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第3話 グレードレースの水面


次の斡旋通知を見た時、灯はすぐには動けなかった。


G3オールレディース。


水都プリンセスカップ。


画面の中に並ぶ文字を、灯は何度も見返した。


G3。


グレードレース。


A2になったから、呼ばれた水面。


B1のままでは、まだ遠かった場所。


その名前が、今、自分の斡旋予定の中にある。


灯はノートを開いた。


G3オールレディース。


水都プリンセスカップ。


風見灯、A2。


初めてのグレードレース。


そこまで書いて、ペンが止まった。


胸の奥に、嬉しさはあった。


A2になった。


だから、ここに呼ばれた。


それは確かだった。


けれど、その嬉しさのすぐ横に、前節の数字があった。


A2デビュー節。


6走26点。


得点率4.33。


悪くない着もあった。


でも、A2として足りない着ばかりだった。


拾った。


残した。


落とさなかった。


でも、作っていない。


灯は、前のページに残した自分の字を見た。


私は、まだ水面を見ている。


A級の選手たちは、水面を作っている。


その言葉は、まだ乾いていないように見えた。


次はG3。


一般戦ではない。


A2になったから呼ばれる場所。


でも、呼ばれたことと、そこで戦えることは同じではない。


灯は出場予定選手の一覧を開いた。


天堂朱里。A1。


月城澪。A1。


皇怜奈。A1。


篠原美緒。A1。


轟朱音。A1。


綾瀬真琴。A1。


黒瀬真帆。A2。


片瀬梨央。A2。


そして、風見灯。A2。


灯は、息を浅く吐いた。


名前が強い。


画面に並んでいるだけで、水面が重くなる。


天堂朱里。


女子トップの一角。


水面に立つだけで、節の空気が変わる選手。


月城澪。


センターから流れを支配するA1。


皇怜奈。


スタートの女王。


篠原美緒。


静かに残すA1。


轟朱音。


チルト3度のアウト屋。


綾瀬真琴。


同支部の女子エース。


そこに、自分の名前がある。


A2。


けれど、この中ではA2が強者とは限らない。


灯はノートに書いた。


A2になった。


でも、この水面ではまだ下。


呼ばれた水面。


残れる水面とは違う。


開催初日。


競走場に着いた時から、空気が違っていた。


一般戦とは、人の流れが少し違う。


場内の声が少し高い。


記者席に座る人数も多い。


カメラを持つ人が、いつもより多く見える。


選手紹介の掲示も、どこか華やかだった。


G3オールレディース。


水都プリンセスカップ。


その文字が、場内のあちこちにある。


灯は控室に入り、荷物を置いた。


見慣れた控室のはずなのに、今日は少しだけ広く感じた。


いや、広いのではない。


自分が小さく感じている。


灯は、自分の名前の入った出走表を確認した。


初戦。


1号艇、篠原美緒。A1。


2号艇、黒瀬真帆。A2。


3号艇、片瀬梨央。A2。


4号艇、皇怜奈。A1。


5号艇、風見灯。A2。


6号艇、藤野梓。B1。


5号艇。


黄。


外。


灯は、出走表を見つめた。


1号艇に篠原。


2号艇に黒瀬。


3号艇に片瀬。


4号艇に皇。


その外に、自分。


灯はノートを開いた。


5号艇。


初G3初戦。


1号艇、篠原さん。


崩れないA1。


2号艇、黒瀬さん。


出口を見るA2。


3号艇、片瀬さん。


欲しがり方を見るA2。


4号艇、皇さん。


スタートで締めるA1。


私は5号艇。


外から見るだけでは遅い。


そこまで書いた時、控室の奥で誰かの声が聞こえた。


「星宮凪、今節いるんだ」


灯は、ペンを止めた。


星宮凪。


聞いたことのある名前だった。


新人女子レーサー。


まだB1。


けれど、すでに何度も名前が出ている。


「スタート勘が異常らしいよ」


「養成所の頃から天才って言われてた子でしょ」


「まだ若いのに、A2相手でも普通に踏み込んでくるって」


灯は、ノートの端にその名前を書いた。


星宮凪。


B1。


天才新人。


スタート勘。


踏み込みが早い。


灯は、その文字を見つめた。


自分は、何走もかけてB1へ上がった。


何度も負け、何度も残し、ようやくA2へ届いた。


その自分が、初めてのG3で息を詰めている。


その同じ控室で、まだ下の級別の新人が「天才」と呼ばれている。


