第2話 休めないオフ
オフの日だった。
出走表はない。
展示航走もない。
大時計を見る必要もない。
起こし位置を考える必要もない。
誰のスタートが早いか、誰の出口が重いか、誰が外から締めてくるか。
考えなくていい日だった。
本来なら。
灯は、朝早くに目を覚ました。
目覚ましはかけていなかった。
けれど、体は勝手に起きていた。
布団の中で、しばらく天井を見ていた。
水面の音は聞こえない。
控室の音もない。
モーターの低い響きもない。
それなのに、頭の中では1マークが何度も回っていた。
雨宮琴葉の白い艇。
皇怜奈の青い艇。
三島沙耶の赤い艇。
そして、自分の黒い2号艇。
A2初戦。
2号艇。
4着。
灯は、ゆっくり体を起こした。
机の上には、ノートが開いたまま置かれている。
前夜、閉じることができなかったページ。
そこには、前節の成績が書かれていた。
A2デビュー節。
1走目 2号艇 4着。
2走目 5号艇 5着。
3走目 1号艇 2着。
4走目 6号艇 4着。
5走目 3号艇 3着。
6走目 4号艇 5着。
6走26点。
得点率4.33。
灯は、その数字を見つめた。
4.33。
B1最後の期、灯は数字を積み上げてA2に届いた。
72走。
勝率5.58。
2連対率34.72。
3連対率55.56。
その数字で、A2の線に届いた。
けれど、A2として走った最初の節は、6走26点。
得点率4.33。
その数字は、灯の胸に静かに沈んでいた。
大きく崩れたわけではない。
6着はない。
2着もある。
3着もある。
4着もある。
でも、足りない。
A2として見ると、足りない。
灯は、ノートの端に小さく書いた。
弱くなったわけじゃない。
でも、同じ走りでは足りない。
ペンを置く。
けれど、すぐにまた握った。
休む日なのに、手が止まらない。
灯は、1走目から順に見返した。
1走目。
2号艇。
4着。
A2として最初の出走表。
1号艇、雨宮琴葉。A1。
3号艇、三島沙耶。A1。
4号艇、皇怜奈。A1。
その中に、自分の名前があった。
風見灯。A2。
2号艇。
黒。
差す色。
残す色。
でも、雨宮に差し場を狭くされた。
皇にスタートで急がされた。
沙耶に出口を使われた。
灯は、ノートに書いていた言葉をもう一度なぞった。
A1三人に、水面を先に使われた4着。
見えてはいた。
でも、見えた時には遅かった。
見てから決めている。
A級だと、そこが見える。
皇の声が、まだ耳の奥に残っている。
2走目。
5号艇。
5着。
外から展開を待った。
内が少しでももつれれば、差し場はあると思っていた。
でも、もつれなかった。
1号艇が逃げ、2号艇が残り、3号艇が差し、4号艇が先に仕掛けた。
5号艇の灯は、外で待った。
待っている間に、水面は終わった。
灯はノートに書く。
5号艇。
5着。
待ちすぎた。
展開を見るつもりで、展開の外にいた。
作っていない。
動かしていない。
ただ、終わった水面を見ていた。
3走目。
1号艇。
2着。
A2として初めての1号艇だった。
白いカポックを着た時、灯は自分に言い聞かせた。
落ち着いて逃げる。
スタートを合わせる。
1マークで出口を残す。
B1時代なら、1号艇で2着なら大きく崩れていないと言えたかもしれない。
勝てなかったけれど、2着に残した。
そう書けたかもしれない。
でも、A2の1号艇は違った。
A2なら逃げたい。
A2なら勝ちたい。
A2なら、1号艇で2着は「残した」では終われない。
灯は、そのレースを思い出す。
2コースのA2男子に差された。
スタートで遅れたわけではない。
1マークで大きく流れたわけでもない。
ただ、逃げるための出口を消し切れていなかった。
差される場所を残していた。
灯はノートに書いた。
1号艇。
2着。
残したのではない。
逃げられなかった。
勝つ水面を作れなかった。
4走目。
6号艇。
4着。
数字だけなら悪くなかった。
大外から5着に落ちず、6着にも沈まず、4着に残した。
けれど、それだけだった。
内が作った水面の後ろで、空いたところを拾った。
前を動かしていない。
相手を迷わせていない。
ただ、4着に届いた。
それは必要な力だった。
けれど、A2の水面では、それだけでは前に進めない。
灯は書く。
6号艇。
4着。
拾った。
でも、拾っただけ。
前を動かしていない。
水面を作っていない。
5走目。
3号艇。
3着。
悪くない着順だった。
でも、灯の胸には苦さが残っていた。
2着の水面が見えた瞬間があった。
ほんの半艇身。
そこへ入れば、2着争いに持ち込めた。
けれど、灯は踏み込まなかった。
4着に落とす怖さがあった。
外から来る艇を受ける怖さがあった。
3着を確実に取る判断は、間違いではない。
でも、A2として上へ行くなら、あの水面を見なかったことにはできない。
