涙のプレゼント(前編)
夕暮れに染まる街を、エルザはボーっと眺めていた。
気づいたら、周りには二人以外誰もいない。
ローマンの姿も消えていた。
「これを、エルザにやる」
リアムが懐から取り出したのは、ブレスレットだった。
付いている飾りは定番の貝だが、今日エルザが土産用に購入した巻貝ではなく二枚貝の一片のもの。
夕日を浴びて、キラキラと虹色に輝いている。
「わあ、綺麗ね……」
「これは、貴重な貝で作られた特別なものなんだぞ」
「そんなの、見ればわかるわよ。ありがとう、大切にするわ」
「……受け取ってくれるのか?」
「当たり前でしょう」
エルザがさっそく右手首に着けてみると、シャラリと音がする。
飾りだけでなく紐も、通常の革や植物のツルではなく金属製だった。
「エルザ、着ける場所が違う。右ではなく、左に着けるんだ」
「だって……私は左利きだから、こっちに着けると引っかかって切れてしまうかもしれないわ」
「切れたら、直せばいい」
そう言うと、リアムは強引に着けかえた。
エルザの意見などお構いなしで、「うん、よく似合うな」と一人悦に入っている。
「おまえ……わざと右に着けたよな?」
「……何のこと?」
「とぼけるな。『帝都恋物語』を隅から隅まで熟知しているやつが、これの意味を知らないわけがない。クロエたちがお互いに贈りあったブレスレットは、二人とも左に着けていただろう?」
「あれは、二人とも右利きだからじゃないの?」
「違う! 右に着ければ『友情の証』で、左なら『愛情の証』。女性は相手から貰ったものを左に着けることで、求婚を承諾したってことだ」
恋愛小説は読まないと言っていたリアムが、ついに読んだらしい。
内容までしっかりと把握していることに、エルザは驚きを隠せない。
「だ、だから、これは『友情の証』で右に着けたのよ!」
「……迷惑か?」
「えっ?」
「『俺の気持ちは、エルザにとって迷惑か?』と訊いている」
「…………」
リアムはズルいと、エルザは思う。
いつもは不敵な笑みを浮かべたり、余裕綽々なくせに。
こんなときだけ綺麗な顔を歪ませ、縋るような泣きそうな表情で尋ねられたら、エルザはどうしたって「迷惑だ」と言えるわけがないのだから。
「返事をしないってことは、迷惑じゃないってことだな」
「どうして、そうやって自分の都合の良いように解釈をするかな……」
ぽつりと呟いたエルザに、リアムは「だって、俺は我が儘だからな」と笑う。
「エルザ、結婚しよう。俺が必ず幸せにしてやる」
今度は回りくどいことをしなかった。
真っすぐ自分の目を見て求婚したリアムを、エルザは黙って見つめ返す。
(私が、この人と結婚をしたら……)
毎日、子供っぽい我が儘を言われるかもしれない
毎日、面倒くさい性格に振り回されるかもしれない
毎日、お互いに言いたいことを言い合うかもしれない
それでも、毎日、笑顔が絶えない家庭を築くことができるだろう……
そんな未来を一瞬だけ想像したエルザだが、すぐに首を横に振った。
「……私は、他国のしがない子爵家の娘よ。でも、リアムはこの国の宰相様の息子。家のことを考えたら、あなたはこの国の有力貴族のご令嬢と結婚するべきだと思う」
「俺はそんなことは訊いていない。エルザの本当の気持ちが知りたい」
「リアムには……婚約者がいるじゃない」
「……えっ?」
「宰相様の子息には、すでに婚約者が決まっていると聞いたわ。まあ、この国には重婚制度があるから、何人と結婚しようと問題はないかもしれないけど」
「ち、違う! それは、俺じゃなくてローマンだ!!」
「だったら、遅かれ早かれリアムだってすぐに決められるわ」
「…………」
「私の国には、重婚制度なんてない。父の奥さんは母一人だけで、とても仲が良いのよ。私はそんな家庭で育ってきたから、他にも奥さんが居る人と結婚なんてできない。考えられないの。文化の違いと言えば、それまでなんだけどね」
エルザの話を、リアムは黙って聞いている。
先ほどから握りしめられている拳が、小刻みに震えていた。
「だから、私は──」
「……俺に、他に婚約者がいなければ、エルザは結婚してくれるんだな?」
