第3話 静かな女王と水面を裂く男
灯は、出走表の3号艇の欄で手を止めた。
3号艇。
篠宮大和。
A1。
その名前の横にある級別を見た瞬間、胸の奥が少し重くなった。
A1が2人いる。
1号艇には、雨宮琴葉。
3号艇には、篠宮大和。
そして自分は4号艇だった。
灯は、ノートに出走表を書き写した。
1号艇、雨宮琴葉。A1。
2号艇、水谷航平。B1。
3号艇、篠宮大和。A1。
4号艇、風見灯。B2。
5号艇、小野寺陸。B1。
6号艇、深沢千尋。B1。
書いてから、4号艇の欄をじっと見る。
4号艇。
風見灯。
自分の内に、篠宮大和がいる。
3号艇のすぐ外。
それは、ただの4コースではなかった。
A1の攻めを、最も近い場所で受ける位置だった。
雨宮琴葉は、静かなA1だった。
怖くない顔をして、誰にも追わせない水面を作る。
前にいるのに、大きく見えない。
でも、隙がない。
灯は、全員女子戦でそれを同じ水面から見た。
届かなかった。
でも、3着は取った。
上の級の水面を見ながら、自分の着を取ることができた。
けれど、今日の水面は違う。
雨宮の他に、もう1人A1がいる。
篠宮大和。
控室の空気が、少し違っていた。
雨宮琴葉がいる時の空気は、柔らかい。
周りが自然に意識しているのに、本人から強い圧は出ていない。
けれど、篠宮大和が控室に入ってきた時、空気ははっきり変わった。
声が大きいわけではない。
態度が荒いわけでもない。
ただ、歩いてくるだけで、そこに水面の鋭さのようなものがあった。
背は高く、表情はほとんど動かない。
必要なこと以外は話さないような顔をしている。
雨宮とは逆だった。
怖く見えないのに怖い雨宮。
見た瞬間から怖い篠宮。
灯は、ノートに書いた。
篠宮大和。
A1。
3号艇。
怖い。
これは分かる怖さ。
雨宮さんは、怖くないのに怖い。
篠宮さんは、見た瞬間から怖い。
3号艇が攻める。
私は4号艇。
外から見る。
でも、近すぎる。
書いていると、低い声がした。
「4号艇か」
灯は顔を上げた。
篠宮大和が、灯の出走表を見ていた。
「あ、はい」
灯は姿勢を正す。
篠宮は、少しだけ灯を見た。
「俺の外だな」
その言葉だけで、灯の胸が少し固まった。
「はい」
篠宮は、それ以上表情を変えなかった。
「飲まれるなよ」
短い一言だった。
忠告なのか、挑発なのか、分からない。
でも、灯にははっきり刺さった。
飲まれるなよ。
3号艇の篠宮が攻める。
自分はその外。
展開を拾えるかもしれない。
でも、飲まれるかもしれない。
篠宮が水面を裂くなら、その外にいる自分まで一緒に持っていかれる。
篠宮は、それだけ言って自分の席へ戻っていった。
灯はノートに書き足した。
飲まれるなよ。
3号艇の外。
攻めを拾う位置。
でも、攻めに飲まれる位置。
そこへ、柔らかい声が降ってきた。
「篠宮さん、速いですよぉ」
灯は顔を上げた。
雨宮琴葉が、いつものようにゆったり立っていた。
「雨宮さん」
「怖いですよねぇ」
雨宮は、天気の話でもするように言った。
灯は少し驚いた。
「雨宮さんでも、怖いんですか」
「もちろん怖いですよぉ」
雨宮は、あっさり頷いた。
「攻めてくる人は、怖いです」
灯は、雨宮の顔を見た。
雨宮琴葉は怖がっているようには見えない。
けれど、その言葉は嘘には聞こえなかった。
「でも、怖いから見るんです」
雨宮は続けた。
「怖くないと思ったら、たぶん見落としますからねぇ」
灯は、その言葉をすぐに書いた。
怖いから見る。
怖くないと思ったら、見落とす。
雨宮は、1号艇の欄を見た。
「私は1号艇ですから、まず自分の水面ですねぇ」
「篠宮さんは、攻めてきますか」
灯が聞くと、雨宮は小さく笑った。
「来ますねぇ」
迷いのない答えだった。
「篠宮さんは、来る人です」
「来る人……」
「はい。来るって分かっていても怖い人です」
灯は、3号艇の欄を見た。
篠宮大和。
A1。
裂水の篠宮。
周囲の選手がそう呼んでいるのを、さっき聞いた。
水面を裂く男。
隙がなければ、自分で作る選手。
雨宮は少しだけ首を傾げるようにして言った。
「でも、天堂さんなら、たぶんもっと早く来ます」
灯の手が止まった。
「天堂さん……」
「天堂朱里さん」
雨宮の声は、相変わらず柔らかい。
けれど、その名前が出た瞬間、灯の中で別の重さが生まれた。
