シグマ・アンチエージング研究所
九条院邸の近くからタクシーに乗って、シグマの研究所がある街に向かった。
ほどなく、その街にあるアーケードの端まで着き、僕はタクシーを降りた。
夕方の街はまだ明るく、アーケードの入り口は人が多く活気がある。
プリントアウトした地図によると、研究所はこのアーケード街の中にあるはずだ。
アーケードに踏み込むと、学校帰りの学生が目につく。
本来なら、僕もこんな感じで下校の寄り道なんかしているはずなのに……。
いや、僕だけじゃなく、麗ちゃんもそうだったはずなんだ。
果たして、僕たちがタイムマシンまで使って、過去に戻った意義はあったのだろうか?
もし、あの事件の後、元の時代にそのままいたら、どうなっていたのだろう?
そんなことをあれこれ考えていたら、惣菜屋からいい臭いがしてきて、思わずふらふらと店先に近づいてしまった。
そういえば、今日は朝から何も食べていない。
猛烈にお腹も鳴っているようだ。
「お嬢ちゃん、これ一つ食べていけば、ほれ」
物欲しそうな顔に見えたのか、惣菜屋のおばちゃんが、さつま揚げを小皿に乗せて勧めてくる。
普段なら断るんだけど、空腹があまりに酷いので、受け取って頬張る。
「うん、美味しいよ! おばさん」
「そうじゃろう。揚げたては旨かろう。ほれ、もう一つ、食べてみい」
今度はゴボウ天か何かのようで、これも旨そうだ。
僕が手を伸ばすと、それより先にひょろ長い腕が伸びてきて、ゴボウ天を奪い去った。
すかさず振り向いて、僕のゴボウ天を強奪したヤツの顔を見上げた。
のっぽで面長の顔の男がさらりと言う。
「おばちゃんのゴボウ天はいつ食っても旨いな。他のもいい?」
男は、まだ僕に気づいていないようだ。ゴボウ天を取られた恨みもあるので、男の大きな足を、思い切り踏みつけた。
「痛っ! この、ガキ、何しやがる!」
男が僕を見下ろす。
と、男の顔から怒気がみるみる消えて──、
「じゃあね、おばちゃん」と素早く方向転換して、早足で歩き始めた。
「ちょっと、待てよ!」
その後を追うが、脚の長い男は既にかなり先を歩いている。
走ろうとしたけど、お腹が減りすぎて力が出ない。
そうこうしているうちに、男は人混みに紛れてしまった。
「逃げても、居場所は知ってるんだぞ!」
あれは、どう見てもシグマだった。
逃げた理由はよくわからないが、僕に会いたくないことに間違いはなさそうだ。
空腹でふらつく足で、時々人にぶつかりながらも、僕はようやく研究所の場所をつきとめた。
その研究所はネイルサロンの二階にあった。
あまり目立たないが、窓ガラスに『シグマ・アンチエイジング研究所』と間違いなく書いている。
ネイルサロンの脇の階段を上り、ドアの前に立つ。
シグマがここにいるのは間違いない……。
意を決して、僕はドアを開いた。
「いらっしゃいませ、お客様。こちらは初めてでしょうか?」
受付の若い女性が、営業スマイルで僕に声を掛けてきた。
想定外のことだったけど、美容サロンなら当たり前のことだった。
「いえ……、ちょっと見学に来ただけなんだけど、シグマはいる?」
「はっ? 所長ですか? おりますが、所長とはどのようなご関係でしょう?」
「うーん……、そうそう、古くからのつきあいなんだ。九条院といいます」
適当にそう答えたけど、合ってるようで合ってないような気もする。
五十年以上前の時代から知っているけど、つきあい自体はほとんどないからだ。
受付のお姉さんは、ちょっと困ったような表情をしたが、「九条院さんですね。確認してきます」と奥の部屋に向かった。
僕はこっそりとその後を尾けた。
どうせ、居留守にされるか、断られるに決まっているからだ。
受付のお姉さんが部屋に入ると、「知らないなあ。追い返しといて」とシグマの声がした。
思ったとおりだ。
開いたドアの陰に隠れ、お姉さんが受付に戻るのを見計らって、シグマの部屋に飛び込んだ。
「シグマ! ついに見つけたぞ!」
そんなに時間をかけて探してもいないけど、ついこんな台詞が口から出た。
シグマは僕を凝視して固まっている。
「なんとか言ったらどうだ、シグマ!」
シグマはまだ固まっている。
そんなに驚くことでもないと思うのだけど、誤魔化せるとでも思ってたのかな?
シグマのいる机に近づくと、ようやく彼は口を開いた。
「お前は日々之郁なのか?」
「そうだよ。お前のせいで、こんな姿になったんじゃないか」
僕はシグマの前の椅子に腰掛けた。
シグマは机の上に両肘を付き、長い指を組んだ。
「それで、その日々之が私に何の用だ?」
これまでの出来事も忘れたかのように平然とした態度で、シグマの目がぎょろりと僕を睨んだ。