「ちょっと待って! 今の話を聞いていた? 私は、あなたからの求婚を断ったの。だから、この話はもうおしまい。さあ、そろそろ帰らな──」
「求婚を断ったやつが、どうして泣いているんだ? 泣くのは、フラれた俺のほうだろう?」
リアムの長い腕に囚われたエルザは、声を出さずに泣いていた。
ずっと我慢をしていたのに、彼の温かい胸のなかで涙は堰を切ったように次々と溢れ出てくる。
服が濡れてしまうとエルザは慌てて離れようとしたが、リアムに阻止され叶わなかった。
「エルザの、気持ちが知りたい」
「私は…………リアムが好き」
できることなら、この感情は知らないままのほうが良かった、と今でも思う。
それでも、自覚してしまったのだ。あの日、身を挺してリアムを庇ったときに。
「うん、知っていた。だって、命がけで俺を守ってくれたのだからな。そして俺も、ずっと前からエルザが好きだった」
「うん。薄々とそんな気はしていた……かも」
「ハハハ! 俺はわかりやすいからな」
エルザから離れると、リアムは左手の袖を捲ってみせる。
そこには、彼女へ渡したものと全く同じブレスレットが輝いていた。
「この貝の飾りは、二枚で一対になるもの……つまり、一つの貝殻から作られている。だから、これは『結婚の証』でもあるんだ」
「ん? 『結婚の証』って……」
「騙し討ちみたいで申し訳ないが、俺とエルザは今日、形式上は夫婦となった」
「嘘でしょう!? 本当に騙し討ちじゃない!!」
「これには、深い事情があるんだ……今はまだ、話せないけど」
リアムはエルザの左手を取ると、両手でそっと握りしめ口元へ持っていく。
「俺は必ずエルザを迎えに行く。だから、それまで待っていてほしい」
「…………」
「エルザ?」
「早く迎えに来てくれないと、私……リアムのこと忘れちゃうからね」
「アハハ! それはひどいな。じゃあ、エルザが俺のことを絶対に忘れないように、心と体に刻み付けておくか」
「どういうこと?」
「こういうこと!」
夕日を背に、ニヤリと笑ったリアムは、憎たらしいほど格好いい。
悔しいけど、自分はこの人のことが好きなのだと、エルザは嫌でも再確認してしまう。
ボーっと見つめていたエルザの額に、リアムは優しく口付けをした。
「もう! 誰か来たらどうするの?」
「大丈夫。誰も入って来られない」
額の次は、少し腫れぼったい両瞼。そして、両頬へ。
リアムはこれでもかというくらい、口付けを重ねる。
「わ、私が悪かったわ。だから、もうやめて!」
エルザは口付けの雨からどうにか逃れようとするが、リアムは片手で彼女の両手首を掴み、もう片方で頭を押さえこんでいて成す術がない。
「リアムのことを忘れるなんて言わないから、もう許して……」
「ダメだ。まだ許さない」
「どうしたら、許してくれるの?」
「そうだな……エルザからも、俺に口付けをしてくれたら許してやろうかな」
「はあ?」
「言わなくてもわかっていると思うが、もちろん、ここにだぞ」
当たり前だと言わんばかりの顔で、リアムは形の良い自分の唇を指さした。
そのまま近づいてくる綺麗な顔をサッと躱したエルザは、両手で両頬をムニっと引っ張る。
「へふざ、ひたい」
「悪い子には、お仕置きをします」
「ちょおひにのって、ごへんなさい……」
「ふふふ……わかれば、よろしい」
手を離したあと、少し赤くなっているリアムの頬をエルザは優しく撫でる。
もう少し手加減してあげればよかったかなと思いながら。
「結婚した後も、俺はこんな風にずっとエルザの尻に敷かれるんだろうな……でも、子供の前では威厳のある父親の姿を見せるぞ」
何とも気の早い話を始めたリアム。
エルザが苦笑しながら眺めていたら、カランコロンと大聖堂の鐘の音が聞こえてきた。
「エルザ、もうすぐ日が沈む」
旧城壁の上から夕陽を眺めるリアムの背中は、今でも十分に威厳があるとエルザは思う。
「あなたなら、絶対に良い父親になれるわね」と言いかけ、すぐに口を閉じる。
代わりに、こんな言葉が口をついて出た。
「リアム……ごめんなさい」
鐘の音に隠れるように、彼に聞こえないように、エルザは小さく呟いた。




