1.
かつて。
かつて世界は表と裏に別れていた。
表は科学。
裏は魔術。
魔術が世界を裏から操っていたとされる時代も、かつて、かつてはあったが、科学の発達に伴い、魔術の優位は消え、たとえば製薬企業に魔術師が務めて新薬を開発する、といったことも珍しくなくなっていた。もちろん、表の世界の住人の大半は知らないことだったが。表と裏の境界は綻び始めていた。いずれ表と裏の境界は完全に消え、科学と魔術が手を取り合う時代が到来するだろうと、裏では囁かれていた。
かつて。
かつてのことだ。
一六年も前のことだ。今は、もう、関係ない。
表と裏の境界。それは、消えた。いや、崩れた。破壊された。砕け散った。
〈ハルマゲドン〉
〈名無しの魔女事件〉
〈第三次世界大戦〉
あるいは単純に〈あの日〉と言う人もいる。それで、通じる。〈あの日〉以降に生まれた子供達を除いて。大人達にとって〈あの日〉と言えば〈あの日〉のことを指すのだ。
あの日。
あの日、表と裏の境界は最悪の形で失われた。魔術の存在は恐怖と絶望の中で表に知れ渡った。そして、国家という枠組みは瓦解した。都市文明は終焉を迎えた。人口は何割減ったのだろうか。地図は、どのような形に変わり果てたのだろうか。どれだけのものが失われたのだろうか。あの日、あの日さえなければ、と大人達は言う。
あの日以前のことを懐かしむ大人は多いが、あの日のことを語る大人は少ない。しかし大人達はふとした拍子に、あの日の出来事を懺悔する。たとえば、子供達にどうして、と言われた時に。それは、あの日が原因だと。この瓦礫の山は、この荒野は、この地獄のような世界はあの日に生まれたのだと。
だから、子供達も知っている。あの日に何が起こったのか。
そして、思うのだ。今と何も変わらない。
今。
一六年が経った今。
一六年前、日本と呼ばれた島国。
一六年前、静岡と呼ばれた土地。
一六年前、何と呼ばれたのか、もはや誰も覚えていない街。
一六年前、街だった。
今は、もう、廃墟と瓦礫、生い茂った雑草。
竜巻や津波といった天災に襲われたかのように、あるいは、大規模な爆撃を受けたかのように、どこまでも、どこまでも廃墟と瓦礫は広がっている。
一六年の間に旺盛に繁殖した雑草は、コンクリートに蔓を巻き付け、アスファルトに根を張り、人工物を覆い尽くすように背丈を伸ばしている。
アスファルトは割れたり、砕けたりしているが、かろうじて、あの道を走っていた道だと分かる。けど、それだけだ。あの街の痕跡は、それくらいしか残っていない。
廃墟と瓦礫の荒野を太陽が燦々と照り付ける。鳥が飛び、虫が飛ぶ。
人にとっては地獄のような世界でも、人以外はそうでもないらしい。食物連鎖のバランスが崩れ生態系は変化したが、動植物全体で見れば、むしろ野生は活発化している。
「〈首輪付き〉が動き始めた」
と。
人の似付かわしくない場所に、人の声。
フード付きの外套を被った男が廃墟の屋上に立っている。
左手に持った双眼鏡で、どこか遠くを覗いている。
「〈魔獣〉は出ていない。が、進路はこっちだ」
『〈首輪〉の様子はどう?』
と、ノイズの混じった女の声が、男の耳元で応える。
男は、インカムの位置を右手で調節しながら、
「〈首輪〉は不規則に明滅している。魔力の光だ。間違いない」
『魔力の波動は探知出来ない。やっぱソレ、内向きの魔術みたい。その〈巨像〉は体内でなんらかの魔術を実行している。それも突貫工事。普通、そんな目立つ所に装置を外付けしない。心臓部に付けざるを得なかった、ということは、高出力の魔力を必要としたということ?』と、女は自問し、しかしすぐに思考を切り換えて『今回はこれで偵察は充分だから撤退しなさい、勇次。〈魔獣〉が出てくる前に』
「駄目だ」
勇次。それが男の名前らしい。
勇次は言い放つと、双眼鏡を仕舞い、フードを後ろに下げた。
素顔が露わになる。
三〇代後半から四〇代前半と思われ、皺が目立ち始めているが、肉は弛んでいない。無駄な肉は付いていない精悍な顔付きである。眉間の皺が特に深い。
短く刈った髪や無精髭の中に白髪が混じっている。右の眉の上から右の頬に掛けて、一直線の傷痕が残っている。右の瞼は閉じていて、左の眼は真っ正面を睨んでいる。
「時限爆弾なんてゾッとしねーよ。一発殴って、壊せそうだったらブッ壊す」
外套の下には、甲虫のような有機的な光沢を帯びた黒いパワードスーツを着ていた。インカムを付けたままヘルメットを被り、フェイスガードを下ろす。連動してチンガードが上がり、フェイスガードとチンガードが獣の上顎と下顎のように噛み合う。
『無茶よ。いえ、無理よ』
「やるだけやってみる。無理そうだったら諦めて逃げるから、とりあえず一発だけだ」
『自惚れないで、勇次。貴方一人ではどうしようもない』
「あんなモン、やるしかないだろうが」
パワードスーツの補助筋肉が収縮し、各部が締まる。
具合を確かめるように、掌を握り、開く。
「アレを誰が作った?」
その一言に対し、女は反論出来なかった。
勇次は続けて言った。
「明日、いや、一時間後に世界が滅んでも不思議じゃない」
『分かった。でも、無理そうだと判断したら、すぐに撤退して。その時は私が出る』
「勘弁してくれよ。そんなことを言われたら意地を張りたくなる」
『もう、ああ言えばこう言うんだから』
「そうか?」
『そうよ』
一時は言い争いになりそうな雰囲気だったが、二人の間の空気は穏やかなものに変わっていた。かと言って眼前の光景は変わらない。
眼前の光景。
〈巨像〉
全高六三四メートルの巨大なゴーレム。瓦礫と廃墟の地平線の向こうに泥で作ったような、ずんぐりした形状の人型が直立している光景は、まるで出来の悪いコラージュだ。
条件が揃えば一〇〇キロメートル以上離れた場所から視認出来る。そんな神話的な巨人が今、歩いている。緩慢な動作に見えて、実際の速度は恐ろしく速い。
標準的な人間の身長を一七〇センチメートルと仮定した場合、三七二倍以上のサイズということになる。つまり、一歩進むだけで一キロメートル以上進むということだ。
「正直、ジャンルが違うよなぁ」
『ジャンル?』
「こっちは良くて仮面ライダー。ああいうのはウルトラマンだ」
『漫画だっけ?』
「いいや、特撮だよ」
と、苦笑して。
緩から急へ。
勇次は、ぐっと構えを取った。大きく腰を下ろし、大きく脚を開き、大きく前傾。スピードスケートのスタートダッシュに似ていなくもないが、スピードスケートの洗練された姿勢よりもっと獣じみている。
ベルトのバックルに相当する部分に装着されているコンソールを指で叩き操作する。パワードスーツの装甲の切れ目から赤い光がうっすらと漏れ出す。
「〈短剣機関〉始動、〈占術機関〉始動!」
『魔力の波動を感知!〈巨像〉の迎撃反応よ、早い!』
「遅い!」
コンクリートの床が爆ぜる。
パワードスーツによって強化された跳躍の反動だ。
勇次の体は一瞬で中空に撃ち出された。意志を持った弾丸のように。




