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  〔■〕


 現れた武者鎧の人物は、初撃を防がれたあと連撃に入ろうとしたが、シルバーはその前にバックステップして距離を取っていた。武者鎧の人物は技を止め、静かに構え直す。

「勇者様が二人……?」

 リーズベルの呟きで、俺は我に返った。

 武者鎧の人物を観察する。魔王のように恐ろしい二本の枝角が兜にある。握っているのは黒い長槍だ。

 兜の面をつけていない。見えているその顔は、俺とそっくりだ。

(ドッペルゲンガーか……!)

「え? 勇者様が二人? え? え……?」

「リーズベル、彼を知ってるのか?」

「ええと、わたしは勇者様って呼んでいて……でも、山荘の人たちはユニットゼロと呼んでいます」

 ユニットゼロは、鬼の面をつけ、その顔を隠した。

「死地へと参ろうか」

「逝くのは、お前だけだがな」

 静かな口上の直後、互いに突撃し、斬り結んだ。双つの斬衝が刃を離れて地面を抉り、無数のヤマユリの花を宙に散らせた。身を切るほどの風圧が、俺たちの方まで迫ってきた。リーズベルの手を引いて避難する。

 ユニットゼロの姿が薄くなり、霧状のエフェクトを軌跡として残しながら、瞬間移動みたいな速度で動き、上下左右、あらゆる方位からシルバーが斬りつけられている。

(あれは〔蜉蝣(かげろう)(つむ)ぎ〕――)

 セイバーズ、両手槍の連撃系インスキル。パリィ崩しの異名を持つ強スキルだ。

「セイバーズの中の技を、リアルワールドで使っている……?」

「はい。セイバーズのゲーム仕様は、アスガルドの世界法則を模していますから」

「アスガルド? とにかくあいつらの戦いは、セイバーズでの知識が通用する、ってことか」

 ユニットゼロの攻勢が終わり、シルバーが反撃を開始――と思いきや、技後の硬直もなく、ユニットゼロが次のコンボを見舞う。

(おかしい……硬直が適用されていない)

 シルバーはノックバックを受け、靴底で地面を抉りながら勢いを消したが、そうしなければ吹っ飛んで、ダウンを取られていたろう。

(どういうことだ? セイバーズの仕様なら、硬直は絶対の法則。思えばシルバーだって、パリィしていないのにダメージを減衰していたりしてた。あいつら勇者の戦いは、法則を超越している……)

 シルバーが大きな声で笑い始めた。

「何故、笑う?」

 笑い声は質問のあともしばらく止まなかった。笑い終えて息をついたあと、シルバーは静かに微笑みながら、ユニットゼロへと答える。

「旅の終わりを見せてやる――来い。《オリフラム》よ」

 彼が差し招くように左手を動かすと、その手に真紅のぼろ布が現れた。ブロードソードに触れてインタラクトを実行。それを一瞬で、刀身に巻きつけた。

「其れは、まさか……!」

 動揺するユニットゼロに向かって、シルバーが突進。怒号と共に振り下ろされたブロードソードは竜巻のような炎を纏っていて、槍に阻まれるかと思いきや、真っ二つに叩き割り、そのまま真一文字にユニットゼロを斬り裂いた。

「…………な……?」

 ユニットゼロは、斬られたあと、そのままの姿勢でしばらく立ち尽くしていた。自分の身体を覆う、無数のヒットマークを見ている。

 シルバーはそれを見て笑んだが、

「――ッ、」

 シルバーが、わけが判らないと言いたげな顔で膝をついた。いつの間にか数本の棘が、彼に刺さっていた。棘は鎖に繋がれており、ジャリジャリと音を立てながら抜けて、ユニットゼロの兜に飛んでいき、鹿の角の形に戻った。

 それらを見届けたあと、シルバーは「まだ見ていない技が……」と呟き、前のめりに倒れ込んだ。

「勇者様あ! 勝ったんですね」

「勝ってない……」

「え?」

 ユニットゼロの全身が、淡く発光している。そしてその姿がうっすらと透明化し始めている。指や留め紐の端、靴のつま先などから、白い光の粒が遊離し、ちょっとずつ欠けるように、彼の肉体や装備が消滅を始めている。

「死亡エフェクトだ」

 セイバーズでHPゲージがゼロになって砕けると、このエフェクトが発生して、そのプレイヤーは徐々に消滅する。

 相討ちだ――。

 ユニットゼロは天を仰いだ。

「……あやつの言う通り、旅の終わりか」

「勇者様……嘘ですよね? 死ぬなんて……」

 ユニットゼロは、リーズベルに目を向けた。

「リーズベルよ。そなたにとって、世界は怨嗟に染まっているように見えるかもしれぬ。だが、違うのだ。目を凝らし、心を解き放ち、痛みに耐えて歩み続ければ、いつしか出逢える。光り輝く、希望に――」

 ユニットゼロの身体が、急速に崩れ始める。光の粒が、一斉に空へと散った

「勇者様!!」

 頭だけになりながらも、ユニットゼロは言葉を続けた。

「そなたは、優しく生きられる、はず」

 言い終えたあと、光の粒となって消えた。

「ああああああああああああぁぁ――……」

 リーズベルが泣きながらその場に跪いた。

 支えに行こうとして、自分の周囲にある、たくさんの光に気付いた。

 それは模様が光るアゲハチョウだった。一匹ではない。無数にいる。俺の周りに飛んできて、俺を取り囲んでいる。

「……これは、朝に見た蝶……?」

 アゲハチョウが俺の手に留まった途端、目が眩むほどの閃光が生じた。

 頭の中に何かが傾れ込んでくる。

 それは動画のような光景だった。無音で、小さな場面が現れては消えていく。それは過去の日本、おそらく戦国時代だと思う。〝俺〟は甲冑を着て合戦をしていたり、綺麗な女の人と逢ったり、凄まじい力量の武者と一騎打ちをしたりしていて――……

「悠也さん、どうしました?」

「記憶が流れ込んでくる。これは、あいつの――」

 意識を保てたのは、そこまでだ。身体の力が抜け、視界が暗闇に落ちた。抗いようなどなかった。あとで判ったことだが、このとき俺の脳は〝二千年分の人生の記憶〟に呑み込まれたのだ。


  〔■〕


 大事なものを取りこぼした人生であった。

 平八郎の元服は、永禄三年。その直後、桶狭間の前哨戦を戦った。戦に赴く前夜、人気のない川べりで忍んで逢ったのが彼の想い人である。たおやかにて美しい乙女であったが、百姓の出自である。

「すまぬ。阿知和城より妻をめとる話が進んでおった。どれほど食い下がろうとも、父上は……」

「良いのです。忠勝(ただかつ)様」

 平八郎の武将としての名は、本多忠勝。松平氏に仕える家臣、本多忠高の長男坊として生まれた。

「元より私は平民の娘。天上人に愛されただけでも幸せにございます」

「そなたと添い遂げられぬのなら、いっそ家を離れても……」

「なりません。世は戦火に包まれております。忠勝様のお力が、多くの民草をお救いくださると信じております」

「然しそれでは、いずれ側室に迎えるまで、そなたに何も与えられぬ」

「ならば一つだけ、約束を」

「どのような?」

「どの戦からも、必ず生きて、この參河(みかわ)の地へとお戻りください」

 この約束が、彼を無敵の武将にした――。

 初陣を迎えた平八郎は、鬼気迫る戦振りで敵勢を圧倒した。どの戦場からも無傷で帰還した。並み居る猛者たちでさえ、平八郎には赤子扱いだった。彼の名は威力を帯び、四天王とも無敵とも呼ばれるようになった。

 參河の地では、一向一揆の鎮圧にも駆り出され、城に迫る一揆軍とも戦った。親族とも刃を交える状況下で、味方が続々と討ち取られていく中、彼は生き残って武功を立てた。

 元亀元年の戦では、一万もの軍勢を前を、彼は単騎で駆け抜けた。

本多(ほんだ)忠勝(ただかつ)だ!」

「あの首を、誰が獲るか見物だぞ」

 軍勢は総出で平八郎を追い回すも、誰一人として討ち果たせず、二メートル近い大太刀を振り回す北方の豪傑と一騎打ちになっても生き延びた。

 天正一二年の戦では、十六万ものの大軍を相手にし、主君の本陣が崩れかけているとの一報を耳にした。

「忠勝殿、こちらの手勢は五百のみです。足止めなど、とても叶いますまい」

「ふむ……」

 平八郎は自分の馬を見た。

「馬が水を欲しがっておるな。行くか」

「はい? どこへ?」

「川だ」

 手勢を率いて馬を走らせ、龍泉寺川というところで馬を止めた。

 数刻のち、敵の大軍がその川に到着した。平八郎の姿がそこにあった。陣を敷くどころか、ボリボリと音を立てて(ほしいい)を食いつつ、軍馬に水を与えていた。槍は川べりの木に立てかけてあった彼の手勢が土手の上に立っているが、騎馬兵は馬を下りているし、槍や弓を構える様子もない。

 敵大将は進軍を止め、困惑した顔でそれを眺めていた。

「あれは本多忠勝ですぞ……?」

「判っておるわ。兜の大枝角、黒糸威(くろいとおどし)の鎧。あのような出で立ちの者は他におらぬ」

「矢を射かければ討ち取れます」

「本当に、そうか……? 罠やもしれぬ」

「心配しすぎでは?」

「ならば貴公、その言葉に一族郎党の命を懸けられるか?」

「…………」

「あれは戦場(いくさば)の闇だ。触れることなく済むならば、済まそうではないか」

 十六万の大軍は、龍泉寺川を渡らずに引き返した。

 戦が終わると、參河に戻った。想い人を側室に迎えるためである。

 だが、忍んで立ち寄った農村に、人気はなかった。田畑は荒れ、家は焼け落ちているか、放棄されていた。川のほとりに煙を見つけ、そこに住まうボロを着た見窄らしい爺から話を聞いた。

「一向一揆が、飛び火しましてな……」

 それは彼が鎮圧に参加した一揆だった。あの戦の噂を聞き、この村の民も奮起したが、あっさりと鎮圧されてしまったという。市中で文官を斬った村人がいたため、より重い裁きが下され、彼の想い人も死罪とされたのだ。

 平八郎の苦悩が始まった。

(わしは武勲を立てたと浮かれておったが、相剋を高じ、想い人を死へと追いやっただけではないか)

 その後も、彼は主君への忠義を貫き通した。

 慶長十五年。桑名の山中にて野盗の討伐を指揮していた彼は、自分の新しい印籠に小刀で名を彫っていた。そのとき手元が狂い、左手を切ってしまった。

「無敵の四天王も、傷を負ったら終わりよな」

 その戦で、名もない野盗に腋を斬られ、傷が化膿して、翌週には虫の息であった。

(やり直せれば……)

 若かりし日、あの村娘と約束を交わした、あの思い出が脳裏を駆け巡っていた。

(あの瞬間に戻りたい)

 そう願いながら、平八郎は果てた。死後の光景は深い闇であった。そこで彼は明るい輝きを目にした。輝きの奥に、一人の女性の影が見えた。

〔――汝が望み、聞き届けよう――〕

(え……?)

