涙のプレゼント(後編)
「リアム……(嘘をついて)ごめんなさい」
時を告げる大聖堂の鐘の音が、帝都に鳴り響く。
その音に紛れるように、エルザは小さな声で呟いた。
◇
帝都を一望できる旧城壁の高台から沈みゆく夕陽を見つめるリアムの顔は、優しく穏やかだ。
全てを見通しているかのような薄紫色の瞳を真っすぐに向けられてしまったら、エルザは何もかも話してしまいそうになる。
だから、彼の顔を見ずに背中へ呟いた。
「いま、何か言ったか?」
「ううん、何にも……」
振り返ったリアムと目を合わせず、エルザはもう一度嘘をついた。
◆◆◆
昨日の午後、離宮にいるエルザのもとを訪れたのは宰相のグレイソンだった。
彼はこれまでの件について丁重に礼を述べたあと、一枚の書類を取り出す。
「最後に、こちらにあなたの署名をいただきたいのです」
「これは、何の書類ですか?」
「エルザ殿の記憶の一部を封印する、魔法契約書です」
「記憶の封印……」
この依頼を受けたときにリアムが言っていた、任務終了後にエルザの記憶を操作するという話。
エルザは記憶を消されるのだと思っていたが、そうではなく記憶を封印するようだ。
差し出された書類に記載された項目へ、エルザは慎重に目を通す。
「契約書に、安易に署名はするな」
「契約内容をきちんと確認をしてから、署名しなさい」
父から繰り返し言われた言葉を思い出しながら、一つ一つ時間をかけて確認をしていく。
「あの、今回の依頼内容である『ヴィオレット妃に成りすました記憶』を封印されるのはわかるのですが、『リアムに関しての、全ての記憶』とは、どういうことなのでしょうか?」
関わりをもったすべての人の記憶ではなく、なぜリアムだけに限定されているのか。
エルザには理由がわからなかった。
「率直に申し上げると、あなたが母国へ帰られたあと、彼と接触できないようにするためです」
「帰国しましたら、私がご子息と会うことは二度とありません」
いつものように侍女に扮して宮殿を離れ、用意してもらった馬車でそのまま帰国の途につく予定だ。
そもそも、これは極秘任務だったのだから、エルザがトールキン帝国へ再び来ることはない。
グレイソンの誤解を解こうときっぱりと否定したエルザだが、宰相の固い表情は変わらなかった。
「エルザ殿は、そのおつもりでしょう。しかし、彼は違う。あなたとの将来を真剣に考えている。私にはわかるのです」
「…………」
「彼個人の幸せを思えば、あなたとのことを認めてやりたい。……ですが、今の彼の立場では、到底認めることはできないのです」
誠に申し訳ない……自分へ深々と頭を下げるグレイソンを、エルザはぼんやりと眺めていた。
自分は他国のしがない子爵家の娘。対して、リアムはこの国の宰相の息子。
到底釣り合わないことは嫌というほど理解しているから、リアムとこの先も……なんて考えは始めから持っていなかった。
(だけど、できればこれだけは……)
「あの、リアムから私の記憶だけを封印することはできないのでしょうか?」
「それが可能であれば一番良かったのですが、事情があり、彼の記憶を操作することはできないのです」
「……わかりました」
エルザはペンを取ると、間髪入れずササッと署名する。
何事もないような顔で表情を一切変えず、宰相へ書類を返却した───手の震えを気付かれないよう、慎重に注意を払いながら。
◆◆◆
「エルザは、侍女としての仕事が残っているのだろう?」
「うん、最後までしっかりと役目を果たさないとね」
「俺も、これから後処理に追われそうだ。当分、離宮には顔を出せないと思う」
「そっか、頑張って!」
今日のことも、これまでリアムと一緒に過ごしてきた日々のことも、いずれエルザは忘れてしまう。
(あなたのことだけは、忘れずにいたかったな……)
エルザの心の呟きも、リアムには聞こえていない。
無邪気に笑う彼の顔を、エルザはいつまでも見つめ続ける。
瞼に焼き付けるように、脳裏に刻み込むように。
大好きだった人の顔も名前も思い出も自分は忘れてしまうけれど、せめて夢の中で、物語に登場する森人として再会したいと心から願う。
「リアム、愛してる……これからも、ずっと」
「俺も、愛してる」
再びリアムの顔が近づいてきたが、今度は逃げずにエルザは目を閉じる。
(夢の中でも、こんな風にリアムは口付けをしてくれるのかしら?)
そんなことを考えたら可笑しさが込み上げてきて、エルザは小さくクスッと笑った。
「何を笑っているんだ?」
「リアムには、内緒よ」
「内緒にされると、余計に気になるな……」
拗ねたように軽く尖らせたリアムの唇に、エルザは背伸びして軽くお返しをしたあと、彼の背中にそっと腕を回す。
左手のブレスレットが、シャラリと音を立てた。




