1.吹雪の追跡者
エルザは背後を振り返らない。振り返れば、またあの餓鬼がそこにいると分かっていたからだ。
深く積もった雪道を歩きながら、意識だけを後方に向ける。数メートル後ろから、自分と同じように雪を踏み締める音が聞こえていた。ただ、その音は驚くほど小さく、小刻みだ。
エルザがおもむろに立ち止まると、背後の気配もピタリと止まる。
眉間に皺を寄せたまま、今度はわざと早足で歩き始める。すると後ろの足音も、それに合わせて慌ただしく速度を上げる。しばらくの間、静寂のなかに二人分の足音だけが響いていた。距離は一向に縮まらず、広がりもしない。
エルザは再び足を止め、今度こそ観念したように振り返った。
そこには五、六歳だろうか、まだ幼さの残る顔立ちをした男の子が、じっとエルザを見つめて立ち尽くしていた。
「……付いてくるな」
深いため息とともに吐き出した言葉は、これで何度目になるだろう。そして、この言葉が通じないことも、すでに嫌というほど分かっていた。男の子はキョトンとした表情のまま、ただエルザを見つめ返してくる。
「街に帰れ」
エルザが顎で、遠く小さくなりつつある街を指し示す。男の子はその動きを追って一度街を振り返ったが、すぐにまたエルザに向き直り、言葉の意味を測りかねるように首を傾げた。
「……はぁ」
何度目か分からないため息を噛み潰し、エルザは踵を返して街へと歩き出した。
数歩もしないうちに、背後からタッタッタッと軽い足音がついてくる。その音を耳の端で拾いながら、エルザはどうしたものかと独りごちた。
この餓鬼のせいで、街道を何度引き返したか分からない。教会に預けても、人混みで上手く撒いても、街の住人に頼み込んでも、結果はすべて失敗に終わっていた。
自身が泊まっていた宿屋の重い木扉を押し開けると、暖炉の熱気とともに酒と埃の匂いが鼻を突いた。エルザはカウンターにいる宿屋の主人を見つけると、背後をトコトコとついてきていた男の子の襟首を、荷物のように雑につかみ上げる。
「こいつを引き取ってくれ。金は払う」
主人は男の子を一瞥し、これ見よがしに嫌悪の表情を浮かべた。
「いらねぇよ、こんな餓鬼。子を捨てるたぁ、薄情な親だな」
「……全滅していた隣村の生き残りだ。中央の役人が来るまで、数日預かってもらうだけでいい」
それに、そもそも私の子じゃないことは分かってるだろ、とエルザは口の中で悪態をついた。
「だったら教会にでも連れていきな」
「……あそこからは、すでに二回脱走された」
エルザが憮然とした顔で答え、懐から金貨を二枚、カウンターの木肌に置く。
「数日こいつの口を減らすだけなら、お釣りが来る額だ」
主人は金貨と男の子の顔をしばらく見比べていたが、やがて仏頂面で金貨を懐にしまい込んだ。
「わーったよ、預かってやる。」
「頼んだ」
エルザは抵抗する男の子を主人に押し付けた。
「私がこの街を出るまでは、絶対に脱走しないよう見張っておいてくれ」
主人が不承不承首を縦に振るのを確認し、エルザはその腕の中でジタバタと暴れる男の子に視線を向ける。
「今日からその親父の言うことを聞け」
それだけ言い残すと、背中に突き刺さる視線を無視して、エルザは宿屋を後にした。
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再び街道を歩き始めて、どれほどの時間が経っただろうか。
山の天候は急変し、あたりは凄まじい地吹雪に包まれていた。暴風に煽られた雪の結晶が、礫のように顔を叩きつけて痛い。一メートル先をすら見えない。耳を圧するのは風の唸り声と、自分が雪を踏み締める鈍い音だけだ。
エルザはフードを深く被り直し、背負っていた身の丈ほどもある槍を雪に突き立て、杖代わりにしながら歩を進める。
――その時、ふと、風の音の隙間に別の足音が混ざった気がした。
素早く振り返るが、視界を埋め尽くすのは吹き荒れる白一色の壁のみ。他に動くものは何もない。エルザは不審に思いながらも、再び前を向いて歩き出す。だが、やはり肌にまとわりつくような「気配」が消えない。
エルザはあえて街道をそれると、起伏の激しい脇道へと足を踏み入れた。
ある程度進んだところで、完全に足を止める。視界の悪さは相変わらずだったが、今度ははっきりと、自分を追ってくる何者かの気配を察知した。
(これで、商人が偶然同じ道を歩いていたという線は消えたな)
エルザは足元に荷物を下ろすと、杖にしていた槍を引き抜き、いつでも突き出せるよう腰を落として構える。風の咆哮の向こうから、微かな、しかし確実にこちらへ向かってくる足音が近づいてくる。エルザは吹雪の向こうをじっと睨み据えた。
間合いに入るまで、あと三歩。二歩。一歩。――ゼロ。
何者かが間合いに踏み込んだ瞬間、エルザは吹雪を切り裂くような鋭さで槍を突き出した。
しかし、その鋭利な刃先が相手に届く直前、ピタリと止まる。
そこに立っていたのは、宿屋の主人に預けたはずの、あの男の子だった。エルザはほんの僅かに目を見開く。
薄い衣服は雪まみれで、唇は紫色に血の気を失い、小さな体は小刻みに震えている。
「……付いてくるなと言ったはずだ」
エルザは声音を低くし、冷たく言い放った。
だが、その声すら耳に届いていないのか、男の子は近づいてくるとエルザが纏う大きなローブの裾に自ら潜り込んできた。そして、凍えきった小さな手で、エルザの右足をぎゅっと抱きしめる。
「…………」
エルザは無言のまま、足元で震える塊を見下ろしていた。
やがて、容赦のない手つきで男の子を右足から引き剥がすと、そのまま冷たい雪の上へと放り出す。
それきり男の子に一瞥もくれることなく、エルザは再び背を向けて歩き始めた。
放り出された男の子は、手にかじかんだ雪を付着させたまま、立ち上がる。そして、またエルザに付かず離れずの距離を保ちながら、その背中を追い始めた。
二人の小さな影は、ほんの数十秒ののち、猛烈な吹雪の彼方へと静かに呑み込まれていった。
最後まで閲覧いただきありがとうございました。
初めまして。ETOUMAと申します。
お恥ずかしながら小説を読むことはあれど、書くことは初めてだったので、文章を書く難しさを実感したここ数日でした。
頭に浮かんだ情景を文字に起こすことってこんなに難しいことだったんですね…
え?後書きですら文章がおかしいって?
そんなことがこれからも続いていくと思いますので、優しい目で見守っていただけると嬉しく思います。
頻度はかなり遅いと思いますが、更新していけたらと思っていますので応援していただけると幸いです。