「女帝って呼ばれてる人です」
灯は、その名前を知っていた。
まだ、直接同じ水面で走ったことはない。
けれど、女子レーサーの世界にいる以上、その名前を知らない選手はいない。
天堂朱里。
女帝。
女子の頂点にいる選手。
雨宮は続けた。
「篠宮さんは、来る人です」
「はい」
「でも、天堂さんは、来るかもしれない人じゃないんです」
灯はペンを握る。
雨宮は、静かに言った。
「来る人です」
その言葉に、灯の胸が冷えた。
来るかもしれない、ではない。
来る。
雨宮は、少し笑った。
「来ると思った時には、もう来ています」
灯はノートに書いた。
天堂朱里。
女帝。
来るかもしれない人ではない。
来る人。
来ると思った時には、もう来ている。
雨宮は、出走表から目を離した。
「だから、今日は篠宮さんをちゃんと見ましょうねぇ」
灯は頷いた。
「はい」
「でも、篠宮さんだけ見ていたら、小野寺さんに入られますよぉ」
「5号艇の小野寺さん」
「はい。外もいます」
灯はノートに書き足した。
3号艇を見る。
でも、3号艇だけを見ない。
5号艇もいる。
6号艇もいる。
自分の水面を見る。
展示航走の時間が近づいた。
灯は4号艇のカポックを手に取る。
4号艇。
4コース想定。
内に篠宮。
外に小野寺。
1号艇に雨宮。
水面が、始まる前から狭く感じた。
6艇がピットを離れる。
1号艇、雨宮琴葉。
2号艇、水谷航平。
3号艇、篠宮大和。
4号艇、灯。
5号艇、小野寺陸。
6号艇、深沢千尋。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
カド。
篠宮の外。
起こし。
大時計。
灯は時計を見る。
けれど、すぐに3号艇へ意識が引っ張られた。
篠宮大和。
3コース。
展示の時点で、艇が前へ圧をかけているように見えた。
無理に早いわけではない。
けれど、スリットへ向かう空気が鋭い。
雨宮のスタートとは違う。
雨宮は、必要な場所に静かにいる。
篠宮は、そこにある水面を切り開くように入ってくる。
スリット。
篠宮が、少し覗く。
2号艇の水谷がわずかにへこんだように見えた。
灯は、4コースからその外にいる。
見える。
3号艇が攻める水面。
でも、近い。
近すぎる。
1マーク。
雨宮が先に回る。
水谷が内で粘ろうとする。
篠宮が3コースから鋭く艇を入れる。
まくり差し気味に、2号艇と1号艇の間を裂くように入っていく。
灯には水面が見えた。
篠宮の外。
水谷の出口。
雨宮の先マイ。
その間に、一瞬だけ空いたように見えた。
だが、その水面は、灯が入る前に篠宮の艇が持っていった。
見えた。
でも、もうない。
灯の艇は外へ回される。
5号艇の小野寺が外から来る。
6号艇の深沢も続く。
灯は艇を向けるが、篠宮の攻めの余波に飲まれかけた。
展示のバック。
雨宮が先頭。
篠宮が2番手。
小野寺が3番手付近。
灯は4番手争い。
2マーク。
篠宮が雨宮を追う。
雨宮は慌てない。
篠宮の差し場を完全には渡さない。
出口を残す。
篠宮が迫る。
雨宮が残す。
2艇の水面だけ、別の速度で動いているように見えた。
灯は、その後ろで小野寺を追う形になった。
展示を終えて戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
篠宮さん。
3号艇。
スリットで少し覗く。
2号艇がへこむ。
3号艇が攻める。
水面が見えた。
でも、篠宮さんが先に裂いた。
見えてからでは遅い。
雨宮さん。
1号艇。
先に回る。
篠宮さんの攻めを受ける。
でも出口を残す。
慌てない。
A1同士の水面は、1マークで終わらない。
2マークでも取り合っている。
灯は、そこまで書いてペンを止めた。
手が少し震えていた。
怖い。
これは、分かりやすく怖い。
篠宮の攻めは、灯の見える水面を先に奪っていく。
雨宮の逃げは、篠宮に攻められても崩れない。
A1同士の水面は、灯がこれまで見てきたものより狭かった。
雨宮が戻ってきた。
「難しい顔してますねぇ」
灯は顔を上げる。
「水面が、消えました」
雨宮は少しだけ首を傾げた。
「消えましたか」
「はい。見えたと思ったところを、篠宮さんが先に行きました」
雨宮は、ゆっくり頷いた。
「篠宮さんは、早いですからねぇ」