嫌な感情ではなかった。


でも、胸の奥が少しざわついた。


A2になった。


それでも、下から来る選手に見られる。


上にはA1が並び、下には才能が追ってくる。


水面に、安心できる場所はない。


その時、皇怜奈が控室に入ってきた。


4号艇。


青。


前節、灯をスタートで急がせたA1。


皇は灯に気づくと、短く言った。


「初G3?」


灯は立ち上がる。


「はい」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


皇は、出走表を見た。


「でも、初G3の5号艇は、見てるだけだとすぐ終わるよ」


灯は、喉の奥で返事をした。


「はい」


「一般戦なら一拍待てる水面も、ここでは閉じる」


皇はそれだけ言って、自分の準備へ向かった。


灯はノートに書いた。


一般戦なら一拍待てる水面。


G3では閉じる。


その一行が重かった。


しばらくして、片瀬梨央が近づいてきた。


3号艇。


A2。


灯の欲しがり方を何度も見てきた選手。


片瀬は軽く笑った。


「初グレード、緊張してる?」


灯は正直に頷いた。


「しています」


「いいと思う」


「いい、ですか」


「緊張しない方が危ないよ」


片瀬は出走表を指で軽く叩いた。


「でも、5号艇で緊張して待ってると、私が先にもらう」


その声は軽かった。


けれど、内容は軽くない。


「はい」


灯が答えると、片瀬は少しだけ目を細めた。


「外で遠慮すると、舟券にもレースにも残らないよ」


灯は、その言葉を飲み込んだ。


外で遠慮すると、残らない。


また、その言葉が出てきた。


遠慮。


自分では、危ない水面を避けているつもりだった。


相手を飛ばさないようにしているつもりだった。


出口を残しているつもりだった。


でも、それが時々、半艇身の遠慮になる。


灯はまだ、その遠慮を捨てきれていない。


展示航走の時間が近づいた。


灯は5号艇の黄色いカポックを手に取った。


黄。


外。


5コース。


6号艇ほど遠くはない。


でも、内には強い選手が並んでいる。


篠原、黒瀬、片瀬、皇。


この4人の外から、何を残せるか。


何を動かせるか。


灯は水面へ向かった。


6艇がピットを離れる。


1号艇、篠原美緒。


2号艇、黒瀬真帆。


3号艇、片瀬梨央。


4号艇、皇怜奈。


5号艇、風見灯。


6号艇、藤野梓。


進入は枠なり。


1、2、3。


4、5、6。


灯は5コースに艇を置いた。


4カドの皇が近い。


皇の起こしは、無駄がない。


青い艇が、スリットへ向けてすでに水面を締めているように見える。


内の篠原は静かだった。


1号艇なのに、緊張を見せない。


黒瀬は2コースで差しの出口を見ている。


片瀬は3コースで、自分が欲しい場所と周りの欲しがり方を両方見ている。


灯は5コース。


外から見る。


でも、見るだけでは遅い。


大時計。


起こし。


スリット。


篠原が0.13。


黒瀬が0.12。


片瀬が0.14。


皇が0.09。


灯が0.15。


藤野が0.17。


皇が出た。


4カドの青が、一気に水面を締める。


灯は外から入ろうとする。


しかし、皇が早い。


篠原は崩れない。


黒瀬が差し場を変える。


片瀬が皇の攻めに合わせて出口を取る。


灯は、その外で水面を見る。


見えた。


黒瀬の外。


片瀬の後ろ。


皇が作った流れの余り。


一般戦なら、そこから4着に絡めたかもしれない。


けれど、今日は違う。


黒瀬が先に出口を取る。


片瀬が外を残す。


皇の仕掛けで、内の水面が早く閉じる。


灯が入る頃には、その水面はもう残りではなく、終わった波だった。


1マーク。


篠原が残す。


皇が攻め切る。


黒瀬が差し残す。


片瀬が外から4番手の水面を取る。


灯は、その後ろ。


5番手。


展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。


5号艇。


展示。


皇さん 0.09。


スタートで締める。


篠原さん、崩れない。


黒瀬さん、出口を先に取る。


片瀬さん、外の残り方が早い。


私は、見えた。


でも、見えた水面はすぐ閉じた。


一般戦なら4着にできたかもしれない水面。


ここでは5番手。


灯は、その最後の行に目を止めた。


一般戦なら4着にできたかもしれない水面。


ここでは5番手。


それが初G3の答えのように見えた。