 光を離れたあと、彼は環状に巨石が立ち並ぶ場所で目を覚ました。毛皮のローブと仮面に身を包んだ者たちが、彼を取り囲んで儀式を行ってきた。

「ここは……?」

「アスガルドである」

 彼は巨石のいくつかに、機械の部品が埋め込まれているのを見て、目を細めた。

「あれは?」

「《魔女遺骸》(アーティファクツ)がうちの一つ、《クロムレック》――異世界転生を成す品だ」

「わしは虜か?」

「いいや、友である。ダーナ神族の世は乱れている。貴公の力を貸してくれぬか」

 そこから、平八郎の第二の人生が始まった。彼は戦場(いくさば)に舞い戻り、第百九兵団司令隊に所属した。通常部隊を率いて、魔女の所領に侵攻する部隊だ。指揮系統にはロビンフッド、ラングランジュ、ポンテオ・ピラト、そして織田信長が属していた。

 その任務中に彼は戦死し――秘められていた力が明らかとなった。死後に生き返って、世界が巻き戻しになったのだ。

「……これは、一体?」

 彼は自らの経験を元に戦局を変え、生き延びることができた。そのことを信長に話した。

「プロトスキルの覚醒に違いあるまいぞ」

「其れは……?」

「ステータスを開き、能力を確認せよ」

 教わりながらステータスを開くと、プロトスキル〔宿命返し〕の内容が記してあった。死亡時、世界を再構築する――という内容だった。

「ト書きの末に、えうろつはの数字が書かれておる……」

「数字は八十五じゃな」

 以後、〔宿命返し〕を発動するたび、数字が減っていった。

「能力の寿命というわけか……」

 それを知った信長は、魔女戦争の任務で平八郎を庇うようになった。

「わしに前線を譲らぬつもりか」

「つまらぬ荒事で消費してもらっては困る」

 信長のやり方に疑問を持った彼は、ラグランジュにも〔宿命返し〕の件を話した。彼は学者であり、深く見聞をしたのち、見解を述べた。

「〔宿命返し〕はおそらく、巻き戻しなどではないね」

「と言うと?」

「過去に戻るだけの能力であれば、再構築するという説明文は使われない。この世界の作者を、仮に創造主としよう。創造主は何らかの意図を以てこれを定義したはず」

「意図とは?」

「一周目、二周目、これらを便宜上エンダーとアルターと定義したとする。アルターは再構築によって指向性のある変異を起こしている」

「曖昧模糊な物言いよの」

「なら、こう言おうか。アルターには〝解〟が存在する。世界自身が集合的な意思を備え、君に新たな道を示す。エンダーを下書きとするなら、アルターは清書だ。君の役割は、過ちを整えるのと同時にその意思を汲み取り、実り多き未来へと解を紡ぐこと」

「其のような仕組みが本当にあるのか?」

「さあね。あくまでも仮説。創造主の頭の中など、我々に判りようがないから」

 魔女との戦争は長期化した。勇者の数は減っていき、敗戦の色が濃くなり始めた。

(このままでは負ける……!)

 彼は旅に出た。勇者の中には魔女に与しなかったり、戦争に参加しなかったりした〝はぐれ勇者〟と呼ばれる者たちがいた。探し出し、参戦を促すつもりであった。

 しかし旅は意外な方向に進んだ。

「勇者を何人集めても無駄だよ」

「は……?」

 その勇者は〝記録者の使い〟と自らを称した。名をリアと言う。第一次勇者で、中世フランスの女剣士だ。

「外圧によって、世界は滅ぶんだからね」

「外圧……?」

「世界は枝葉のように広がって、無数のパラレルワールドを成している。ボクたちのいるこの世界は、その中の一つにすぎない」

「アスガルドとミッドガルドの他にも、世界が存在せしめると?」

「それらは内在する界層世界だよ。ボクの言う枝葉は、それらをひとまとめにして、同じ時空に身を置いている世界の他にも、別の世界が存在するということさ」

(にわか)には()しがたき眺望よの」

 リアはこう説明した。未来は一つでなく、いくつも実在する。それぞれに違う選択をした世界が存在していると――その多次元的構造を世界樹と呼び、それぞれの分岐点を枝葉と呼ぶ。

「それら世界が、様々な可能性に向けて一斉にスタートして、生き残りを模索している。その過程で様々な駆け引きが生じるんだ。たとえば抜きん出た枝葉が現れると、それに近い枝葉が求心力を失って滅んだり……」

「何故其のように?」

「救世の原動力となるものは有限だから……要するに奪い合いだね」

「わしの友人は、世界には意志があると申しておった」

「そう! 救世と滅び、両方の意志がある。それは固有の意志かもしれないし、世界樹がそう定めた(ことわり)かも。真実は判らない。そこまで観測できていないみたいだから」

「観測とは?」

「かつてあった枝葉の記録《異聞人類録》を記し、人類生存の可能性を探っている者がいるんだ」

「……おぬしはなぜ、わしにその話を?」

「君が介入者だからさ」

「介入者……?」

「プロトスキルには続きがあるのさ。新たなエクステンドスキルが芽生えるだろう。貴方のそれは、枝葉への移動を可能にするもののはずだ」

 平八郎は修行を積み、エクステンドスキル〔界境破り〕を得た。リアの言葉通り、枝葉へのアクセスが可能となった。それは〝行って、還る〟能力であった。たとえば元の世界をAとすると、Bの世界に行って五八年すごしても、Aに還ってくるときは行ったときの時間であった。そしてこの力の使用限界数は〔宿命返し〕と共有である。

「おぬしは、わしが〔界境破り〕を克ち取るのを予言せしめたな」

「君のような介入者は大勢いる。気をつけて。そいつらはこの世界から略奪する」

「如何なるものを?」

「世界の救いとなる原動力――それらは総じて《ヌーメン》と呼ばれている。人物であったり、アイテムであったり、能力であったり、武器であったり、はたまた考えた方だったりする。多くは破滅に抗する力となるものだけど、そうでないものもある。君は枝葉を巡り、ヌーメンを探して持ち帰るべきだ」

「然し、其れは略奪なのでは?」

「そうなるね。でも、滅びが確定した世界にとって、ヌーメンは必要がないもの――違うかい?」

「…………」

 彼は、ヌーメンを求めて幾多の枝葉を巡った。旅先の世界は〝ここ〟と同じであったり、あるいはまるで違う歴史を辿っていたり、世界の法則さえも違っていたり、まるで違う文明が発達していたりもしていた。それらは皆一様に滅び掛けていた。

 平八郎は旅の中でヌーメンを収集していった。ある枝葉では、魔女を眠らせる毒を得たが、それは数百年で毒に耐性ができて滅びる結果となった。ある枝葉では、魔女を封印し、ある枝葉では魔女を洗脳し、ある枝葉では魔女を凍らせた。いずれも結果は滅びるだけであった。

(ヌーメンは幾多も目にした。然し滅びに抗い切る力は一つとて存在せん)

 苦悩を抱えながらも、彼は多くの枝葉を巡った。

 平八郎の試行の中で、ただ一つ、奇跡のような枝葉があった。魔女戦争を引き起こした魔女オーディエが正気を取り戻したのだ。休戦となり、彼は外交のために魔女の城を訪れた。彼女は自分の過ちを悔いていた。元は魔女の中でも抜きん出た善政を行っていたのだ。その傷みを知り、平八郎はオーディエを愛するようになり、二〇年もの間、彼はオーディエと共にすごした。

「この魔眼が、我を変えてしまったのだ。魔眼が我に囁きかけ、心を呑み込んでいく。最初は誰かを憎んだ。次に人間そのものを憎み、やがて世界を憎むようになる。我は魔眼に呑まれすぎた。手遅れなほどにな。だから、殺せ……」

「然し、そなたは死せぬ運命(さだめ)の者」

「フランスの聖女を探すがよい。その勇者のみが、我に手傷を与えた」

 そう告げた日の夜明け、オーディエは再び正気を失った。魔女戦争が再開され、騒乱の後に枝葉は滅びた。

 さらに周回を重ねていくと、フランスの聖女が見つかった。彼女の持つエクステンドスキル〔オリフラム〕は軍旗を生成するものだ。軍旗を武器に巻けば魔女を殺す力が得られた。平八郎はこの最強のヌーメンを譲り受け、自分が元いた枝葉に行き、魔女戦争を終結させた。これで旅の終わりかと喜んだが、魔女は不吉な予言を残して死んでいった。

『百の年を経たのち、無垢の心を持つ魔女が生まれる。その日が来たら、何もかも諦めて、せめて美しく滅びよ』

 予言通り、どの枝葉でもリーズベルが誕生した。最強の神力と、無垢の心を持つその少女は、心優しいがゆえに争いや憎しみに耐えきれず、その膨大な神力を暴走させ、世界をビッグバン以前の宇宙の姿《原初性共核結晶全空間(コンフォーマル・シンメトリー・ユニバース)》へと戻してしまった。

 リーズベルを殺しても、新たな魔女が百年周期で生まれ、同じ結果になる。

 試行錯誤をくり返すうち、やがて回数が一桁になった。

 少ない回数を使い、リーズベルの心を平穏のうちに終わらせる方策を試行した。ラストの枝葉で、リーズベルが魔女として覚醒したが、自分を保っていられるルートがあった。しかしこのルートも、徐々に魔眼に呑まれていった。

「……済まぬな。わしはこの枝葉を去る」

「ヌーメンを一つも持っていかないのですか?」

「此処は良き枝葉ぞ。わずかなりとも護持せしめんと願う」

「勇者様……」

 平八郎が歩み去ろうとすると、リーズベルは再び口を開いた。

「今朝、蝶を見ました」

「……其れが?」

「血を一滴、いただけますか?」

 不可解な頼みに困惑しつつも、平八郎を小刀で指を切り、テーブルにあったカラの杯に血を落とした。

「貴方が守ろうとしている枝葉、わたしにも守れるかもしれません」

「如何なる意味か?」

 リーズベルから終に答えを得られないまま、平八郎は元の枝葉に帰還した。

 平八郎は信頼できる勇者を集め、グラズヘイム計画を立てた。いままでの旅で得たヌーメンを惜しみなく使い切る心づもりだった。

 彼が目をつけたのはミッドガルド。この世界では万物が寿命を回避できず、死者の魂が冥府を通じ循環することもない。第一次勇者の転生システム《クロムレック》はすでに破壊したので、魔女がくり返し生まれることもない。そこにリーズベルを連れて行き、幸せな老衰を迎えさせ、負の連鎖を断つ――これがグランヘイム計画の概要である。

「今度こそ、滅びを断つ」

 意気込んで始めた計画に、最初の綻びが生じた。リアとの連絡が取れなくなった。

「リアルワールドの人間が勇者を倒せるはずがありません」

「介入者がミッドガルドにおるのかもしれぬ」

 ユニットスリーと共に山荘を出て、敵の動向を探った。介入者の足取りをつかみかけたとき、マグナから連絡が来た。

〔――ARKⅡから襲撃を受けました!〕

「バカな……!」

 追跡を打ち切り、急行した。

 リーズベルに贈ったヘアピンには、位置追跡の魔力が込められている。それを辿れば救出できるはずだ。

(最後の希望が、灰になりつつある……)

 焦燥する彼の心に、かつての想い人の言葉が蘇った。

『忠勝様のお力が、多くの民草をお救いくださると信じております』

(わしが、救うのだ! もう二度と、大事なものを取りこぼしたりはせぬ!)