「スタートだけじゃなくて、入るのが早いです」
「そうですねぇ」
雨宮は微笑む。
「見えてから入ると、たぶん間に合わないです」
灯は、その言葉をノートに書いた。
見えてから入ると、間に合わない。
雨宮は続けた。
「でも、見えないのに入ると止まります」
灯は顔を上げる。
「じゃあ、どうすれば……」
「見える前に、見える準備をしておくんですかねぇ」
雨宮は、簡単なことのように言った。
灯は、しばらく黙った。
見える前に、見える準備。
それは、今まで灯がしてきたことと似ているようで、違った。
灯は、水面を見る選手だった。
でも、上の級の選手は、見える水面に入るだけではない。
見える前から、そこに艇を置けるように準備している。
雨宮は、出走表を見ながら言った。
「本番は、篠宮さんもう少し来ると思いますよぉ」
「展示より、ですか」
「はい」
雨宮は笑った。
「展示であれですからねぇ」
灯は胸の奥が重くなった。
展示で、あれ。
本番では、もっと来る。
篠宮大和は、さらに水面を裂いてくる。
本番の時間が来た。
灯は4号艇に乗り込む。
水面の音が近い。
エンジンの振動が身体に入る。
4コース。
篠宮の外。
逃げる場所ではない。
でも、飲まれる場所でもある。
灯は胸の中で繰り返した。
篠宮さんを見る。
でも、篠宮さんだけを見ない。
小野寺さんもいる。
深沢さんもいる。
雨宮さんは前にいる。
自分の水面を見る。
6艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
1号艇、雨宮。
2号艇、水谷。
3号艇、篠宮。
4号艇、灯。
5号艇、小野寺。
6号艇、深沢。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
カド。
起こし。
大時計。
灯は時計を見た。
STは悪くない。
越えない。
置かない。
水面に入る。
スリット。
3号艇の篠宮が、展示よりもさらに鋭く覗いた。
2号艇の水谷が少しへこむ。
灯の4号艇も遅れてはいない。
けれど、篠宮の艇が作る圧は明らかに違った。
その瞬間、1マークの形が変わった。
篠宮が来る。
そう思った時には、もう来ていた。
雨宮は1号艇で遅れていない。
先に回る体勢を崩していない。
水谷は内で苦しい。
篠宮は3コースから攻める。
灯は、その外。
1マーク。
雨宮が先に回る。
水谷が残そうとする。
篠宮がまくり差し気味に入る。
水谷の外を鋭く裂き、雨宮の出口へ迫る。
灯には水面が見えた。
篠宮の外。
雨宮の出口。
水谷の崩れ。
一瞬、差し込めるように見えた。
でも、篠宮がそこを先に持っていく。
灯が艇を向けた時には、もう狭い。
深い。
入れば止まる。
外へ回れば小野寺に来られる。
判断が一瞬遅れた。
その一瞬で、5号艇の小野寺が外から伸びた。
灯は小野寺を意識し、出口を残す形へ切り替える。
だが、3着争いには入りきれない。
バックストレッチ。
1号艇、雨宮が先頭。
3号艇、篠宮が2番手。
5号艇、小野寺が3番手。
4号艇、灯は4番手。
2号艇の水谷が後ろ。
6号艇の深沢も続く。
灯は息を吸った。
見えた。
でも、入れなかった。
篠宮が水面を裂いた。
雨宮が出口を残した。
その後ろで、小野寺が着を取る位置へ入った。
自分は、遅れた。
2マーク。
篠宮が雨宮を追う。
差しに構える。
雨宮はそれを見ているように、少しだけ出口を変えた。
大きく抵抗するわけではない。
無理に突っ張るわけでもない。
でも、篠宮の差し場を完全には渡さない。
篠宮が入る。
雨宮が残す。
2艇が並びかける。
バックへ出る。
雨宮がわずかに前。
篠宮が追う。
灯は、その後ろで小野寺を追った。
小野寺の出口が少し重い。
内が見える。
入れるか。
灯は艇を向ける。
だが、前のA1同士の攻防に意識を取られた分、小野寺への反応が半歩遅い。
深くなる。
出口が残らない。
灯は止まりかけ、すぐに修正した。
4番手のまま。
2周1マーク。
雨宮と篠宮の攻防は続いている。
雨宮は先頭。
でも、楽に逃げているわけではない。
篠宮が、ずっと出口を削りに来る。
1マークで終わらない。
2マークで終わらない。
2周目でも、相手の出口を消し合っている。
灯は、そこを見ながら思った。
A1同士の水面は、空いた場所を取り合うだけじゃない。