灯はノートに書いた。
3号艇。
3着。
残した。
でも、踏み込めなかった。
2着を取る水面を見て、3着を守った。
欲しい着と取るべき着。
今日は、本当に取るべき着が3着だったのか。
ペン先が止まった。
答えはすぐには出ない。
6走目。
4号艇。
5着。
青。
灯にとって、意味のある色だった。
かつて半艇身届かなかった色。
その後、初優勝を届かせた色。
4号艇。
カド。
作るべき水面。
けれど、そのレースでは作れなかった。
内が思ったより早く、外が思ったより伸びた。
灯は仕掛けを迷った。
握るのか。
差すのか。
外を見るのか。
内を締めるのか。
一瞬の迷いで、外に先に水面を作られた。
灯は飲まれた。
5着。
4号艇で5着。
灯は深く息を吐いた。
4号艇。
5着。
青。
作るべき水面。
でも、外に作られた。
迷った。
見てから決めようとした。
A級だと、そこが見える。
同じ言葉が、また戻ってきた。
灯はページを見つめた。
6走。
26点。
得点率4.33。
数字だけなら、節は終わっている。
けれど、灯の中では終わっていなかった。
休みの日なのに、レースが止まらない。
オフなのに、頭の中の水面だけが回り続けている。
灯はスマートフォンを手に取った。
沙耶へメッセージを打とうとした。
A2の水面が難しいです。
そう打って、消した。
何が足りないんでしょうか。
打って、消した。
私、A2として走れているんでしょうか。
そこまで打って、指が止まった。
送れなかった。
聞きたい。
でも、聞いてしまえば、自分の中でまだ形になっていない悩みを、沙耶に預けることになる気がした。
灯はスマートフォンを伏せた。
その数秒後、画面が震えた。
沙耶からだった。
悩んでる?
灯は、画面を見つめた。
短い言葉だった。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけそうになった。
灯は返した。
はい。
すぐに既読がついた。
なら、ちゃんと悩みなさい。
灯は、小さく笑いそうになって、笑えなかった。
沙耶らしい。
優しい。
でも、逃がしてくれない。
少しして、次のメッセージが届いた。
同じ場所を回ってるだけなら、それは反省じゃない。
次に艇を置く場所が変わるなら、反省。
灯は、その文を何度も読んだ。
同じ場所を回っているだけ。
それは今の自分かもしれない。
A2初戦の4着を何度も思い出している。
5号艇5着を何度も悔やんでいる。
1号艇2着を何度も責めている。
けれど、それが次の艇の置き場所を変えなければ、ただ同じ場所を回っているだけだ。
灯は、沙耶に短く返した。
考えます。
返事はすぐ来た。
休むのも仕事。
でも、悩む日も必要。
灯はスマートフォンを置いた。
窓の外は、穏やかだった。
水面は見えない。
空は静かで、風も強くない。
本当にオフの日だった。
けれど、灯のノートの中だけは、まだ水面だった。
灯は、新しいページを開いた。
次の斡旋。
次の出走表。
そこに、6号艇の名前があった。
風見灯。
A2。
6号艇。
灯は、ゆっくりペンを動かした。
6号艇で何を変えるか。
その下に、三つの選択肢を書いた。
枠なり。
前付け。
チルト3度。
最初に見たのは、枠なりだった。
6号艇。
大外。
展開を見る。
内のもつれを待つ。
外を回りすぎず、出口を残す。
5着を4着にする。
4着を拾う。
それは、灯がずっとやってきた水面だった。
間違いではない。
6号艇で無茶をすれば、6着になる。
無理に勝ちを欲しがれば、数字を壊す。
B1の頃、灯はそれを何度も学んだ。
でも、前節の4走目が頭に戻る。
6号艇。
4着。
拾った。
でも、拾っただけ。
前を動かしていない。
灯は、枠なりの横に書いた。
今までの水面。
悪くない。
でも、また待つだけになる。
次に見たのは、前付けだった。
6号艇から内へ動く。
進入から水面を変える。
相手の起こしを変える。
スタートの見え方を変える。
1マークの入口を変える。
レースが始まる前に、水面の形を変えに行く。
灯は、そこである選手を思い出した。
入江真白。
イン屋。
進入からレースの形を変えるA1。
以前、灯は真白の進入で水面を壊されたことがある。
出走表の枠だけを見ていたら、間に合わなかった。
真白が動いた瞬間、内の艇が抵抗した。
起こしが深くなった。
外の仕掛けも変わった。
1マークに入る前から、すでに水面の形は変わっていた。
あれも、水面を作る走りだった。
ただし、轟朱音とは逆だった。
朱音は外へ行って水面を割る。
真白は内へ入り、水面を締める。
外から壊す選手。
内から崩す選手。
どちらも、枠がくれた水面をそのまま走ってはいない。
灯は、前付けの横に書いた。
入江真白さん。
前付け。
進入から水面を変える。
内へ入ることで、相手の起こしを変える。