  〔■〕


「……――ッ、」

 意識が戻ってきて、最初に感じたのは頭痛だった。

「歩、俺の頭の中に、本多忠勝の記憶が……」

「おそらく継承です! 説明する余裕はありません。いまはジョージ・シルバーを仕留めてください」

「勇者を倒せるわけがないだろ?」

「貴方を勇者にします」

「は……?」

 歩は静かに目を閉じる。

 そして詠唱型の発動モーションを入力した。

「目覚めて――宿命を穿つ聖牙――〔ウルフヘズナル〕!」

 ヴォン――ッ、という電子音が鳴った。

 見えていた沢筋の光景が、ゆっくりと闇に呑み込まれていく。

 やがて真の闇になった。地面はなく、落下感もなく、俺は浮いている。身体はなく、動かすこともできず、ただただ浮いている。

 俺に身体が与えられる。足の裏に、地面の感触が与えられる。手が動くようになったので、目の前に持ってきて見つめる。〝向こうの俺〟の手だ。

「……嘘だろ…………?」

 受け入れがたい現実が、そこにあった――。

 ここは俺の住むリアルワールド。具体的に言うなら茨城県日立大宮市の山間部だ。俺の肉体はいま、《ダメージレーサー》エゼキエルの姿へと変貌を遂げているのに、よくある砂利石を踏みしめている。

「ゲームのキャラクターが、リアルワールドにログインした……?」

 混乱してきた。だってこんなのあり得ないはずだ。

「どういうことなんだ、歩」

「だから説明する余裕はありません。ジョージ・シルバーを倒せるのは、いましかないのです」

 歩はそう言って、地面に倒れている西洋騎士を指さした。あいつが手強いのは、俺が一番よく判っている。

「そうだな……」

 レイピアを抜いて、シルバーの元へと歩み寄っていく。

(こんな形で雪辱を果たしても、少しも嬉しくはないけど……いまこいつをやらなきゃ、やられるのは俺たちだ)

 俺の目の前で死んでいったランダのように、第一次勇者であるこいつもまた、HPを全損すれば死亡するだろう。

(殺人……になるのか。でも、やらなきゃ)

 間合いまで近づいた。敵が目を覚ます気配はない。

「悪いな、シルバー……」

 そう呟いてから、俺の編成の中で最も火力の高いインスキル〔エリュプシオン〕の発動モーションを入力した。


  〔■〕


 彼は、夢を見ていた。

 夢の中で見ている光景は、どうやら川べりのようだ。繊月佇む空は、色とりどりの星々を鏤めながら山陰の辺りで濃紫色に染み沈んでいる。両岸は段丘崖によって隔たれ、その上をヘッドライトが行きすぎていく。月明かりは川面にキラキラと散り、浅瀬の岩や川石をほのかに照らし、そこをはしゃいだように歩く少女を、影絵のように映し出している。

「ほら、おいでよ。シルバー」

「夜の川辺など、何が楽しいのだ……」

「足下が見えないと、空を飛んでいるように錯覚しない?」

「するわけないだろう」

「まったく君は、情緒というものが足りないね」

 少女の笑い声を聞きながら、シルバーは自分も口元を微笑ませているのに気づいた。彼女に見つかれば、またからかわれる。暗闇の中でよかった、と思った。

〔……ルバー〕

 どこからか、声がする。

(誰の声だろう……? 聞き覚えがあるような……)

 シルバーは周囲を見回した。

「ねえ、シルバー。聞いてる?」

「ん? 何か言ったか?」

 少女は、メインメニューを操作し、自分の武器《絢爛のエペ・ラピエル》を実体化させた。そして、その武器を、川へと投げた。

「リア、いったい何をしている……?」

「ボクを殺して」

 声を発するのも忘れ、シルバーは少女を見つめた。月明かりが弱くて、その表情は見えない。暗闇の中にいることを後悔した。

「君の中にある憎悪を受け止めて、消えてあげる」

「私の過去を知っていたのか?」

「最初からね。君の枝葉にとって、ボクの死がヌーメンになるだろう? 好都合じゃないか。なのに、何を躊躇うんだい? さあ殺して」

「しかし……」

「幸せは見つけたよ。もう終わってもいい」

〔……ージ・シルバー!〕

 やはり声がする。かなり切羽詰まった怒声だ。もう一度、周囲を見回す。

〔起きてください、ジョージ・シルバー! あと数秒で、貴方のHPが尽きます!〕

 身の毛もよだつような恐怖を覚え、シルバーは自分の夢を打ち砕いて目を覚まし、素早く半身を起こす。地面に押しつけるような剣圧を、最初に感じた。轟音を発しながら、炎を纏った刃が顔に迫っていた。野獣のような本能で転がって身を躱し、直撃を避ける。範囲攻撃の炎は避けきれず、おぞましいほど大量のダメージを疑似痛覚によって感じた。HPゲージ外枠が色点滅している。もう十%以下ということだ。起き上がろうとすると、追いすがる敵の足音がした。シルバーは咄嗟に、後ろ蹴りをくり出した。

 感触がない。敵を見る。ひらりと背面宙返りをし、警戒したように距離を取っている。

 敵の姿を観察する。フランスの軽装複合アーマー。狩猟帽に、マント。すべては赤で統一されている。武器は……、

(――《絢爛のエペ・ラピエル》!)

 リア愛用のプロトウエポンだ。在りし日の彼女を思い出し、胸が痛くなった。しかし感情に流されている場合ではない。意識をしっかりさせ、敵を見据える。

「見覚えがあるな……?」

「俺は忘れてない」

「……アリーナか。そうだ、世界戦で戦ったな。たしか日本代表の……名は、ダメージレーサー――」

「それは通り名だ!」

 敵はジグザグに走りながら接近し、かすめ斬りを放ってくる。シルバーは後退しながらガントレットでパリィをした。武器パリィとは違い、アーマーパリィは軽減値の適用が少ない。HPがジリジリ削られていく。

(ブロードソードはどこだ!?)

 周囲に目を走らせる。あった。山裾の沢に突き刺さっている。所有権放棄のプロセスを経ていないので、三十分間は『所有者以外は拾えない』アイテムとなってフィールドに残されているのだ。回収に行こうとしたが、彼の意図を察したダメージレーサーに回り込まれた。

「させるか!」

 連続突きを見舞われ、前進を阻まれる。シルバーはいったん、敵と距離を取った。

「……騎士道は皆無のようだな」

「あんたにブロードソードを持たせたら、どうなるか判っているからな」

(……忌々しいミッドガルドのストレージ制限め。予備の武器(サイドアーム)すら持てていれば、こんな苦労もなかったろうに)

 ストレージという概念が存在するアスガルドの住人であれば、大型武器複数所持、矢やポーションなどの数百個単位の所持などは自然なことである。しかしここミッドガルドでは、ストレージのシステムとて〝現実味〟を帯びてしまう。つかむ、背負う、吊すなどの手段で持ち運べないような量のアイテムは制限される。これをレギュレーションと言う。シルバーは金属甲冑を装備しているため、ストレージ制限は一層厳しく適用される。なのでサイドアームは持てなかったのだ。

 森林に駆け込んだ。ポーションを飲みたいところだが、モーションキャンセルは不可能なので、万が一攻撃されたら無防備でくらうことになる。そんな危険は冒せない。

〔ジョージ・シルバー、聞こえていますか!?〕

 シルバーは耳たぶの裏につけた、念話通信用のアイテムを触った。

(ああ、聞こえる)

〔よかった! なぜ、そんなHPで交戦を!? すぐに撤退してください!〕

(予言の魔女を確保する)

〔零式が接近しています。細工してあるので、我々はセンサーに映りませんが、目視はできます。討伐されてしまいますよ〕

 少し考えてから、シルバーは立ち上がった。

(何分ある?)

〔はい?〕

(零式が来るまで、何分だ?)

〔頭の堅い人ですね……仕方ない。つき合いますよ〕

 しばらく通信が途絶えた。

〔協力者に妨害させます。六分間――それ以上は稼げないそうです〕

(……十分だ)

 シルバーはメニューを開き、ユーザーインターフェイスMODのタイマーを起動、六分をカウントする。

 ダメージレーサーが近づいてきて、併走してくる。ブロードソードからかなり離れたので、仕掛ける気だろう。

「せァ!」

 ダメージレーサーは木の枝を使った三角ジャンプをし、高高度からの落下攻撃を仕掛けてくる。シルバーは木の幹を盾に使って躱そうとするも、ダメージレーサーの一撃で木は輪切りになって倒され、ダメージは彼にも及んだ。

 そのまま逃げ道を塞ぎ、通常攻撃で牽制し、足止めしてくる。シルバーはタックルで反撃しようとするも、異様な速さのバックステップで逃げられた。

(……この攻防切り替えの早さ。まるでヘイハチロウだ。この男、アリーナでこれほど強かったか……?)

 どこに行こうと先回りされ、遠間からのかすめ斬りで小さなダメージを積み重ねられていく。シルバーの劣勢は、もはや覆しようもないレベルに達しているように見えた。

 しかし、シルバーの口元には隠された笑みがあった――。

(まあ、だが、彼がダメージレーサーである限り、私には勝てない)

 シルバーは、顔を覆うように両腕でガードし始めた。それを好機と捉えたのだろう。ダメージレーサーが動いた。

 彼は〔ヴォン・コントレール〕の発動モーションを入力。

(……掛かった!)

 ダメージレーサーが紅い花びらの旋風を巻き起こしながら逆手突きを行い、シルバーの肩に突き入れる。残りHPが五%に低下する。そのあと、旋風の範囲内で、ダメージレーサーの分身が八体現れ、八方から同時に攻撃を始めようとした……

 が――、

 シルバーは、瞬間移動のような速度の突進をし、分身に混じっている〝ダメージレーサー本体〟へと、旋回横殴り(ローリングフック)をくらわした。

「――がアッ、」

 ダメージレーサーは頭から崩れるように転倒――フォールダウンの状態異常が入ったのだ。八体いた彼の分身は、すべて花びらに変わって消えてしまった。

(分身を見分けるのは容易い。敵の間合いに入ると、君は反射的に踵を浮かす。すぐに退けるようにとの判断だろうな。その癖が、分身の行動と乖離しているのだ)

 シルバーはダメージレーサーを放置し、走った。沢まで辿り着き、ブロードソードを抜いてから、ゆっくりと振り返る。

 転倒から復帰し、駆けつけてきたダメージレーサーの顔には、無数のヒットマークが刻まれている。彼のダメージはそれだけではない。シルバーに武器を渡してしまった、という精神的なダメージが表情に刻まれている。

「ふむ……」

 横目で、自分のHPとタイマーを確認する。

「ハンデとしては、まあまあだね。ダメージレーサー」

 静かな動作で、ブロードソードを下向きに構える。

「再び、君の心を折ろう」


  〔■〕


 シルバーの挑発に対して、俺は強がれなかった。そんな余裕など、どこにもなかった。

 相手が武器を得た。それはつまり、あの一戦の再現になることを示していた。アリーナ世界戦、準決勝――俺の心が折れた試合だ。

 シルバーが歩み寄り始める。

(……あれ? 待ちの姿勢を崩した……?)

 アリーナでのシルバーは、自分から仕掛けるときは優勢の戦況のみ。基本待ちの姿勢を崩さなかった。防御主体だから、常時先手を取っていけば隙が多くなってしまうのが理由だろう。

(いま攻める理由があるのか?)