本番までの時間、灯は自分の展示を書き直した。


皇のスタートを受けるなら、起こしから少し早く構える必要がある。


片瀬の外に残るなら、皇の攻めを見てからでは遅い。


黒瀬の出口を追うなら、1マークで一拍待つ余裕はない。


篠原が崩れない前提で考える。


誰かが大きく失敗する水面を待たない。


灯は、ペンを動かしながら気づいていた。


全部、早い。


全部、少しずつ早く閉じる。


大きな違いではない。


半艇身。


一拍。


艇ひとつ分。


でも、その差で4着が5着になる。


G3は、そういう水面だった。


本番の時間が来た。


灯は5号艇に乗り込む。


黄色いカポックが、いつもより重く感じた。


進入は枠なり。


1、2、3。


4、5、6。


5コース。


灯は、4カドの皇を見る。


皇は展示と同じように静かだった。


静かなのに、速い。


起こしに迷いがない。


スリットで締める準備ができている。


大時計。


起こし。


スリット。


篠原が0.12。


黒瀬が0.13。


片瀬が0.13。


皇が0.08。


灯が0.14。


藤野が0.18。


皇がさらに出た。


青が、外から内へ圧をかける。


篠原は受ける。


逃げるというより、崩れない。


黒瀬が差し場を変える。


片瀬が皇の動きを見て、外へ出す角度を少し変えた。


灯は5コースから入る。


展示より早く動く。


見てからでは遅い。


そう分かっていた。


けれど、それでも一拍足りない。


1マーク。


皇が握る。


篠原が残す。


黒瀬が差す。


片瀬がその外の出口を取る。


灯には、片瀬のさらに外が見えた。


入れる。


いや、入れたはずだった。


でも、片瀬が先に出口を残している。


黒瀬も外を空けすぎない。


皇の攻めで水面が締まっている。


灯が前を向けた時には、そこはもう4着の水面ではなかった。


5番手。


バックストレッチ。


4号艇、皇怜奈が先頭。


1号艇、篠原美緒が2番手。


2号艇、黒瀬真帆が3番手。


3号艇、片瀬梨央が4番手。


5号艇、風見灯が5番手。


6号艇、藤野梓が6番手。


灯は奥歯を噛んだ。


5番手。


初G3初戦。


5号艇。


5着の水面。


前の片瀬は近い。


まだ追える。


2マーク。


灯は片瀬の内を見た。


浅く入れば、4着争いに持ち込める。


しかし、片瀬はその水面を待っていたように出口を残した。


灯が見た瞬間、片瀬はもう次の角度へ艇を向けている。


欲しがり方を見られている。


片瀬の言葉が戻る。


外で遠慮すると、舟券にもレースにも残らないよ。


灯は遠慮したつもりはなかった。


でも、半艇身を空けていた。


入るか、残すか。


その迷いが、片瀬には見えていた。


2周1マーク。


灯はもう一度、片瀬を追う。


直線で少し詰める。


ターンでまた離される。


水面は見える。


だが、見えた時には片瀬が出口を残している。


3周目。


差は大きくはない。


でも、届かない。


ゴール。


1着、4号艇、皇怜奈。


2着、1号艇、篠原美緒。


3着、2号艇、黒瀬真帆。


4着、3号艇、片瀬梨央。


5着、5号艇、風見灯。


6着、6号艇、藤野梓。


5着。


灯はモニターの数字を見た。


5号艇。


5着。


大きく遅れたわけではない。


6着に沈んだわけでもない。


でも、残せなかった。


4着にできなかった。


一般戦なら4着にできたかもしれない水面が、ここでは5着になる。


その現実が、数字になって灯の前に置かれた。


控室に戻ると、灯はすぐノートを開いた。


G3初戦。


5号艇。


5着。


見えなかったわけではない。


見えた。


でも、全部少し早く閉じた。


皇さんのスタート。


篠原さんの残し方。


黒瀬さんの出口。


片瀬さんの外の残し方。


一般戦なら4着にできた水面。


G3では5着になる。


灯は、そこでペンを止めた。


胸の奥が重い。


A2になったから呼ばれた。


でも、呼ばれただけでは残れない。


その言葉が、自然に出てきた。


呼ばれたことは、認められたこと。


残れることとは違う。


灯は、その一行をノートに残した。


そこへ片瀬梨央が戻ってきた。


4着。


灯の前に残った選手。


片瀬は、灯を見ると軽く言った。


「見えてたでしょ」


灯は顔を上げた。


「はい」


「でも、少し待ったね」


灯は黙った。


片瀬は続ける。


「G3だと、その少しで閉じるよ」


「はい」