空く前の水面を、取り合っている。
自分が見える水面は、すでに誰かが準備している水面だった。
2周2マーク。
篠宮が再び差す。
雨宮は、ほんの少し早く艇を向ける。
篠宮の入りたい角度を、先に消す。
篠宮はそれでも迫る。
だが、雨宮は止まらない。
出口で伸びる。
灯は、その後ろで小野寺を追う。
3着は遠くない。
でも、近くもない。
小野寺は大きく崩れない。
灯は、焦って深く入ることをやめた。
今日は、A1同士の水面に飲まれすぎている。
それでも4着は残す。
3周目。
雨宮が先頭。
篠宮が2番手。
小野寺が3番手。
灯が4番手。
最後の1マーク。
篠宮がまだ追う。
雨宮は崩れない。
最後の2マーク。
篠宮が最後に差し込む。
雨宮は出口を残す。
勝負は最後まで続いた。
それでも、雨宮が前だった。
ゴール。
1着、1号艇、雨宮琴葉。
2着、3号艇、篠宮大和。
3着、5号艇、小野寺陸。
4着、4号艇、風見灯。
5着、2号艇、水谷航平。
6着、6号艇、深沢千尋。
4着。
灯は、モニターを見た。
4号艇。
風見灯。
4着。
復帰戦の4着とは違う。
全員女子戦の3着とも違う。
今日は、A1同士の水面に入れなかった4着だった。
崩れたわけではない。
置かれたわけでもない。
でも、入れなかった。
見えた水面が、見えた瞬間にはもう遅かった。
控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
4号艇。
4コース。
4着。
篠宮さんの外。
3号艇が攻めた。
水面は見えた。
でも、篠宮さんが先に裂いた。
雨宮さんは逃げた。
でも、ただ逃げたわけではない。
篠宮さんの攻めを受けて、出口を残した。
A1同士は、水面を取り合うだけじゃない。
相手の出口を消し合っている。
灯は、そこでペンを止めた。
書きたいことが多すぎた。
見えたものが多すぎた。
でも、そのどれもが自分の着には直接つながらなかった。
そこへ、篠宮大和が戻ってきた。
2着。
勝てなかった顔をしている。
悔しさはある。
けれど、荒れてはいない。
篠宮は灯の近くを通り過ぎかけて、ふと足を止めた。
「見えてたな」
灯は顔を上げた。
「え?」
「俺の外」
篠宮は、短く言った。
「入る水面は見えてた」
灯は息を呑んだ。
見えていた。
自分では、そう思っていた。
だが、それを篠宮に言われるとは思わなかった。
「でも、遅い」
その一言が、胸に刺さった。
灯は何も言えなかった。
篠宮は、モニターの方へ目を向ける。
「見えてから入るんじゃ、A1には間に合わない」
灯の手が、ノートの上で止まった。
見えてから入るんじゃ、A1には間に合わない。
篠宮は、それだけ言うと、また歩き出そうとした。
けれど、少しだけ足を止めて続けた。
「天堂なら、見える前に来る」
灯の胸が、さらに重くなった。
天堂朱里。
また、その名前。
女帝。
来ると思った時には、もう来ている人。
篠宮大和のような攻撃型A1が、その名を口にする。
その事実だけで、天堂朱里の水面がどれほど遠いのかが分かった。
篠宮はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
灯は、ノートに震える字で書いた。
篠宮さん。
見えてたな。
でも、遅い。
見えてから入るんじゃ、A1には間に合わない。
天堂なら、見える前に来る。
灯は、その文字をしばらく見つめた。
自分の才能は、水面を見ること。
でも、見るだけでは足りない。
見えた瞬間に入るのでも、まだ遅い相手がいる。
見える前に、準備しておく。
空く前に、艇を置ける形にしておく。
それが、上の級の水面なのかもしれない。
雨宮琴葉が戻ってきた。
1着を取ったのに、いつものように柔らかい顔だった。
「篠宮さん、やっぱり怖いですねぇ」
灯は顔を上げた。
「勝ったのに、ですか」
「勝っても怖いですよぉ」
雨宮は、あっさり言った。
「次に同じことをされたら、負けるかもしれませんし」
灯は驚いた。
A1でも。
勝っても。
怖さは消えない。
雨宮は、自分のレースを振り返るようにモニターを見た。
「今日は残せました。でも、篠宮さんの2マーク、少し危なかったですねぇ」
「危なかったんですか」
「はい。ちょっと出口を渡したら、たぶん負けてました」
