「ああ、分かったよ。儂としても、こんなに整えられた屋敷を汚すのは忍びないからな。それに、これが現代の生活というものなのだろう? ならば、それに順応すること、それは儂にとって一つの楽しみでもあるからな。奇怪な生活様式に、合わせてみるとするよ」
憑き物は、握られる自分の右手に視線を合わせた。それから、小さく笑うと僕の顔を見てそう言った。和やかな表情と、これからの生活に胸を躍らせて赤い目の奥に子供っぽい光を宿す、憑き物に僕は安心した。あんまり、僕の言葉は意味が無かったみたいだけど、そんなことはどうでも良い。結果良ければ、全てよしだ。
不安を下ろして、不安を背負って、不安を下ろした僕はホッと一息を吐いた。
「そう思ってくれると、ありがたいです。僕の負担も減りますからね」
「ふふふ、少年。儂は別にお前が、胸の内で思い図っていることをしても良いのだぞ? それもまた一興だからねえ」
「止めて下さい」
ただ、安心ばかりしてられない。
安堵は、ほんの一瞬。何せ、この怪異の気分は山の天気より変わりやすいのだから。
僕は、怪異の笑みと細められた瞳を見ると、冷や汗が垂れた。それから、情けない声が漏れてしまった。
「ふふふ、儂もそこまで鬼じゃないよ」
僕の反応に、憑き物は楽しげな笑みを浮かべた。僕は今の今までこいつの掌で、踊らされていたのかもしれない。最終的に、自分が喜べるようにこいつは、根回しをしていたのかもしれない。徹頭徹尾手玉に取られていたのかもしれない。うん、何だか、とってもやるせない。
そして、やるせない僕と愉快な憑き物は、プラスチックの箱からスリッパを取り出すと、靴を脱いで、土間に上がった。あとは、僕が憑き物の手を握って先導する形で、流れのままに階段を上った。途中、怪異は、信濃川の油絵に視線を集中させていた。一体、あの絵に何のシンパシーを感じたのか、それは僕には分からない。怪異と違って僕は、心が読めないから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
僕らは、ようやく安住の地、文芸部部室へと辿り着いた。この部屋は、書斎、校長室として使われてただけあって中々良い部屋だ。少し狭いけど、そんなことなんて気にならない。
いや、そんな所に目が行かないほど、内装が整っている。黒々とした木の床のシックな花模様の茶色い絨毯、四方の白い壁の内、両脇の壁を埋める古めかしくて暖かさを感じさせる大きな本で満たされた本棚、その上には日に焼けた地球儀やら丸まった世界地図。部屋の中央には、足の低い黒い長い木机と、両脇に向かい合う茶色い革張りのソファが二つ。天井には、小さなシャンデリアみたいな電燈。それから、部屋の奥にはカラフルな大きな額縁ほどの大きさの両開きのガラス窓が堂々と施されている。ただ、そんな窓は夏の陽光を部屋に存分に受け入れて、部室を熱している。もっとも、今は柔らかい茜色の光だ。
暑さを抜きにすれば素晴らしい内装だ。けれど、それらを台無しにする要因がある。それは、先輩が持ちこんできた色々な物だ。お菓子の袋、読みかけの積まれた大量の本、床に倒れる大きめな年代物の扇風機。それから机の上に散乱するお菓子の空袋、僕が書庫から持って来た例の本、二つ倒れたインスタントコーヒーの空瓶、陶製の茶色い二つのマグカップ、大きな銀色鉄製コーヒーポッドは、部屋の雰囲気を台無しにしている。まあ、僕も机の上に関しては加担しているから、先輩に何も言えない。
まあ、とにかく、この残骸はあとで、片付けておこう。それと、あの大量の本が入った段ボールも、後で片づけよう。流石に散らかしっぱなしは、良くない。
まあ、そんなことは今は置いておこう。僕は今、猛烈に寝たい。距離以上に、どっと疲れた。ホントに、疲れたし、憑かれた。でも、今の僕はやらなきゃいけないことがある。憑き物と先輩を会話させなきゃならない。この契約を、身勝手な妥協の希望を説明させなければならない。そして、先輩に納得してもらわなきゃならない。本日、最高のカロリーを使う仕事をしなきゃならないんだ。僕に休んでいる暇は無い。
「しかし、汚い部屋だね。珍しいロシア語の本もある……。掃除をしてるのかい少年? いや、違うか。この娘っ子が、汚したんだな。まあ、良い。暑い喉が渇いた、何か飲み物をくれ少年」
だけど、部屋に入って来たや否や僕を残して、ソファに腰をどっかりと座って、くつろぐ憑き物に飲み物を出すのは、僕の仕事じゃない。サービスの仕事は僕がすることじゃない。というか、お湯が沸いてないし、インスタントコーヒーもきれてるから何も出せない。精々出せる飲み物は、
「何も出せないなら良いよ」
言葉を受けても、入り口で立つばかりの僕を見て何もないことを理解したのか、心のを覗いたのか憑き物は、つまらなそうな声でそう言った。ぐったりと、ソファに寝転がる姿でそう言われると、少し苛立つ。いや、こんなの日常だったな先輩も毎日こんな感じだからなあ……。
過去を振り返ってみると、先輩は僕をただの小間使いとしか見ていないのかも知れない。まあ、先輩の小間使いに成れるんだったら、僕は喜んでなるけれど、少し寂しい。
「気持ちが悪いぞ、少年。流石の儂もお前の奉公精神には、驚きが隠せないよ」
「恋する心っていうのは、そんなものですよ」
上体を起こして、僕に怪訝な眼差しを送ってくる憑き物の失礼さは今さらだ。恋する人間を舐めちゃいけない。恋する者は、盲目で思う人と一緒に居られることこそが、一番の幸せなんだから。例え、それが上下の関係であってもね。
「そうかい……」
僕の言葉と心境を受けた憑き物は、顎先に手を添えて何やらぼうっとした声を漏らした。感慨に耽って、そのからかうことに全てを注いでいる口を閉じてくれるのなら、こちらとしてもありがたい。
とりあえず、僕はこの暑さを解消しよう。こんな、暑い所じゃまともに会話なんて出来やしない。それに、憑き物の余計なことしか言わない口も閉じているからね。
そんなこんなで、僕は何かを考える憑き物を他所に、倒れた扇風機を立て直して、コンセントを入れて、スイッチを入れた。少しだけ涼しい風に、吹く。それから、この暑さの原因である夏の陽光をたっぷりと受け入れるカラフルなガラス窓の真鍮製の取っ手に、両手を掛けた。相変わらずこの窓も、建て付けが悪くて、素直に開いてくれない。あと、単純に僕の力が足りていないのも、原因だと思う。けれど、開けなければ、生ぬるい風だけがこの部屋の涼になってしまう。だから、両手に力を入れて、腰に力を入れて、思いっきり!
「うわ! なんだ、驚かすなよ少年」
窓は、大きな音を立てて開いた。その音は、考えに耽る憑き物の集中を途切れさせ、可愛らしい声を響かせた。
青い香りを含んだ涼しげな風が部屋に入って来た。暑さは、少し和らいだ。茜色の陽が、眩しい。
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