 さっき剣を抜いた直後、シルバーの視線が二回動いた。一つは残りHPの確認だろう。もう一つは……メッセージ? マップ確認? いや、違うな。もっと範囲が小さくて、一瞬で確認できるもの。

(そうか、時間……)

 連中にタイムリミットがある、と考えれば辻褄は合う。

(この状況を強みに変えられれば、あるいは――)

 ザッ、と土を掻くような足音がした。シルバーが跳躍突撃に入ったのだ。バックステップで距離を取ろうとして、背中が何かにぶつかった。振り返る。木の幹だ。

 シルバーが迫ってくる。

「……あああ!」

 全力パリィで制しようと試みる。俺のエペ・ラピエルと、シルバーのブロードソードがかち合い、火花が散った。受け切っているのにHPゲージがジリジリ削れていく。タンクが出せるようなダメージではない。バケモノだ。

 刃を押し返し、追撃を前転で回避し、間合いの外に出る。

 シルバーがノーガードで走って間合いを詰め、突きで攻撃してきた。俺は円を描くように躱し、カウンターを入れようとするも、シルバーは攻撃後の硬直を無視して横切りを出してきた。エペ・ラピエルに剣が当たり、大きく弾かれた。手放しそうになり、グッとつかんで耐える。その動作で硬直モーションが発生した。シルバーがほくそ笑み、剣先を寝かせるように動かす。

(……しまった!)

 インスキル〔スピナー〕の発動モーションだ。片手剣においてメジャーな範囲攻撃で、高速回転して周囲の敵すべてに旋回攻撃をする。転倒モーションを強制される、フォールダウンという状態異常が高確率で発生するため、一番警戒しなければいけない技だったが、硬直モーション中なのでパリィも回避もできず、直撃してしまった。

 為すすべなく、刃が通りすぎるのを見守った。狂ったようにクリティカルの立体文字が躍り、HPがごっそりそぎ取られ、HPゲージが六割を割った。

「くッ……!」

 技後の硬直を狙おうとするも、最後の一回転分のダメージが入ったとき、衝撃を受けてその場に倒れ込んだ。

「――ッ?」

 遂にフォールダウンが入ってしまった。いわゆる転倒状態。パリィの範囲が制限され、回避値も大幅減になる。最悪だ。

 間合いを詰めてきたシルバーが、悠然とラッシュを開始した。大振りで、狂的で、乱れた軌道のタガが外れたようなスイングを、野獣のようにくり返す。

「くああッ――あああああ!」

 パリィも回避も起き上がりも、何一つ上手くいかない数秒がすぎた。HPゲージを見るのも怖い。

 どうにか起き上がる。しかし、起き上がると同時に、俺の顔に剣先が迫って――、

 連撃をくらった。防御が思うようにいかず、かなりのヒットをもらった。

 HPゲージを見て、呆然とした。残り二割――。

(嘘だろ……?)

 直撃でクリティカルが入ったとはいえ、どれだけの攻撃力ステがあれば、これほどのダメージを出せるのか、理解できなかった。

 シルバーが動き、一気に距離を詰められる。そしてラッシュ。俺はパリィと回避を駆使し、ひたすら退がる。

(……削り殺される!)

 開けた場所に出て、バック宙を連発して、どうにか距離を作った。

 HPゲージを見て、呆然とした。

 一割弱――。

(…………勝てるわけが……ない)

 絶望が、俺の心を埋めていった。リーズベルのために勝ちたいと願った。その心は、もう探し出せないぐらい深くにあって、この途方もない強敵に立ち向かう勇気は、微塵とて残されていなかった。

(俺は……弱い……)

 エペ・ラピエルが、俺の手から落ちた。

「満足したようだね」

 シルバーが、リーズベルの元に歩み寄っていく。その歩みは止められない。止める力は、俺にはない――。

「……この音は?」

 呟きを漏らし、シルバーが歩みを止めた。その直後、衝撃波じみた風圧が抜けていき、一瞬だけ空が真っ暗になった。

 暗くなったのは、上空に飛来した巨大な物体の落とす影だった。

 シルバーの目が大きく見開かれる。

「――がッ、」

 次の瞬間、シルバーの身体が吹っ飛んでいった。彼がいたその場所の地面に、巨大な爪がめり込んでいる。

「……な?」

 爆音がして地面が揺れる。振り返ると、そこに鋼鉄の巨体が見えた。〝パンチを繰り出した姿勢〟のまま、道路を砕きながら着地している。

 殴り飛ばされたシルバーは、木を三本なぎ倒しながら飛んでいき、山肌に激突してクレーターを作り、上半身が土に埋まっていた。

「……あの巨大ロボットか」

 シルバーが起き上がった。

 すぐさまロボットが翼から蜃気楼を揺らめかせ、シルバーに向かって跳躍した。凄まじい風圧が起こって、巻き上げられた粉塵で何も見えなくなった。

 剣戟の音が断続的に聞こえた。ロボットの足音、木がへし折れる音、粉塵の中からビーム状の兵器が飛び出し、命中した木が凍結して爆発した。

 次いで、空から咆吼が聞こえた。

 見上げると低空飛行する白いドラゴンが見えた。

 ドラゴンは粉塵の中に降下していった。数秒で再び舞い上がってきた。シルバーを足でつかみ上げている。大きく羽ばたいて上空に出ると、戦場から離脱していった。

 ブウウン、という音がした。俺の身体が白く発光している。光はパッと強くなり、手が、指が、鎧が、ブーツが、すべて砕けるように散り、俺の元の身体、望月悠也に戻った。

「……変身が解けた」

「動くな!」

 鋭い声が、背後から掛かった。振り向くと、そこに数人の男たちがいた。

 フル装備の陸上自衛官だ。俺に小銃の狙いをつけている。

「指示に従わなければ、射殺する」


  〔■〕


 付近に停車中の兵員輸送車に連れて行かれた。リーズベルも捕まっていた。

 俺を見るなり、リーズベルは抱きついてきた。

「ごめんなさい。捕まってしまいました」

「いいんだ」

 リーズベルの視線が動いたので、目で追った。輸送車の入り口の向こう、山林の藪の中に狼の姿が見える。歩は無事か。

 車で運ばれて十五分くらい走ったろうか。車が停まって「出ろ」と言われた。

 そこは周囲を森に囲まれている、広大な芝地だ。おそらくゴルフ場のようだったけど、グリーンには陸上自衛隊のキャンプがあった。大型のテントが立ち並び、衛星除けの擬装網が張られていて、その下には戦車が置いてあった。短い滑走路もあり、ヘリやセスナ機が駐機している。

 敷地の奥には分厚いコンクリートで固められた地下施設があり、大きなスロープが入り口になっている。森の奥には軍用と思われるアンテナ群が建てられていて、その様子はまさに要塞だ。

「お前はこっちだ」

 そんな声が聞こえて振り向くと、自衛官がリーズベルの肩を押して、連れて行こうとしている。

「待ってくれ! 俺も、リーズベルと……」

 リーズベルはぼんやりとした目をしながら、小さく呟いた。

「勇者様……声が聴こえます……」

「どんな?」

「早く行け!」

 突き飛ばされて、離れさせられた。

 ヘリのローター音が聞こえてきた。百メートルほど先にあるグリーンの上に、輸送ヘリがある。そのローターが動き始めたのだ。リーズベルもそこに連れて行かれるようだ。

 操縦席に座っている人物が見えた。

(あれは……!)

 本多忠勝をバイクで送り届けた金髪の少年だった。明らかに場違いなのに、誰も咎めていない。

 本多忠勝の記憶を探ろうとしたけど、考えようとすると頭痛がした。

(何かがおかしい。イヤな予感がする……)

 リーズベルを追おうと走り出したけど、肩をつかまれてしまった。

 ヘリへと向かおうとする一団が、俺のいる場所を横切ろうとしている。自衛官が八人、囲むような配置で歩いている。その中に白衣を着た女性と、黒のビジネススーツに身を包んだ華やかな顔立ちの女性が話をしている。そして俺の学校の制服を着た女の子が、スマホを操作しながら少し遅れて歩いている。

 その顔に、見覚えがある。

「――星野さん!?」

「望月くん……?」

 星野さんは少し考え、俺をつかんでいる自衛官に「その子を離して」と命じた。自衛官は従った。

「いま、自衛官に命令した……?」

「僕は、この基地を任されている」

「まさか今日見た、自衛隊の戦闘機や戦車や、ロボットは……」

「あれは《陸戦零式》というんだ。それ以上の情報は渡せない。全部忘れるんだ」

「聞いてくれ、リーズベルは……」

「ターゲットアルファが庇っていた勇者か。そんな名前なんだね。あいつらは侵略者だよ」

「誤解だ! すごくいい子で……」

「黙ってよっ!!」

 彼女の口から、そんな大声を聞くのは初めてだった。

 星野さんはうつむいた。頬を伝い、顎の先から、涙の雫が数滴落ちた。

「歩はあいつらに殺された。異世界のせいだ」

 星野さんは俺を見た。

 その目を何と表現したらいいか――怒りとも憎しみとも侮蔑とも哀しみともつかない、負の感情のなれの果てと言ったらいいか。星野さんは進む道を決めていて、一ミリとも逸れる気はないのだけは確信できる。おそらくその道は、どこまでも続く血塗れの道だ。

 めまいがした……。

 昨日まであんなに楽しく学校生活を送っていた星野さんが、変わり果てていた。

 いや、そうではなかったのかも。俺たちと笑い合いながら、星野さんはずっと復讐心を燃やしていたのだ。

「違うんだ。あいつらは敵じゃない」

「そんなわけがない」

「歩は、生きている」

 俺の言葉に、星野さんはわずかに目を見開いた。

「生きているんだよ、本当に。俺を信じてくれないか?」

 星野さんは笑い出した。長い笑いだったし、少しヒステリックな響きを帯びていたので、驚いて言葉を続けられなかった。

「……優しいね、望月くんは。そんな嘘で、僕を守ろうとしてくれるなんて」

「嘘じゃない。現に――」

 白衣の女性が割って入った。

「お話しの途中ですが、主任。コードを調べましたが、ジェネシスのプログラムに異常はありませんでした。未知の勇者には、GSMセンサーの回避手段があったのかもしれません」

「そうか……小牧さんはコードを書いた本人だもんね。間違いないか」

「それと、もう行きましょう。総理もお待ちかねですし」

「だね……望月くん、君はこの基地を出て、避難所に行くんだ」

 星野さんたちが歩き始めた。

「待て!」

 俺が走っていって、星野さんの肩をつかんだ途端、三人の自衛官が一斉に銃を向けてきた。

「……望月くん、放して」

 銃口が、後頭部に押しつけられる。怖い。だけど、ここで引き下がったら命運は尽きるという予感があった。

「リーズベルを解放してやってくれ。彼女は、ただ力を持って生まれてきただけで、悪意なんて一つもない、普通の子なんだ……」

「悪意がなければ、何をしても許されるのかい?」

「それは……」

「手をどけて」

 手を離すと、星野さんは向かい合って立った。星野さんは自衛官たちにアイコンタクトをして、銃を下げさせた。

「異世界人が、どうしてこのリアルワールドにいるのだと思う?」

「あいつらは、世界の滅びを回避しようとしている。それにはあのリーズベルが引き金になってしまうから、保護してやらないといけないんだ」

「そんな危険人物を送り込んでくるなんて、明白な宣戦布告じゃないか。異世界は、リアルワールドに敵意を抱いている」

「違う! ちゃんと話を聞いてくれ」

 不快なほど大げさな拍手が、俺の言葉を遮った。

「愉快、愉快。これは中々の傑作ですね。感心しました」

 星野さんが警戒するように目を細める。

「七宮所長……」

「所長?」

「君の書いたシナリオは、実に面白い。練り込まれていて、緻密だ。リアリティを感じる」

「シナリオなんかじゃない、これは……」

「事実、とでも? 小牧君、彼の言う〝滅び〟とは可能なものですか?」

「とても可能とは思えませんね。人類は一万五千発の核兵器を保有していますが、全部使っても地上の人類の半分しか滅ぼせないと言われています」

「リアルワールドの最強兵器よりも、あそこにいる少女が、強いと言うのですか? さすがに荒唐無稽すぎて笑ってしまいますね」

 小牧さんと七宮所長は、星野さんを見た。

 しばらく考えてから、星野さんが自衛官に命じた。

「彼女をヘリに乗せて」

 自衛官に促され、リーズベルが歩き始める。彼女は俺を見た。そして静かに涙を流した。

(リーズベル……)

 助けられなかった。思えば俺の行動は、ずっと間違っていた。状況も見えていなかったし、事態に翻弄もされていた。感情に振り回されて、冷静になどなれなかった。

 でも。

 でもさ――……

 まだ間に合うんじゃないか?

