舞踏会、ライバル登場?
王妃との接見から間もなく、婚約式を目前に控えた盛大な舞踏会の日がやってきた。
この夜のために、エレノアは自国の全貴族のみならず、遠方から招かれた他国の来賓一人ひとりの姓名、家紋、果ては直近の領地経営の動静にいたるまでを完璧に暗記してきた。
王家の一員になる身として、一分の隙も一度の粗相も許されない。張り詰めるような緊張感の中で、彼女は公爵令嬢としての矜持を盾に背筋を伸ばし、鋼のような意志で己を律していた。
隣に立つシャルルは、相変わらず冷ややかな氷の彫刻のように、義務的な態度を崩さない。
(これほど努力を重ねているのに……。せめて今日という日くらい、歩み寄るふりだけでも見せてくださってもいいのに)
エレノアは心中で誰にも気づかれぬよう小さく溜息を吐いた。だがその表皮には一貫して、陶器のように完璧な淑女の微笑みを張り付かせたままだった。
眩いクリスタルのシャンデリアの下、シャルルとエレノアが揃って入場すると、会場は雷鳴のような拍手と感嘆の溜息に包まれた。会は滞りなく進行し、貴族たちとの交流もエレノアの機転と教養によって驚くほど円滑に進んでいく。
(ああ、これまでの努力は無駄ではなかったわ……)
ほんの少し、自らの費やしてきた時間が報われ始めたような予感に、彼女の心は確かな自信で満たされつつあった。
――ガシャン!
突如、華やかな円舞曲を切り裂くように、鋭く不吉な音が響き渡った。
見れば、一人の令嬢が手元を狂わせたのか、ワイングラスを床に砕き、毒々しい赤紫の液体を自らの淡い青のドレスに浴びて立ち尽くしていた。
注がれる冷酷な好奇の視線。彼女は真っ白な顔で立ち尽くし、その大きな瞳に涙を溜めて、今にも崩れ落ちそうに華奢な肩を震わせている。
エレノアが公爵令嬢として、そして未来の王太子妃として、速やかにこの不調和を収拾しようと口を開きかけたその時だった。
ふと横を見ると、それまで万物に対して無関心を貫いていたシャルルが、その光景を食い入るように見つめている。彼の群青の瞳には、これまでの冷淡さが嘘のような焦れったいほどの激しい熱が宿っていた。
シャルルは吸い寄せられるように令嬢へと近寄ると、周囲の目も憚らず優しく彼女の震える手を執ったのだ。
「……大丈夫か。無理に笑わなくていい。さあ、こちらへ」
彼は側に控える侍従に鋭く手短な指示を出すと、戸惑う令嬢に寄り添い、世界から彼女を守るようにして会場から控え室へと姿を消した。
彼女の柔らかそうな栗色の髪が甘い余韻を残してエレノアの視界から消えていく。
取り残されたエレノアは、差し伸べようとした手を空中に彷徨わせたまま、ただその背中を呆然と見送ることしかできなかった。
シャルルが誰かにあんな眼差しを向けるところを、エレノアは一度も見たことがない。
エレノアは、この時初めて知った。
理屈も利害も、積み上げた時間さえも飛び越えて、人が恋に落ちる残酷なまでの瞬間を。
「……クスクス。見ました? あの方しがない男爵令嬢でしょう? シャルル殿下にあんな風に、まるでお姫様のように扱われるなんて」
「完璧すぎて可愛げのない方より、あのように脆い方のほうが殿下のお心には響くのかしら。エレノア様も、形無しですわね」
会場の隅から、甘い毒を含んだ嘲笑がさざ波のように漏れ聞こえてくる。
エレノアは喉の奥がせり上がるような、猛烈な吐き気に襲われた。
震える指が、豪華なドレスの下に隠されたあの古めかしいネックレスを探し当てる。彼女は逃げ場を求めるように、その石を強く、肉にめり込むほど強く握りしめた。
その時ネックレスの赤いくず宝石が、一瞬だけどろりと暗い光を放ったことに、彼女は気づいていなかった。




