完璧な王妃への道
王城に住まいを移してから、早いもので一年が経った。
王妃教育は順調そのものだった。礼儀作法、歴史、多国語、帝王学――。
エレノアの持ち前の才覚と血の滲むような努力は、並の令嬢なら逃げ出すような過酷なカリキュラムを軽々と飲み込み、厳格な教育係たちに「建国以来の才女」と言わしめるほどであった。
だが、その完璧な成績表の裏側で、ただ一点、どうしても埋めることのできない暗い溝が横たわっていた。
婚約者であるシャルル王太子との、あまりに希薄で温度を欠いた関係である。
定期的に設けられる茶会や公務の合間の交流の場は、エレノアにとって、心の通わぬ事務的なやり取りを繰り返すだけの、乾いた砂を噛むような時間となっていた。
焦燥ばかりが募る日々の中で、彼女は必死に彼の色に染まろうと試行錯誤を重ねてきた。
シャルルがチコリの苦味を厭うと耳にすれば、本当は好物であるにもかかわらず、さも同じく不得手であるかのように演じ、距離を縮めようとした。
彼が得意とするチェスでは、ただ無様に負けるのではなく、盤上で火花を散らすほどの接戦を演じた末、一歩及ばず敗北を喫してみせる。
それが、彼の自尊心を最も満たすと信じて疑わなかった。
しかし、どれほど心を砕いても、シャルルから返ってくるのは、薄氷のように冷たく、感情の起伏を削ぎ落とした反応ばかり。彼の群青の瞳に、エレノアという存在が鮮明に映り込んだことは、ただの一度もなかった。
(お母様の期待に応えなくちゃ。シャルル様に好かれなくては。わたくしが、殿下を支える唯一の存在にならなくては……)
エレノアは無意識に、母からもらった古いネックレスを握りしめる。不安に駆られると、赤いくず宝石の尖った角を指先に食い込ませるのが、いつしか彼女の隠れた癖になっていた。
そんなある日、エレノアは侍従に促され、今まで足を踏み入れることを許されなかった「静寂の階」へと案内された。そこは王城の最上階に近い、王妃専用の離宮であった。
病弱ゆえに長らく伏せっており、公式の場にほとんど姿を見せない王妃ローズ。エレノアにとって彼女は、絵画の中の住人も同然だった。
突然の招集に、心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴らされる。
廊下の壁には、歴代の女王や王女たちの肖像画が、儀仗兵のように整然と並んでいる。薄暗い照明の中で、彼女たちは憂いを帯びた瞳を向け、永遠に止まった時間の中に美しく……そして不気味なほど静かに佇んでいた。
「……よく来てくれました。エレノア。このような姿で迎える無礼を許してちょうだい」
王妃は、天蓋付きの大きな寝台に、半身だけ起こしている。
落ち窪んだ目の下には何層にも重なる深い隈があり、透けるように白い肌は、死を予感させるほどに痛々しい。
「ローズ王妃殿下、お目通りが叶い、身に余る光栄に存じます。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ」
「あなたには、ずっと会わなければと思っていたの。今日は珍しく、頭がはっきりしていたから……」
王妃の言葉には、命を削るような危うさがあった。エレノアは、意を決して問いかけた。
「差し支えなければ……殿下のご病状について、伺ってもよろしいでしょうか」
王妃は力なく、しかし焦点の定まらない瞳で、どこか遠い異界を見るように微笑んだ。
「そうね……。実は私、シャルルを産み落としたその日から、毎日同じ夢を見るようになったのよ」
「夢……、ですか?」
「ええ。夢の中で、私は湿り気を帯びた城下町を走っているの。何か得体の知れないものから必死に逃げるように。細い路地を曲がった先で行き止まりに突き当たり、私は咄嗟に木箱の陰に身を潜める。恐怖で胃の底がせり上がり、心臓の音が爆ぜるように鳴り響く。音を立ててはいけないと思うのに、歯の根が合わずカチカチと鳴り、震えを止められない……。やがて、ゆっくりと、土を噛むような確実な足音が近づいてきて――捕まった、と思った瞬間に目が覚めるの」
王妃の語りは、まるで今そこで体験しているかのような生々しさだった。
「医師は、王妃という重責が、無意識のうちに心を押し潰しているのだろうと言ったわ。けれど何度も何度も同じ恐怖を繰り返すうちに、今度は眠ることができなくなってしまった。今では強い薬を使っても細切れにしか眠れず、自分が昼にいるのか夜にいるのかさえ分からないのよ」
ローズは弱々しい、枯れ枝のような手でエレノアの手を包み込んだ。その手は、驚くほど冷たかった。
「だからね、エレノア。王妃という椅子は、あなたが想像する以上に過酷な『檻』なの。私のようになってしまう前に……シャルルや周囲を頼りなさい。そして、どうかこの国を支えていって」
その直後、王妃の激しい咳き込みを合図に、控えていた侍従が割って入り、接見は唐突に終わりを告げた。
逃げるように部屋を辞した際、エレノアは廊下に飾られた一枚の肖像画と、視線が絡みついたような気がして思わず足を止めた。
描かれているのは、十五、六歳ほどに見える可憐な少女。記された名を見れば、それはエルドラント王国・初代国王の娘、シャルロット王女であった。
極めて身体が弱く、歴史の表舞台に出る前に早世したため、記録がほとんど残っていない悲運の王女。
肖像画の中の彼女は、寂しげな眼差しをこちらに固定していた。
「……わたくしも、ここに並ぶ方々のように、立派に役目を果たせるかしら」
エレノアは自分の奥底から湧き上がる不安を圧し殺すように、胸元のネックレスをぎゅっと握りしめた。
古い石の角が、手のひらの柔らかい肉に鋭く食い込み、小さな、けれど確かな痛みが走った。