 いまリーズベルが流しているこの涙を、俺が、俺だけが理解している。

 そうさ。俺は、この瞬間のために生まれた。

 誰もが悲劇へとひた走る混沌の中を、俺だけが抜け出せる。この最悪な方程式から抜け出し、リーズベルが心から笑える未来を築かなければならないと、俺は知っている。

(戦うべきだ……最後まで!)

 手を、拳にする。俺は男だと自分に言い聞かせる。

 くぐるんだ、死線を。未来をつかみ取るために。

 星野さんのスカートが、妙な形になっているのに気がついた。あの形、間違いない――。

「今度こそ、じゃあね」

「うああああああ――ッ!」

 俺は走り出し、去り始めた星野さんのスカートを跳ね上げ、太もものベルト巻きホルスターから拳銃を抜いた。

「望月くん!?」

 安全装置を外し、星野さんをつかんで頭に銃口を突きつける。

 自衛官たちが、一斉に狙いをつけてきた。

「動くな!」

 俺に飛びかかろうとした自衛官がいたが、七宮所長が手で止めた。

 その場が、静まり返った。

「勇者様……?」

 リーズベルの声がした。彼女を護送していた自衛官たちも足を止め、こちらの様子を伺っている。

「待っていろ、リーズベル。俺が何とかする」

「……望月くん。君は一線を越えている」

「判ってるさ」

 小牧さんが、手を上げて声を掛けてくる。

「少年、主任を解放しましょう。まだ間に合います」

「俺は本気だ。要求を呑まなければ、星野さんを撃つ」

「要求は?」

「リーズベルの解放だ」

 七宮所長が笑った。

「飲めない要求ですね」

「なら、お前らは星野さんを失う」

 七宮所長の笑みが、スッと消えていった。視線が別の場所を向いた。振り返ると、森の中でスコープつきのライフルを構えている自衛官の姿が見えた。

(……しまった! スナイパーだ)

「ガヴァッ!」

 獣の咆吼が聞こえ、スナイパーが悲鳴を上げて転がった。自衛官は狼に襲われていた。歩だ。助けにきてくれた。助かった、と安堵した瞬間だった。

「いだッ、」

 自衛官が悲鳴を上げた。リーズベルが腕に噛みつき、拘束を解いて逃げ出していた。自衛官たちが銃を一斉に向ける。俺は、そいつらに向かって拳銃を構えた。

「おい! リーズベルを撃ったら、星野さんを――、」

 言い終える前に、星野さんが手刀を放って、俺の手から拳銃を落とさせた。そして柔道の投げ技で俺を地面に叩きつける。

「ぐッ!」

「勇者様ぁ!」

 星野さんはその間に拳銃を拾い、駆けてくるリーズベルに狙いをつける。

「いっそ……ここで彼女を」

「やめろォ――!!」

「ワウッ!」

 リーズベルを守ろうとしてか、猛スピードで狼が接近してきた。星野さんがそれに気づき、咄嗟に狼を狙った。

「……あ…………」

 一発の銃声が、響き渡った。

 狼が、地面に転がった。首を撃ち抜かれている。

「そんな……」

 星野さんが荒い息を静めながら、撃った狼を見ている。

「何だ、これ犬じゃないな。狼……?」

 わずかに足を痙攣させていたが、その動きもだんだん収まっていく。

 発光エフェクトが生じて、狼の姿が、一人の女の子へと変化した。

「……え?」

 星野さんの表情が凍った。女の子の顔を見たからだろう。自分にそっくりな、幼いその顔を。

「歩……歩なの? え? 嘘? どうして……?」

「姉さん……」

 星野さんは大きく身を震わせた。そして、ポロポロと涙をこぼした。

「どうしてここにいるの? 自殺したはずなのに」

「悠也さんの言葉は真実です。信じてあげて……くだ……さいね」

「そんな……」

 歩は微笑んだ。

「最期に会え……てよかった……」

 死亡エフェクトが発され、歩は光の粒となって砕け散った。

「歩……」

 残された星野さんが、自分の手にある拳銃を見つめ、やがてそれを自分の頭へと持っていった。

「やめろ! 星野さん!」

 起き上がって駆けつけたが、遅かった。

 手が届く直前で、銃声がした。

 生温かい血糊が、俺の頬を濡らした。

 前のめりに、星野さんが、地面に崩れ落ちた。

「ああああああ……」

 姉妹の命が、俺の手からこぼれ落ちていった。どうにもできなかった。

「勇者様……」

 リーズベルが近くにいた。彼女だけでも守ろうと、手を伸ばそうとした。

「この下民めがァ――ッ!!」

 そう叫んで、七宮所長が近くの自衛官から銃を奪い、俺を撃った。

「――かッ、あが」

 バットで殴られたくらいの衝撃を受けた。ふらつきながら自分の胸を見た。シャツの真ん中から勢いよく血が噴き出すのが見えた。何百個もの警報が大音量でがなり立てるような凄まじい痛みを感じた。血が食道から込み上がり、吐き出したけど吐き出し切れず、呼吸は無意味となった。四肢に力が入らない。肉体を動かすコントローラーが消滅しているような感覚だった。ずるりと、その場に崩れ落ちた。

 耳元で声がする。でも誰の声かも定かでないほど、聴き取りづらい。顔を仰向けにされた。リーズベルの顔が見えた。何か言っている。最後の力を耳に集中し、その声を聞いた。

「滅ぼせ――って、声が聞こえます」

 リーズベルの右目の虹彩に魔法円が光った。次第に淡い赤の光を帯び始める。

 俺は血を吐き出してから、声を絞り出した。

「従う……な……」

「ごめんなさい。優しくなんて……生きられません」

 リーズベルは、七宮所長を睨んだ。すると所長が回転しながら宙を舞い、遠くにある林まで飛んでいき、木をなぎ倒しながらアンテナ鉄塔に衝突。アンテナがくの字に折れて倒れた。

 銃声がした。自衛官がリーズベルを撃ったらしい。銃弾は彼女が発生させた球面障壁に弾かれてしまった。

「こんな世界……滅べばいい。わたしに痛みばかり与えてきたんですから、せめて……美しく滅んで……!」

 その背に、赤い結晶の翼が翻った。

 魔女が、吠えた。咆吼は衝撃波となって地の果てまで拡がった。衝撃波が通過した場所、木も、草も、人も、建物も、車両も――月さえもが、紅く光る水晶へと変貌を遂げていた。そのフォルムも変わり、アールヌーヴォー彫刻のような曲線的な装飾性を帯びていた。

 辺り一面が、紅い水晶と化していた。逃れられたものはなかった。俺の腕も水晶になっているのが見えた。

 それは、見渡す限りの、滅んだ世界。

 なのに、なぜだろう。どうしても、こう思ってしまう――……

(…………美しい……)

 地面が割れて、砕け始めた。空は赤く染まり、重力は消え、地面が崩壊し、すべてが宙を舞い始める。俺も空中へと投げ出された。

 やがて加速がつき、すごい速さで宇宙へと飛び散っていった。

 大気圏を離脱した。

 地球が見えた。

 惑星そのものが赤い水晶と化していた。崩壊してバラバラになった美しい破片が、宇宙空間へと一斉に旅立っていく。

 リーズベルとすれ違った。彼女は少女の姿のままだ。膝を抱えながら宇宙空間を飛び、泣いている。

 地球だけでなく、月も赤い水晶と化していくのが見えた。不可視の力は全方位へと拡散している。やがて銀河系を呑み込み、星雲を呑み込み、大宇宙さえも呑み込んでしまうだろう。

 あとに残るのは、ただ美しい赤い石と、闇。それだけだ。

(これが……世界の終わりか)

 俺が間違っていた。何もかも間違っていた。

(やり直せれば――もう一度、この人生をやり直せれば、絶対に間違わないのに)

 一匹の蝶が、俺の前をひらひらとよぎった。

「あれは……」

 光るアゲハチョウだ。何羽も、何百羽も、何千羽も……いや、数え切れないくらいにいた。視界を埋め尽くすほど、暗闇の中を羽ばたいている。

 どこからか、優しい声が聴こえた。

〔――reconstruct――〕

 視界が、白い閃光に呑み込まれていく――……


  〔■〕


 ……――目覚めたのは、朝の四時二三分。

 そこは俺の家、俺がベッドルームにしている二階だ。

 起きたとき、俺の額に留まっていたであろう、アゲハチョウが光の粒を散らしながら、網戸をすり抜けて外へと飛んでいった。

「あれ……?」

 いつものような、目覚め。でも、正常ではない。俺の頭の中には〝とある記憶〟があるからだ。

「俺、死んだよな……?」

 身を起こし、スマホで日付を見る。

「この日の記憶、あるぞ……?」

 まず最初に、エリーからのメッセージが来る。

 居間に行く。リングスからメッセージの着信音が鳴る。確認してみる。

〔言ってたの、これだヨ〕

 URLが貼られている。クリックすると、匿名掲示板にジャンプして……

〔《スピードレーサー》ゼキの正体はこいつ!〕

 校門で撮影された、俺の写真。

「……嘘だろ」

 記憶がある。それは、今日の記憶だ。まだ起きていない、今日の記憶。死ぬまでの記憶がある。

 あり得るか?

 あり得ないよな?

 あり得るとしたら、いまの俺という存在は、何だ?

「何が起こっているかは判らないけど、時間が巻き戻っている。ゲームのロードスタートや、タイムリープみたいに……」

 そう考えれば、いまのこの状況は説明できる。

 信じる根拠もある。それは俺にバックアップされた本多忠勝の記憶だ。これについては、ぼんやりと俺の頭の中に入っている。確か彼は〔宿命返し〕という能力を使っていた。この状況はそれに似ている。〔宿命返し〕の詳細を思い出そうとしたけど、頭痛がした。

「……ッつ、記憶は無理に取り出せないのか」

 確証は得られないが、一番可能性が高いのは、俺が〔宿命返し〕を発動させた、という状況だろう。

(だとしたら、あの苦痛に満ちた争いに、もう一度飛び込むのか)

 胃がきりきりと痛み、頭痛もした。でも考えることをやめない俺が、どこかにいた。

 なぜだろう。俺の中の俺じゃない俺が、どうしてもこの痛みに立ち向かおうとする。

 なぜだろう。俺はまだ戦えるのだと、どこかで思ってしまう。

(どうして、戦おうとする……?)

 その理由が――脳裏を、一瞬だけ、かすめた。

 リーズベルの哀しげな顔だった。

(そうか……)

 心のスイッチが、重く硬質な音を立てて、切り替わるのを感じた。

 家から出て、崖際に立つ。

 何秒無駄にした? 何分無駄にした? 勝算はあるか? アイデアはあるか?

