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不穏の始まり

 それからの日々の記憶は、すりガラス越しに覗く光景のようにひどく曖昧だ。



 まるで底なしの沼に足を取られたかのように、エレノアの立場は音を立てて崩れていった。

 シャルルがかの男爵令嬢――サラに傾倒すればするほど、エレノアに向けられる言葉は棘を含み、その態度はあからさまに疎外感を帯びるようになった。


 その空気の微細な震えを、宮廷という魔窟に棲む貴族たちが逃すはずもない。公爵家の威光に縋ろうとする保守派と、新たな勝ち馬に乗ろうとする日和見派。両者が入り乱れ、宮廷は毒の混じった派閥争いの渦へと飲み込まれていった。




 当の男爵令嬢はといえば、そんな醜悪な政争などどこ吹く風。

 今日も今日とて柔らかな日差しを浴びながら、シャルルと庭園で睦まじく茶会に興じている。


 エレノアは、冷え切った自室の窓から、その睦まじい光景を死んだような瞳で眺めていた。




 かつては彼に気に入られようと心を砕いてきた。けれど、今の自分の心は、嵐のあとの水面のように恐ろしいほど凪いでいた。


(……わたくし、理解しましたの。どれほど月日を重ね真心を尽くしても、たった一瞬の『恋』の前では無力に崩れ去るものなのね)


 それは、諦めというよりは、魂が肉体を捨ててどこか遠い場所へ遊離してしまったかのような、虚無に近い静寂だった。





 その時。眼下の庭園で、唐突にその異変は起きた。


 愛らしく可憐に笑っていた男爵令嬢が、おもむろに、ゆらりと立ち上がった。


 まるで見えない糸を無惨に断ち切られた操り人形のように、彼女の体は不自然な角度で折れ曲がり、その場で激しく、まるで地面に打ち付けられた魚のように痙攣し始めたのだ。


「――っ!?」

 静かな午後の庭園は、一瞬にして阿鼻叫喚の坩堝へと化した。



 令嬢の唇の間から、うららかな春の陽光にはおよそ似つかわしくないどす黒い鮮血が溢れ出した。血は真っ白なテーブルクロスを汚し、青々とした芝生へと広がり、絶望的なまでに鮮やかなコントラストを描き出していく。



 シャルルは、愛する令嬢の吐血をまともに浴び、その美しい顔を返り血で赤く染めたまま、石像のように呆然と立ち尽くしていた。

 しかし、弾かれたように何かに気づいた彼は、顔を上げると真っ直ぐに――エレノアの部屋の窓を見上げたのだ。


 その群青の瞳には、かつての冷淡さよりもさらに深く粘りつくような仄暗い憎悪と、確信に満ちた殺意が宿っていた。




(……ああ。わたくしがやったと。嫉妬に狂って彼女に毒を盛ったのだと、そう思っているのね、殿下)


 エレノアは窓辺で立ち尽くしたまま、己の心臓が不吉なリズムを刻み始めるのを感じていた。


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