相手のスタートを変える。
1マークの入口を変える。
そこまで書いて、灯はペンを止めた。
自分にできるのだろうか。
6号艇から内へ動く。
主張する。
相手に抵抗される。
深くなる。
起こしが難しくなる。
スリットで遅れる。
内へ入ったはずなのに、1マークへ行く前に自分の水面を失う。
灯は、真白のレースを思い出す。
真白は、ただ内へ入っているわけではなかった。
どこまで入るか。
どこで止めるか。
誰に抵抗させるか。
深くなった後、どう起こすか。
1マークでどこに出口を残すか。
全部、最初から決めているように見えた。
あれは、内へ入る技術ではない。
内へ入った後も、残す技術だ。
灯は、小さく息を吐いた。
今の自分が前付けをすれば、水面を作る前に、自分の水面を失う。
前付けの文字に、灯は小さく線を引いた。
逃げるためではなかった。
怖いからやめるためでもなかった。
今の自分の武器ではないと、認めるためだった。
灯は書いた。
真白さんの水面は、まだ私の水面ではない。
そして、残った文字を見る。
チルト3度。
外から動かす。
進入ではなく、伸びで相手を動かす。
外から水面を押す。
大外から、内を見せる。
枠なりのまま、待たない。
前付けほど進入を壊すわけではない。
でも、外から相手を動かすことはできるかもしれない。
灯は、轟朱音を思い出した。
1号艇でも6コースへ行くアウト屋。
チルト3度。
外から水面を割る選手。
朱音の水面も、まだ灯の水面ではない。
でも、前付けよりは触れられる気がした。
進入から支配する真白の水面。
外から割る朱音の水面。
そのどちらでもない。
今の灯ができる、最初の一歩。
外から動かす。
灯は、チルト3度の横に書いた。
伸びで相手を動かす。
待つだけではない。
水面を作る練習。
ただし、出口が課題。
書きながら、灯は分かっていた。
チルト3度にすれば勝てるわけではない。
むしろ、危ない。
回り足は落ちる。
出口は重くなる。
伸びたあとに艇を置けなければ、ただ流れるだけだ。
それでも、枠なりで待つだけでは、また同じ場所を回る。
前付けは、まだ今の自分の武器ではない。
なら、今回は外から動かす。
灯は、チルト3度の文字に丸をつけた。
チルト3度。
待たない。
動かす。
そこまで書いた時、昼を過ぎていることに気づいた。
朝から何も食べていなかった。
オフの日なのに、休めていない。
けれど、不思議と頭の中は少しだけ整っていた。
悩みが消えたわけではない。
不安がなくなったわけでもない。
A2の水面が急に優しくなるわけでもない。
ただ、次に艇を置く場所が少しだけ変わった。
それだけで、ノートの重さが少し変わった。
灯は立ち上がり、簡単に食事を取った。
味はあまり覚えていない。
それでも、食べなければ次の水面に立てない。
休むのも仕事。
沙耶の言葉を思い出しながら、灯は午後、少しだけ眠った。
短い眠りだった。
夢の中でも、水面が出てきた。
6号艇。
緑。
大外。
内へ動く真白の白。
外へ行く朱音の白。
沙耶の赤。
皇の青。
雨宮の白。
全てが混ざっていた。
目を覚ました時、窓の外は夕方だった。
灯はもう一度ノートを開いた。
A2デビュー節。
6走26点。
得点率4.33。
悪くない着もあった。
でも、A2として足りない着ばかりだった。
拾った。
残した。
落とさなかった。
でも、作っていない。
灯は、その下に書いた。
私は、まだ水面を見ている。
A級の選手たちは、水面を作っている。
その一行を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。
水面を見ることを捨てるわけではない。
それは灯の武器だ。
でも、見るだけでは足りない。
誰かが作った水面を拾うだけでは、A2の中で残ることはできても、上へは届かない。
灯は、最後に短く書いた。
次の6号艇。
枠なりで待たない。
前付けは、まだ違う。
外から動かす。
チルト3度。
翌朝。
灯は整備場へ向かった。
まだ決めたことが正しいかどうかは分からない。
むしろ、怖い。
チルト3度で流れるかもしれない。
伸びても出口がなくなるかもしれない。
4着どころか、5着、6着に落ちるかもしれない。
それでも、同じ水面を待つつもりはなかった。
整備士が灯を見る。
「今日はどうする?」
灯は、一度だけ深く息を吸った。
ノートの中の三つの選択肢が浮かぶ。
枠なり。
前付け。
チルト3度。
入江真白の水面。
轟朱音の水面。
そして、今の自分が触れられる水面。
灯は、静かに言った。
「チルト、3度でお願いします」
言葉にした瞬間、胸の奥が震えた。
正しいかどうかは、まだ分からない。
けれど、昨日と同じ場所を回るつもりはなかった。
A2の水面は、まだ灯に優しくない。
それでも灯は、初めて自分から水面を動かすための数字を選んだ。