 俺の脳細胞が、抗いを欲し始めた。

「…………絶望するな……俺は一度、あの戦いを見ている。次は上手くやれるはずだ」

 手はまだ震えている。だけど、ぎゅっと握り、打ち消す。

 心はへし折られていたし、喪失感でいっぱいで、以前の俺なら逃げ出していたろうし、忘却を望んでいたろう。でもいまは、そうした逃避行動が、一秒とて許されないと、はっきりと認識していた。

 朝の冷ややかな風が、俺の髪を揺らした。

「前を向くんだ。誰が諦めても、俺だけは、ずっと」

 自分の頬をピシャピシャ叩き、恐れを払う。再スタートだ。まずは、情報を確保しなくては。

 家の後ろの山林に近づく。大きな藪がある。

(隠れやすく、家を見渡せる場所はあそこだけだ。おそらくいるはず)

 藪の前に立つ。そして口を開く。

「歩……俺に力を貸せ」

 返事はない。しかし、気配はある……。

「お前がアースメギンなのは判っている。時間がない。すべての情報を俺に与えろ。この三つ巴の争いを制するには、それしかない」

 狼が藪を割って現れた。すぐにメギンの姿となり、俺の前に立った。

「悠也さん……?」

 跪き、歩の肩をつかんだ。

「安心しろ。今度は勝つ」

「はい……?」

 何かを悟ったのか、歩が目を丸くした。

「まさか、悠也さん。もう継承を行ったのですか?」

「リーズベルが魔女となり、大地の果てまで赤い結晶に変わった。すべてが結晶してしまった。地球も……月も……とても美しい光景だった。世界の終わりとは思えないほどに」

「美しき滅び――」

「そのあと、無数のアゲハチョウが現れて、世界が書き換わった」

「冥界アゲハです」

「それは何だ?」

「世界の法則から外れて存在する、妖精のようなものです。冥界アゲハは、依代となる者にしかその姿を見せません」

「つまり冥界アゲハは、本多忠勝の力だってことか?」

「…………。いえ」

「なら、何だ?」

 歩は少し考えてから、話題を変えた。

「とにかく〔宿命返し〕の発動に成功したようですね。良かった」

「時間が巻き戻っている」

「いいえ、それ以上です。過去の世界に戻し、再構成して、新たな解決法を付与します」

「解決法?」

「失敗した一周目の世界を《エンダー》、宿命返しで発生した二周目の世界を《アルター》、アルターに出現する新たなルートを《ラグランジュ解》と呼称しています」

「アルター……本多忠勝の記憶の中にあった。いまがそれなんだな」

 家に戻る。玄関サッシを開け、中に入った。スマホでいくつかの情報を得たあと、必要な物を通学バッグに詰める。

「悠也さん、他に何を知っていますか?」

「お前たちが異世界から来たこと。リーズベルを連れてきたのが、滅びを回避するため。歩は俺をゼキの姿にできるし、時間も戻せる。俺たちには二つの敵がいる」

「敵の一つはARKⅡですよね? 他に……?」

「ジョージ・シルバーという勇者に聞き覚えは?」

「勇者の書庫で、読んだ本の中にありました。魔女戦争の生き残りで、最終決戦を戦ったそうです」

「ヤツは、セイバーズのアリーナに現れ、世界戦王者となって去っていった」

「勇者が、そんな目立つ真似を……?」

「それだ。勇者とは一体何だ?」

「正式名称は第一次勇者――神代から近代に至るまでの間に死んだ、こっちの世界の英雄や武将、偉人、果ては神たちが、転生によってアスガルドで復活した者たちをそう呼びます。不死ではありませんが不老で、数百年、数千年、数万年戦い続け、天井知らずの技量を身につけている者がいます」

 最後のそれは、イヤというほど理解できる。セイバーズのルールで戦っているはずなのに、本多忠勝やシルバーは、セイバーズのルールを超越した動きを見せた。

「勇者がセイバーズの仕様で戦っているのはなぜだ?」

「セイバーズの世界から来たからです」

「セイバーズはゲームだぞ?」

「ゲームに見せかけた、異世界との接続用アプリケーション――それがセイバーズ」

「あり得ない……」

「認めてください。でないと先に進めません」

「だよな」

「話を戻しますね。ジョージ・シルバーが対抗勢力ですか?」

「ヤツには相棒がいる。ドラゴンに変身するか、召喚する、術系の勇者だろうな。リーズベルを狙っている。彼らは俺の知り合い、ランダが属する勢力と対立していて……」

「なるほどですね」

 違和感を覚えた。何の違和感なのか、はっきりしないけれど、歩が何の引っかかりもなく相づちを打った点に対してそう感じた。

「両勢力の争いをARKⅡが嗅ぎつけて、兵器を送り込んだ形になったみたいだな。それで……その……」

「何です? 言いにくそうに」

「ARKⅡは、星野さん……お前の姉が指揮している」

「どうしてそんなことに……?」

「お前の死がきっかけになっているのは確かだ。異世界を憎んでいる。すべての勇者を滅ぼすのが復讐だと思っているんだろう」

「姉さん……」

「悪いけど、行動しなきゃ。行こう」

 歩は狼の姿に変身すると、俺についてきた。家を出て、裏山への獣道を登っていく。スマホを出して、エリーの番号に掛けながらだ。一コールで出た。

〔あい?〕

「いまどこだ」

〔…………〕

「何で黙る?」

〔ど、どこでショウネ〕

「すぐに来い。一秒でも早く来い。でないと、お前の仲間が死ぬ。リーズベルも守り切れなくなる」

〔――ッ!?〕

「来い! すぐに!」

〔……怒らないヨネ?〕

「はァ?」

 ガラッと音がしたので振り向いた。カギを閉めておいたはずの玄関サッシが開いている。そこに、制服姿のエリーが立っている。

「はああああァァ――!?」

「えへへ。天井裏で暮らしておりましたヨ」

「呆れたを通り越して言葉もない……」

 山荘に向けて歩きながら、エリーに状況説明をした。俺の置かれている状況や、継承などのことも話した。そのあと、向こうの情報をもらった。

「……グラズヘイム計画か。魔女の絶望が、世界の終わりになる――ユニットゼロは、リアルワールドなら静かに暮らせる、力の覚醒が抑えられる、と考えたのか。でも、結果としてリアルワールドすら魔女の力は覚醒する。安住の地ではなかった」

「計画は、すでに破綻していたのですね……」

「いいや、破綻させる要素を先回りして潰せばいい。もうすぐARKⅡが、ここで交戦する。戦闘機はこの方角に飛んでいったし、銃声はこの奥にある山荘の方から聞こえた」

「変だネ。この辺りに偵察は来ないはずヨ」

「目星もつけないのに、ARKⅡはお前らを発見したのか? 妙だな」

「何か仕掛けがあるはずですネ」

「どんな?」

「勇者は通常のセンサーやレーダーで捉えられないのヨ。ARKⅡはGSMという勇者専用の探知装置を使ってて、普段はセスナを飛ばして、周辺警戒をしているけど、一周目(エンダー)でセスナは見なかったのヨネ?」

「……エリー。お前、なんでそんなに詳しい?」

「ワガハイは一流スパイの弟子だから」

「だから、ゲルニカギルドの情報を引っこ抜けたのか」

「エッヘン」

「もしかして俺の学校を特定して、個人情報を流出させたのは――」

「テヘ」

「可愛く笑えば許されると思うなよッ!」

「他の探知手段はないんですか?」

「GSMを搭載したドローンしかないヨ。最近、基地に納入されたはず」

 GSMという言葉に聞き覚えがある。たしか基地に連れて行かれたとき、小牧さんという人が言っていた。

『コードを調べましたが、ジェネシスのプログラムに異常はありませんでした。未知の勇者には、GSMセンサーの回避手段があったのかもしれません』

(あれか……)

 零式はドラゴンに不意を突かれていたように見えた。つまりGSMで探知されたのは、グラズヘイム計画側の勇者だけだったのかも。

「そのドローンが怪しいな。探し出して破壊すれば、ARKⅡは戦闘に参加してこない」

「おっけー、まずはそこを解決するネ」

 エリーは、セイバーズのようにメインメニューを開き、武器を装備した。黒い銃だ。四角く、寸胴で、サブマシンガンのような形状だが、グリップの後ろに回転弾倉がある。見たこともない銃だ。

「……おい、銃刀法」

「まあまあ、悠也さん。迎撃手段があるのは頼もしいじゃないですか」

 また違和感を覚えた。そういえば歩は、エリーが仲間に加わっても無反応だった。さっきランダの名を出したときもそうだった。まるで最初から知っていた、とでも言うように。

「まさか、二人は知り合い……?」

「……」

「…………」

「……マジかよ」

「まあまあ、悠也さん……」

「歩、狼になれば狼と同じ能力になるのか?」

「あ、はい」

「臭いを辿って周辺を捜索してくれ」

 歩が狼に変身した。しばらく頭を色々な方向に向けていたけど、急にその動きを止めた。

「妙ですね。林の奥から人の臭いがします」

 歩が走り出した。裏山の頂から高い杉林へ入ると、そのペースが落ちた。というか、足音を忍ばせている。俺とエリーも、慎重に足音に気を配って進んだ。

 五分くらい降りたろうか。木立の奥に人影が二つ見えた。歩は苔むした岩の後ろに伏せ、俺たちは笹藪の陰に入った。端からそっと顔を出し、その様子を伺う。

「いたな……」

 一人はジョージ・シルバーだ。もう一人は女性――一度見た顔だ。彼女の足下には大型の軍用ドローンが置いてある。

「あの女はARKⅡの所長だ。シルバーとグルか」

「あり得ない。ARKⅡは勇者を殺すための専門機関ヨ?」

「だけど、あの光景がすべてを物語っている」

 もう一度、覗き見をする。

「何か話しているけど、声が聴こえない。もっと接近しないと」

「いいものがあるネ」

 エリーがメニューを開き、ストレージからガンマイクと録音装置とイヤホンを出した。

「……色々持ちすぎ」

「ワガハイは運搬スキルにガンガン振ってるヨ。リアルワールドの制限適用外だから、振り幅がえぐいネ。シショーも取ったらいいヨ」

「投擲でポイント削れてる」

「出たネ、浪漫スキル」

「バカにすんなよ。強いんだからな」

「お二人さん、しぃ」

「……そうだった」

 イヤホンを分け合ってから、エリーがマイクをそっと向ける。

 シルバーの声が聴こえた。

〔いよいよ決行だな、ピラト。抜かりはないな?〕

 七宮所長ではなく、ピラトが本当の名か。

〔もちろんです。このドローンの納入も足がつかないようにしてあります〕

〔言うことを聞かなくなったので所長を殺した、と言っていたろう。あの件はどうだ?〕

(所長を殺した――?)

