帰路を導く夜
読者の皆様、こんにちは。
タグにもあります通り、本作はストーリー展開が少しのんびりとした「スローペース」な作品です。その分、登場人物たちの関係性や心理描写、そして作品全体の空気感やテンポを丁寧に描き出すことに、かなり力を注いでいます。
そのため、作品の核心となる設定やメインストーリーは、序盤からすぐに明かされるわけではありません。基本的には、のちの展開への「伏線」として、少しずつ作中に織り交ぜていく形をとっています。
もし、じっくりとした空気感や丁寧なスローペースがお好きでしたら、ぜひこのまま楽しんでいただけますと幸いです。
逆に、テンポの速い展開や、序盤からの激しい衝突を楽しみたいという方は、ストーリーがある程度進んだ段階でお読みいただく方が、より楽しめるかもしれません。どのような形であれ、本作に興味を持っていただき、応援していただけることが何よりの励みになります。
また、本作はどのエピソードへのコメントも大歓迎です!
お褒めの言葉やご感想はもちろん、客観的なご意見、厳しいご指摘や批判などもすべてありがたく受け止めます。どうぞお気遣いなく、自由にかつお気軽にコメントを残していってくださいね。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
その装束は、神様と語らうときにのみ許されるものだという。
神聖で、それでいて美しい。見る者は自然と敬意を抱かずにはいられない。
今は祭りの時期ではない。
それなのに、彼女はその装束を身にまとっていた。神様と語らっているわけでもない。そもそも、彼女の傍には誰ひとりいなかった。
そこは、とても、とても高い場所だった。
彼女はそこから歩き始める。たったひとりで、下へ向かって。
もし遠くから眺めていたなら、その姿はきっと――天から地上へ降りていくように見えただろう。
旅路が続くにつれ、人の姿も少しずつ増えていった。
人々は彼女を目にすると、誰もが手を止め、その背中を見送った。近づく者はいない。声をかける者もいない。誰もが言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
彼女もまた、誰かのために足を止めることはなかった。誰とも視線を交わさない。
歩き始めたそのときからずっと、彼女はただ自らの目的地だけを見つめていた。
海辺には大勢の人が集まっていた。誰もが示し合わせたかのように十分な空間を空け、彼女を待っている。その姿が見えると、人々は静かに居住まいを正した。子どもたちでさえ、一言も発しなかった。
彼女は終着点へ辿り着く。
人々の間を抜け、その先で待っていた一艘の小舟へと歩み寄った。無数の視線に見守られながら、彼女は静かに舟へ乗り込む。岸を離れる水音が、ようやくこの世界にわずかな音をもたらした。
時が過ぎるにつれ、舟影は少しずつ遠ざかっていく。
――ふと思い出したかのように。
彼女は振り返った。
自らが去ろうとしている場所を、最後に一度だけ見つめる。
涙はない。
未練もない。
宝石のように美しいその瞳には、何ひとつ映ってはいなかった。
◇
少女は一枚の葉を水面へ投げ入れた。
広がる波紋が、先ほどまで映し出されていた光景を揺らし、かき消していく。やがて水面が再び静寂を取り戻したときには、もう何も映っていなかった。
「にゃ?」
共にその光景を見ていた仲間が、不思議そうな声を上げる。
少女は小さく頷いた。
「うん。ずっと、ずっと昔のお話。誰にも想像できないくらい昔」
白い子猫だった。
少女とともに、水を鏡として覗き込み、時の底へ埋もれた過去を見ていたのだ。
「にゃ?」
「私の目的?」
少女は少し考えるように首を傾げる。
「う—ん……教えてあげてもいいけど、たぶん理解できないと思うよ?」
「にゃぁ……」
「あっ、違う違う。見くびってるわけじゃないからね」
少女はくすりと笑った。
「じゃあ、言うね?」
子猫を抱き上げ、膝の上へ乗せる。その頭を優しく撫でながら、彼女は遠くを見つめた。白衣に緋袴をまとった姿が、花のようにそこに咲いている。
「私の目的はね――」
少しだけ間を置いて。
「自分が死ねるようになること」
「……」
「何か言ってよ、子猫ちゃん。結構衝撃的な告白だと思うんだけど」
「にゃ……」
「ありがとう。でも、同情はいらないかな」
子猫は少女の膝から降りると、隣の石段へ飛び乗った。そして真っ直ぐに少女を見つめる。
一人と一匹。
視線を交わしたまま、長い沈黙が流れた。
「にゃ」
「――決めたんだね」
少女は静かに目を伏せる。
「分かった。ありがとう……ごめんね、子猫ちゃん」
寂しげな表情だった。自責の念に耐えきれないように、彼女は視線を逸らす。もう子猫の目を見ることができなかった。
「にゃ」
「君には名前があるの、ちゃんと知ってるよ」
少女はかすかに微笑む。
「でも、その名前で呼ぶのはあの子に任せる」
そして、どこか苦しそうに続けた。
「私には……その資格がないから」
少女は背を向けて歩き出した。子猫は追いかけない。そのまま少女がこの場所を去ろうとしたとき――
背後から最後の鳴き声が聞こえた。それは子猫の最後の問いだった。
少女は足を止める、振り返る。
「え? その人は私なのかって?」
少女は微笑んだ。
「さて、どうだろうね――子猫ちゃんも、さっき一緒に見てたでしょう?」
◇
ある日のこと。
高校入学を翌日に控えた、その前日の夜だった。
俺は一人で散歩をしていた。
もう春だというのに、夜の海辺は少し肌寒い。
俺には海辺にお気に入りの場所がある。
人のほとんど来ない、静かな場所だ。
そこで過ごしていると、この世界から音だけが切り取られたような気分になれる。
明日からは新しい高校生活が始まる。
不安や緊張があったわけじゃない。
けれど、何も感じていなかったと言えば嘘になる。
だからこそ、今夜は少しだけそこで過ごそうと思ったのだ。
――だが。
そこへ向かう途中。
必ず通る道の先に、一つの人影があった。
月明かりに照らされたその姿は、たぶん女の子だった。
俺はかなり離れた後方から、海辺を歩く彼女の背中を見つめる。
こういう状況なら、俺はいつもすぐに正しい判断を下せる——ただ通り過ぎる。
それだけだ。
けれど――
なぜか今は、その場に立ち止まっていた。視線だけが、波打ち際を歩く彼女を追い続ける。
宵の明星。空に浮かぶ月。
頬を撫でる夜風。寄せては返す潮騒。
少しずつ。
俺の鼓動は静まっていった。