「私も残すので精一杯だったけど」


片瀬は、少しだけ笑う。


「風見さんが半艇身空けてくれたから、残れた」


その言葉に、灯の胸が痛んだ。


半艇身空けた。


自分では、判断しているつもりだった。


危ない水面を避けているつもりだった。


でも、相手から見れば、空けている。


残している。


譲っている。


灯はノートに書いた。


半艇身空けた。


片瀬さんが残った。


私は5着。


片瀬はそれ以上責めなかった。


ただ、A2同士として事実を置いていった。


少し離れた場所で、皇怜奈が勝者インタビューの準備に向かっていた。


1着。


4号艇。


スタートで水面を締め、勝ち切ったA1。


灯はその背中を見た。


皇は、見てから決めていない。


起こす前から、どこで締めるか決めていた。


篠原は、崩れない形を最初から持っていた。


黒瀬は、出口を見つける前に置いていた。


片瀬は、灯の欲しがり方を見て残った。


灯は、水面を見た。


でも、G3の水面では、それでは遅かった。


その頃、観客席の端に制服姿の少女が座っていた。


水瀬ひより。


高校2年生。


祖父に連れられて競走場へ来るうちに、いつの間にか自分の方が熱心に水面を見るようになっていた。


隣の祖父は、モニターを見ながら言った。


「皇はやっぱりスタートが違うな。篠原も崩れへん。黒瀬もよう残した」


ひよりは頷いた。


けれど、目は5着の黄色い艇を追っていた。


風見灯。


A2。


G3初戦。


5着。


舟券には絡んでいない。


歓声もない。


けれど、ひよりはその選手から目を離せなかった。


ピットに戻ると、すぐにノートを開いている。


負けた顔をしている。


でも、終わった顔ではない。


ひよりはスマートフォンのメモを開いた。


風見灯。


A2。


G3初戦5着。


負けたあとも、水面を見てる。


それを書いてから、しばらく画面を見つめた。


どうして、その選手が気になるのか、自分でもまだ分からなかった。


同じ頃、記者席では真壁圭介が手元のメモを整理していた。


記事の主役は、もちろん皇怜奈だった。


4カドからのスタート。


篠原を受けさせて勝ち切る内容。


見出しにしやすい。


読者も分かりやすい。


だが、真壁のメモには、別の名前も残っていた。


風見灯。


A2。


初G3。


5号艇5着。


一般戦なら4着に残した可能性あり。


レース後、ノートが長い。


真壁は、そこでペンを止めた。


勝った選手を書くのが仕事だ。


だが、負けた選手の中にも、次につながる水面がある。


風見灯は、まだ記事の主役ではない。


けれど、見ておく名前かもしれない。


真壁は、短く書き足した。


負け方が変わる選手か。


灯は、そんな視線を知らなかった。


観客席から自分を見ていた女子高生のことも。


記者席のメモに名前が残ったことも。


何も知らない。


ただ、ノートの上に並ぶ自分の字を見ていた。


G3初戦。


5着。


呼ばれたことは、認められたこと。


残れることとは違う。


一般戦なら4着にできた水面。


ここでは5着になる。


灯は、最後にもう一行書いた。


グレードレースの水面。


A2になったから、ここに来た。


でも、ここではまだ下。


その一行を書いて、灯はペンを置いた。


悔しさはあった。


情けなさもあった。


けれど、見なかったことにはしない。


この水面に呼ばれた。


そして、弾かれた。


なら、次はどうするか。


灯はノートの前のページを開いた。


枠なり。


前付け。


チルト3度。


前節のオフに書いた三つの選択肢。


G3の初戦で5着になった今、その言葉はさらに重くなっていた。


このまま待っていても、ここでは埋もれる。


見ているだけでは、5着になる。


灯は、チルト3度の文字をもう一度見た。


正しいかどうかは、まだ分からない。


でも、同じ水面を待つつもりはなかった。


控室の外から、次のレースの場内放送が聞こえる。


水面は、灯の5着で止まってはくれない。


誰かがまた、次の1マークへ向かっていく。


灯は、ゆっくりノートを閉じた。


初めてのグレードレース。


その水面は、歓迎ではなく試験だった。


ここに来たなら、見せてみろ。


残れるのか。


作れるのか。


勝ちに行けるのか。


そう問われている気がした。


灯は答えを持っていない。


けれど、問いから目を逸らすつもりもなかった。

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