 エリーと目を合わせた。向こうも困惑している。所長が、所長を殺したと言っているのだから、完全に理解不能だ。

〔こっちでは死体が残るというのが、厄介な問題ですね。ストレージ制限のせいで持ち出せませんでしたし〕

〔おい……〕

〔心配要りませんよ。所長本人しか入れない部屋に放置してあります〕

〔まあいい。どうせ今日でケリがつく。それより、いい加減に変身を解け〕

〔はは……ここ数日、寝るときもこの姿でいたから、慣れきってしまいましたよ〕

 所長が、詠唱モーションを入力し始めた。

〔影よ、光よ、相反するものよ。混じり合い、かの身を苟且(かりそめ)の幻虚に染めよ――〔メタモルポーセス〕!〕

 異様なことが起こった。

 青い光片の舞い散るエフェクトが所長の身体を包んだ数秒後、彼女の姿が〝彼〟に変わった。

 長い黒髪を持つ、色黒の少年。真っ白な外衣(トーガ)を着ていて、短いまっすぐな剣を握っている。あれは片手剣に属する武器、グラディウス。セイバーズでは、わりと初期に実装された武器だ。

「ローマ人か……」

 不意にシルバーの視線がこっちを向いた。エリーはガンマイクを引く。

「勇者が、変身能力を使ってARKⅡの所長になりすましていた、ってことだな」

「仕組まれていたのヨ。ワガハイたちとARKⅡが交戦するように」

「だとすれば、星野さんが復讐に駆り立てられていたのは、あいつの影響かも」

 エリーがショットガンを持ち、笹藪に差し入れ始めた。

「シショー、あのドローンを破壊してしまえば、ARKⅡの介入はなくなる。あとはママとユニットゼロを呼び戻して、あの二人を始末してしまえば終わりネ」

「……一理あるが、一周目(エンダー)で、ユニットゼロはシルバーに負けた。そんな上手くはいかないかも」

 ドローンの飛行音が聴こえ始めた。ローマ人の勇者がドローンを操作し、上昇をさせている。

「シショー、これショットガンだから射程が。もう撃たないと」

「やれ」

 エリーは笹藪の間から銃身を出し、ドローンへと狙いをつけ、引き金を絞った。

 銃声が発され、周囲の木の葉が舞い散った。ドローンの胴体に大穴が一つ開き、爆発して落下した。

 シルバーとローマ人は、硬直したようにしばらく立ち尽くしていた。

 そのあと、同時に俺たちの方を見た。

「見つかったヨ!」

「逃げろ!」

 そう言って俺が逃げ始めると、エリーはショットガンをストレージに戻しながら追いついてきた。

「スマホで助けを呼べ! あと、リーズベルを安全な場所に逃がして」

 藪を離れて走る。歩の先導で斜面を駆け上がっていき、頂の小道に出た。その道を走っていく。

「ママには連絡したヨ」

「次はユニットゼロに」

「うん……ひゃっ」

 何かが飛んできて、エリーの手にあるスマホに命中したあと、スマホを吹っ飛ばして地面に突き刺した。グラディウスだ。

 振り向くと、ローマ人とシルバーの姿が見えた。

「――ッ、」

 シルバーは剣の柄に手を掛け、戦闘姿勢を取った。

「ヘイハチロウ……いや、気配がまるで違う。何者だ?」

「それ、二度目だな」

「は?」

 ここから山荘まで、だいたい三百メートル。逃げても追いつかれるのは目に見えている。

「エリー」

「そうネ。やるしかない」

 彼女はメニュー操作をした。リスポーンと同じエフェクトが閃いたあと、その姿がセイバーズ内のキャラクターに変わった。

 褐色の肌。漆黒の腰まで伸びた髪。露出の大きいドレスタイプの白い甲冑を来て、二本の白い鎌を背中から抜き放つ。二刀流の白き死神――ID/ランダ。

「時間を稼ぐヨ! みんな逃げて」

 ローマ人が笑った。

「できるとでも?」

 ローマ人は先ほど見た、詠唱型の発動モーションを入力し始めた。ランダが阻止に動こうとすると、シルバーがカバーに入り、間合いに入るのを邪魔された。

「影よ、光よ、相反するものよ。混じり合い、かの身を苟且(かりそめ)の幻虚に染めよ――〔メタモルポーセス〕」

 詠唱終了と共に、ローマ人の姿が消え、別の姿……怪物と呼べるものに変わっていた。

 目撃するのは二度目だったが、威圧感がすごくて何も言えなくなり、ただその姿を見上げるしかなかった。

 そこにいた怪物の名を、知らない者は少ない。

 ドラゴン――。

 爬虫類に似た巨体に、大きな翼を備え、空を飛んで火を吹く、神話的生物。ファンタジー作品やゲームに度々登場することから、説明不要くらいの知名度があるモンスターだけど、そんなものは昔の人間の〝ホラ話〟や〝絵空事〟の類いで、最大級にまで印象良く言い換えても〝空想の産物〟くらいか。

 その空想の産物が、俺の前で咆吼を上げ、巨翼を羽ばたかせている。そして大きく息を吸ったかと思うと腹部を膨らませて、口の中がぼおっと赤い光を帯びた。

 アレが来る。超有名なアレが。あんなのをいま出されたら、ひとたまりもない。

「…………逃げろ……」

「え?」

「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろォ――ッ!!」


  〔■〕


 ポンテオ・ピラトの名を人が語るとき、その評価は割れるだろう。偉大な人物と言う者もある。大罪人と罵る者もある。非情な権威者、あるいは心優しき者と称する者もある。こうもまとまりがつかない理由は、彼が下した、たった一つの決断にあった。それは聖書にも記されているほど有名な決断だ。

 ピラトはサムニウム人の血統を受け継ぐ騎士階級(エクイテス)の家に生まれ、小さい頃から厳しい教育を受けた。青年に成長したピラトは、父親の命で帝土の見聞を行った。

 ガリア領、アウグスタ・ラウリカという場所に向けて、湖畔沿いの街道を進んでいた彼は、湖に面した山の麓にある、ヘルウェティー部族の村で歓待を受けた。豊穣な土地で作物も育ち、ワインの質もよく、大いに楽しんだ。ラテン語も話せる者が多い上に帝国にも協力的で、ピラトはこの土地にすぐ魅せられた。

 宴の行われている館に、白い民族衣装を着た女性たちが入ってきた。

「あの者たちは?」

「竜神の巫女でございます」

「――原始的崇拝(ペイガニズム)か」

 ピラトの目が険しくなった。

 ローマは寛容の精神を掲げ、信仰の自由を表向きは謳っているし、同化させた領地にも異教の神を祭る聖域(ファヌム)の維持を許したほどだ。しかしそれは、真の意味での寛容ではなかった。

 アクティブに活動する宗教は、民族意識を強めて団結を促し、ローマへの反抗心を生み出すケースがある。聖域(ファヌム)を残すのは、徹底的な民族浄化を行い、ローマ文化を性根の底まで叩き込んだあと、皇帝の慈悲の象徴として残す宣伝材料の意味合いが強い。

 ガリアのこの地で、原始的崇拝(ペイガニズム)が根強く残っているとすれば大問題である。いまここで自分が窘めるか、帰国したのち父親に報告するべきか、と思惟している間に、一人の人物が近づいてきた。

「ポンテオ・ピラト様」

 美しい声を耳にし、弾かれるように顔を上げた彼は、そこで運命に出会った。

 銀色の髪をした女性であった。ガリアでは珍しい髪色で、しかも左右で虹彩の異なる目を持っている。右目が若草色、左が青みがかった灰色である。肌の色は透き通るような白。巫女たちの一員であることは、衣装から察せられる。

(何と美しい――)

 息を呑んで見つめていると、女性は礼をした。

「イーファと申します」

「その姿……」

「村に彷徨い着いた北人(ノルド)の血を継いでおります」

「そうか」

「竜に捧げる舞いをご覧くださいませ」

 イーファが先導し、巫女たちは踊り始めた。ピラトは息をするのも忘れて、舞いを見つめた。大勢の美しい巫女たちがいたが、彼の見つめる相手はたった一人だった。

 予定を遅らせて、村で数日をすごした。毎日イーファを探し、湖の岸辺で話した。

「ここから出たいと思ったことは?」

「わたくしには、巫女という務めがございますので」

「それほど大事な務めか?」

「太古より、この地の巫女には秘術が受け継がれております」

「ほう、どのような?」

「生き物と同調して一体となる力です」

「つまり、貴方は鳥となったり、私になったりできると?」

「可能ですが、しません。いまこの術は、ただ一つの目的のために受け継がれていますので」

「その目的とは?」

 湖の反対に、イーファは目を向けた。山裾が見え、その奥に山岳地帯が広がっている。

「この奥地にある山に、白い竜が眠っております。その蛮行を鎮めるために、この秘術が必要です」

「そうか……」

 ローマ人の多くがそうであるように、ピラトはリアリストだ。竜という伝説上の生き物など信じていないし、秘術も信じない。イーファの〝幻想に取り憑かれた〟眼差しを見て、ピラトは『結婚して欲しい』という、喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。

 帰国した彼は、やがてローマの政治中枢でも頭角を現し、やがてユダヤ属州総督(ガヴァナー)に就任した。

 時はティベリウス帝治下。ローマは大きな爆弾を抱えていた。それはやがて、ピラトへとのしかかってきた。

 その名を最初に認識したのは、執務室での親衛隊報告であった――、

「……ベツレヘムの大工の息子で、名をイエースス・クリストゥスと言います」

「その人物が、何だ?」

「彼は自らを、神のしもべと語っています」

「十二柱の神々をいまごろ蒸し返す気か? 皇帝を神として崇めよ、と民に命じている時期に……」

「彼の神は、我々の知る神ではありません」

「いま、何と?」

「彼は新たな神を、ユダヤの民に広めているのです」

「どんな神だ?」

「クムラン教団の残党に教えを受けた、と噂されております」

「ユダヤエの反乱の扇動者どもか」

「ただ教団とは毛色の違う教義だそうで、そこが民衆の支持を集めているらしく……」

 ピラトは眉間に深い皺が刻まれるほどに、強い怒りを露わにした。

(新たな宗教が興れば、反乱の礎となる)

 殺せ、と命じようとする直前、彼の脳裏に走った記憶がある。イーファの美しい笑顔だ。原始的崇拝(ペイガニズム)の信者である彼女を、彼は窘めも密告もせず放置した。その選択を、彼は悔いてはいない。

(心を広く持て。寛容の精神だ。そうやってローマは帝国を築いた)

「都市を追放しろ。穏やかに隠遁させるのだ」

「事態はそう簡単ではありません。彼には多くの支持者がおり、追放に反対するでしょう」

「まどろっこしい。もうよい。この目で確かめる」

 親衛隊を引き連れ、街の様子を確かめた。〝イエーススの弟子〟という人物の前に大勢が集まり、祈っていた。男も女も、子供も青年も中年も老人も祈っていた。どこへ行っても祈りが目に入った。祈る者たちの顔は穏やかで、喜びに満ちている。

「これは……」

 ピラトには、ユダヤの民は苦しい毎日を生きるために、イエーススの教えを原動力にしているのだと、はっきり理解できた。

 一方、ユダヤ人の変貌にローマ人たちは怯えていた。祈りを邪魔したり、その行為を罵ったりしていた。対立は深まっていて、一触即発の情勢であった。

 ピラトもまた、恐怖を覚えた。これほどまでに人心を奪う宗教は、かつてなかった。イエーススのムーブメントは革命的だった。これからどう転ぼうとも、ローマ帝国の行く末に計り知れない影響を与えるのは明白だ。

 ピラトはその変革の矢面に立たされている。

(何と言うことだ。私はいまから、この新たな宗教が、万人の希望であるのか、不和を生む悪夢であるのかをジャッジしなければならない。そしてどう決断しようとも、大勢の敵を作ってしまう)