雨宮は、まるで普通の反省のように言う。
灯には、その静けさが恐ろしかった。
勝った人が、勝った理由と負けそうだった理由を、同じ重さで見ている。
雨宮は灯のノートを見た。
「篠宮さんに、何か言われました?」
灯は頷いた。
「見えてから入るんじゃ、A1には間に合わないって」
雨宮は、小さく頷いた。
「うん。上の人は、だいたい早いですからねぇ」
「雨宮さんも、ですか」
「私は、早く見えるようにごまかしてるだけです」
灯は意味が分からず、雨宮を見る。
雨宮は、ふわりと笑った。
「でも、天堂さんは違いますねぇ」
「天堂朱里さん……」
「はい。女帝です」
雨宮は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「あの人は、来ると思った時にはもう来ています」
灯は、ノートの天堂朱里の文字を見る。
雨宮は続けた。
「今日の篠宮さんの攻めにも、たぶん普通に合わせます」
「普通に、ですか」
「はい」
雨宮は、いつもの調子で言った。
「来る人を、来させない水面を作るんです」
灯は、手を止めた。
来る人を、来させない水面。
篠宮は、来る人。
水面を裂いてくる人。
雨宮は、その攻めを受けて出口を残した。
でも天堂朱里は、来る前に来させない水面を作る。
どれだけ遠いのか、想像もできなかった。
灯はノートに書いた。
天堂朱里。
女帝。
来る人を、来させない水面を作る。
その文字を書いた時、B1への道が急に小さく見えた。
いや、小さいわけではない。
灯にとってB1は大きな目標だ。
でも、そのさらに先には、A1の水面がある。
雨宮琴葉がいる。
篠宮大和がいる。
天堂朱里がいる。
そして、もっと先には、黒羽宗一郎がいる。
まだ遠すぎる。
でも、今日見えた遠さは、ただの絶望ではなかった。
灯は4着だった。
A1同士の水面には入れなかった。
けれど、見た。
近くで見た。
篠宮の外で、水面が裂かれる瞬間を見た。
雨宮がその裂かれた水面を閉じるところを見た。
それは、ノートに残る。
雨宮は言った。
「風見さん」
「はい」
「今日の4着、悪くないと思いますよぉ」
灯は顔を上げた。
「入れませんでした」
「はい」
雨宮は否定しなかった。
「でも、見ました」
灯は黙った。
雨宮は続けた。
「見えたのに入れなかった水面は、けっこう大事です」
「大事……」
「はい。次に、見える前に準備する理由になりますから」
灯は、その言葉を書いた。
見えたのに入れなかった水面。
次に、見える前に準備する理由になる。
雨宮は、にこりと笑った。
「上の級を見る時って、届かないところも書いた方がいいです」
灯は頷いた。
「はい」
モニターには、払い戻しが表示されていた。
3連複。
1=3=5。
5番人気。
払戻、1,280円。
3連単。
1-3-5。
12番人気。
払戻、4,960円。
そこに4号艇はない。
灯の艇番は、舟券の中には入っていない。
でも、今日のノートには大きく残った。
4号艇。
4着。
篠宮の外。
見えた。
でも、遅かった。
灯は、最後に今日のまとめを書いた。
B1を目指すには、見える水面に入ること。
でも、A1を相手にするなら、見える前から準備すること。
A1同士の水面は、空いた場所を取り合うだけじゃない。
空く前の水面を取り合っている。
その下に、もう一行。
今日、私は入れなかった。
でも、見た。
書き終えて、灯はペンを置いた。
悔しい。
4着は悔しい。
3着に入れなかったことも、篠宮の水面に間に合わなかったことも、雨宮の遠さも、全部悔しい。
でも、その悔しさは沈むためのものではなかった。
次に見るためのものだった。
次に、見える前に準備するためのものだった。
灯はノートを閉じる。
水面は、すぐ次のレースへ進んでいく。
雨宮琴葉は、静かなまま勝った。
篠宮大和は、水面を裂いて2着に入った。
灯は4着。
届かなかった。
でも、A1同士の水面を、同じスリットの先で見た。
B1への道は、ただ数字を積むだけではない。
届かない場所を見て、それでも自分の水面を広げていく道でもある。
灯は、胸の奥で篠宮の言葉をもう一度繰り返した。
見えてから入るんじゃ、A1には間に合わない。
その言葉は痛かった。
けれど、痛いからこそ、ノートに残した。
いつか、その言葉の先へ行くために。