「……総督(ガヴァナー)。どうなさりますか?」

「イエーススに会おう」

 三日後――。

 ローマ総督官邸に一人のぼろを纏った青年が現れた。長髪で、髭を蓄え、肌は色黒だった。門衛が物乞いと間違えるほどのこの男が、イエースス・クリストゥスその人だった。

 執務室に通されたイエーススは、総督(ガヴァナー)を一目見るなり微笑んだ。

「貴方に幸あらんことを」

 呆気に取られ、挨拶も忘れたピラトだが、気を取り直してワインを勧めた。イエーススは首を振った。

「私は水でよい。ワインと思ってそれを飲む」

「目の前にワインがあるのにか?」

「ワインが庶民の口に入らないのであれば、過ちが世を満たしているということ。私の血を形作る材料が、過ちであってはならない」

「奇妙な物言いをするヤツだな……」

総督(ガヴァナー)よ。皇帝の富を、民へと返すよう進言してくれまいか?」

「できるわけないだろう」

「その富は、民が犠牲となって生み出されたものだ」

「だとしても、できるわけないだろうッ!」

 ワインの杯を床に叩きつけた。イエーススは顔色一つ変えずに、ピラトを見つめている。そんな涼しげな表情が気に触ったのだろう。ピラトはさらに語気を荒げた。

「信者への教えを改めろ! 皇帝に物申すなんて狂気の沙汰だ。共存が可能なところで妥協しろ。お前が信念を緩めれば対立は生まれない」

「断る」

「ユダヤとローマが分断される。争いが望みか?」

「私たちは戦わない」

「争いは起こるぞ」

「だとしても、教えは改めないし、戦わない」

「頭がおかしいのか?」

「おかしいのは貴方だ」

「何だと!?」

「愛を以て俗世を見つめれば、帝国は民に苦しみしか生まないと判るはずだ」

「それはッ――……、」

 反論しようとして、ピラトは思い留まった。彼の脳裏には、イーファとすごした数日間がよぎっていた。総督(ガヴァナー)としての理屈なら、あの村は制圧すべき反乱の火種であった。しかし彼は愛を知って、その理屈を曲げたのだ。

「……愛か」

「そうだ、ピラトよ。争いのない神の国を実現しよう」

 イエーススは去った。

 ピラトの苦悩が始まった。ユダヤの民とローマ人の関係は、日に日に悪化していった。最初はトラブルと言えるような小競り合いだったが、やがて殺人も起こるようになった。ローマ人は勢いづく新宗教への恐怖からユダヤ人を襲撃し、ユダヤ人は反抗や復讐のためにローマ人を襲った。

 悩んだ末、彼は決断した。

「イエースス・クリストゥスを捕らえろ」

 簡単ではなかった。情勢悪化に伴って、イエーススと弟子たちは姿をくらましていて、捜索は信者によって妨害されていた。

 二週間後――。

 部下の一人、百卒長を務めるロンギヌスが内密の話がある、と持ちかけてきた。

「神殿警備隊からの伝令がありました。イエーススの弟子の中に内通者がおり、接触してきたそうです。報酬の額を決めたいと」

「師を引き渡すというのか?」

「はい」

 ピラトはしばらく考えた。あまりにも長かったので、ロンギヌスは「総督(ガヴァナー)?」と問い返したほどだ。

「この件を知る者は?」

「内通者と、私だけですが」

「追い返せ」

「は?」

「弟子を尾行し、どこへ行くか見極めるのだ。そして信頼できるユダヤ人を雇い、イエーススに接触し、誰にも聞かれないようにこう伝えろ。『裏切り者の弟子がいる。すぐにそこを離れろ』と」

「しかし……総督(ガヴァナー)……」

「そうだ、私は帝国を裏切る。許せないのならば、密告しろ」

「受け入れます。それが、貴方のご決断ならば」

 一礼して、ロンギヌスは去っていった。

 その夜を、後世の人々は、こう呼んでいる――最後の晩餐――と。

 イエーススは、オリーブ山にあるゲッセマネの園という場所に潜伏していた。過越(すぎこし)祭の祝宴で人々が浮かれ騒ぐ中、突然やってきた完全武装の神殿警備隊を見て、ユダヤの民たちは呆然と立ち尽くした。

 ピラトの伝言により、ユダの裏切りを知ったイエーススは、彼にその裏切りを最後まで行わせた。つまり自分をローマに引き渡すよう命じたのだ。

 神殿警備隊によって大祭司の私邸に連行され、そこで受けた尋問で、イエーススは問題発言をしてしまったようだ。ピラトが場を収めようとしたときには、噂が民衆にまで知れ渡っていた。手遅れとも言える状況の中、どうにか手を打とうと彼は苦心した。

「私も尋問する。連れてこい」

 イエーススの身柄は州総督官邸(プラエトリウム)に引き渡された。そこでピラト自身が公開尋問を行った。

 問題発言は、尋問の中で弁明に用いられた聖書の引用だった。

『貴方たちは、人の子が《力》の右に座り、雲を引き連れて《天》より降り立つ光景を目にするであろう』

 宗教家にとっては当然の発言だったかもしれない。聖書は教典であり、原典であり、彼らのすべてなのだから。引用してもおかしくはないし、そうすべきだ。

 しかし《力》や《天》といった言葉は、ローマという国家において《権力》を意味する。反乱の意思ありと捉えられてもおかしくない。

 尋問当日。祈るような気持ちで、彼はただひとことだけ問うた。

「お前はユダヤ人の王か?」

 発言の何が問題になっているのかは、ロンギヌスを通じて牢獄のイエーススに伝えておいた。だから彼の発したこの質問に、イエーススが否定さえすれば、誤解であったと主張でき、民衆の怒りを収められる形に進むはずだ。

 けれど、彼の期待した答えは返ってこなかった。

「貴方がそう言うのなら、その通りです」

 会場は騒然となった。怒りの声が方々から上がり、居合わせた貴族(パトリキ)の中には「いますぐ殺せ!」と叫ぶ者までいた。全身が砕けてしまったような焦燥感に駆られ、ピラトはよろけて部下の一人に支えられてしまった。

 イエーススという人物は、ありきたりな人間が手駒のように扱うには気高すぎた。文字通り信仰に身を捧げており、命が惜しいなどという感情は、すでに彼の中には微塵とて存在しないのだ。

 万策尽きたピラトは、慈悲を求めてローマの元老院に書簡を送った。その中で、彼はこう記した。

〔イエースス・クリストゥスが、どんな罪で裁かれるのかを、私は知らない〕

 元老院の返答は無慈悲だった。

〔処刑せよ〕

 ピラトは天井をしばらく見つめてから親衛隊に声を掛けた。

「この中に、神の子へ槍を突き立てられる者はいるか?」

 即座に、屈強な男が前に進み出た。

「私が」

「ロンギヌスよ。理解しているか? これは消えない罪となる」

「もちろんです、総督(ガヴァナー)。私は貴方の槍。そうなると誓い、これまで戦ってきました。これからもそうです」

「ありがとう……そして、すまない」

 涙を流しながら、彼は命じた。

「彼を処刑せよ」

 三日後。処刑場である髑髏(ゴルゴダ)の丘に連行されてきたイエーススを、ピラトは哀しみに満ちた表情で迎えた。二人は言葉を交わすこともなく通りすぎた。

 イエーススは手足を杭で打たれても、苦悶の声一つ上げなかった。そして磔にされた。

 丘を埋め尽くすほどのユダヤ人が集まった。反乱すら起きそうな空気の中、イエーススはこう言った。

「誰も傷つけてはいけない。私は罪を〝向こう側〟に持っていく。それは喜ばしいことだ」

 喋り終えたあと、号泣の声が渦のように丘を埋め尽くした。大勢がイエーススの名を呼び、神の名を呼び、慈悲を乞うた。十字架刑は本来ならば窒息死を待つ処刑法であるのだが、イエーススのために集まった人々は多すぎた。暴動も起きかねない空気だったし、安息日も近かったことから、執行人であるロンギヌスは自ら槍を手に取り、イエーススの脇腹を抉るように深く刺した。イエーススはそのあと三時間生きたが、力尽きるように最後の呼吸をした。

 神の子が、死んだ――。

 絶叫が重なった。哀しみと怒りと怨嗟の声も、轟くように上がった。

 神の怒りだろうか。雷鳴が轟き、暴風雨が始まった。

 ピラトはその場に崩れ、膝をついた。

「私は……許されない決断をした」

 イエーススの骸は晒された。その身が腐り果てるまで、ユダヤ人の巡礼は続いた。

 イエースス・クリストゥスの処刑後もユダヤ属領は不安定な情勢となり、たびたび騒乱が起こった。ピラトはユダヤ人の憎しみの象徴となり、通りを歩けば石を投げられ、暗殺にも四度遭った。四度目の暗殺のとき、ロンギヌスは彼を庇って命を落とした。

 本国から事態の収拾能力がないと見なされ、彼はガリア属領に送られた。

(ガリアには、イーファがいる……!)

 傷心の中に僅かな希望を見出し、公務を投げ出してあの村へと赴いた。村人たちに会い、再開を喜んだあと、イーファに会いたいと告げると、皆の顔が沈んだ。

「巫女は、ここにおりません」

「……どこに行ったのだ?」

 村長は「長い話になります」と、ピラトを座らせた。

 イーファたち竜の巫女は、太古からの秘術を継承しているが、その術には目的があった。聖なる山には竜が棲んでいて、それはずっと眠っているのだが、数十年の周期で目覚めてしまう。竜は凶暴なので、放っておけば近隣の村々が滅ぼされてしまう。

「そこで巫女は竜に変身し、戦って蛮行を思い留まらせ、竜が眠るまでの時を稼いでおりました。しかし、今年は違ったのです。竜は激しく抵抗し、巫女たちは次々と倒されてしまった。イーファは最後まで残り、竜を打ち負かそうとしました。その争いは最も激しく、一週間に及びました。やがて地の果てまで飛んでいき、そこで相討ちとなったそうです。噂では、ずっと西にある湖に竜は落ちたそうです」

「……こう言っているのか? 竜や秘術は実在すると?」

「はい」

「ははは……」

「ピラト様?」

 ピラトは笑った。笑いながら涙を流した。村人は無言でそれを見つめた。

「……墓はどこか」

「山にありますが、そこは聖域でありまして。骸も残ってはおりませんし」

 ピラトは立ち上がり、歩き始めた。

「どちらへ?」

 答えず、ピラトは村を去った。山の方へ、ひたすら歩みを進めた。急勾配や反り返る岩肌をも不屈の意志で進み、やがて山頂でそれを見つけた。

 石碑がある。無数にある。風雨に浸食され、溶けたようになっている石もあれば、倒れた石もある。そこがイーファたち巫女の墓場であることは間違いなかった。

 ピラトは唇を震わせながら呟いた。

「……何一つ守れなかった。私に信念があれば、何か一つは守れたはずなのに」

 石碑に刻まれているガリアの言葉が読めないので、イーファの墓を見分けることもできず、無力さを一層痛感した。

 ピラトは腰のグラディウスを抜くと、自分の首を掻き切った。仰向けに倒れ込み、空を見ながら死に誘われていった。

(もう一度やり直せるのなら、今度は信じたい。大事な人の言葉を)

 竜のことも、秘術のことも、彼は笑い飛ばしてしまった。あの言葉を真剣に受け取り、村に残れば悲劇は防げたのかも。

 イエーススの言葉も心に留めて、帝国と戦えば、何かが変わったかもしれない。

(信じなかったから、何もできなかった。誰も救えなかった。ローマが、私をリアリストにしてしまった)

 悔やみながら、ピラトは果てた。

 死後の光景は深い闇であった。そこで彼は明るい輝きを目にした。輝きの奥に、一人の女性の影が見えた。

〔――汝が望み、聞き届けよう――〕

(誰だ……?)

 そして、死後。

 望みは聞き届けられ、勇者ピラトは一つの力を得た。

 信じなかったことを悔やんだ、その《秘術》を受け継いだのだ。


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