第2話 静かな女王
灯は、出走表を見つめていた。
5号艇。
風見灯。
その名前の横に並ぶ他の5人の名前を、ゆっくりとノートに写していく。
1号艇、水瀬香帆。B1。
2号艇、雨宮琴葉。A1。
3号艇、桐谷美咲。A2。
4号艇、遠野紗季。B1。
5号艇、風見灯。B2。
6号艇、芹沢真帆。B1。
全員、女子。
灯は、その並びを見て、少しだけ息を吸った。
女子だけの水面。
混合戦とは空気が違う。
力で押し切るというより、細かい差がすぐに着順へ出る水面。
少し流れれば入られる。
少し止まれば置かれる。
少し迷えば、誰かが先にそこへ艇を入れる。
その中に、A1の名前があった。
雨宮琴葉。
前のレースで、2号艇から静かに差して勝った人。
怖くない顔をして、怖い水面を作る人。
強く見せないのに、強い人。
灯は、ノートの端にその名前を書いた。
雨宮琴葉。
A1。
2号艇。
静かに差す。
追わせない。
その文字を見ただけで、胸の奥が少し重くなる。
同じ水面で走る。
モニター越しではない。
控室から見るのでもない。
同じ起こし。
同じスリット。
同じ1マーク。
その中で、雨宮琴葉の艇がどこに置かれるのかを、自分の艇の上から見ることになる。
灯は、自分の欄に視線を戻した。
5号艇。
5コース想定。
復帰節2走目。
復帰初戦は4着だった。
勝っていない。
舟券にも絡んでいない。
けれど、水面には入れた。
越えなかった。
置かなかった。
3着は見えた。
でも、深く入りすぎなかった。
戻ってきた日の4着。
雨宮琴葉は、そう言った。
いい4着。
その言葉は、灯の中に残っている。
けれど、いつまでも4着だけを残しているわけにはいかない。
B1への道は、1走ずつ積む道だ。
4着も大事。
でも、3着に入れる水面があるなら、そこを見なければならない。
灯はノートに書いた。
5号艇。
5コース。
全員女子戦。
2号艇、雨宮さん。
A1。
今日は、雨宮さんを追う水面ではない。
雨宮さんが作る水面の後ろで、自分の3着を取る。
書いたあと、灯は少しだけペンを止めた。
自分の3着を取る。
それは、今の灯にはちょうどいい言葉だった。
勝ちたい気持ちはある。
けれど、雨宮琴葉を相手に勝ちを見すぎれば、きっと水面を失う。
まず、自分の位置。
自分のスタート。
自分の1マーク。
自分の出口。
その中で、結果に入る。
灯は次に見る2艇を書いた。
4号艇。
6号艇。
4号艇の遠野紗季は、カドから攻めるタイプ。
3号艇の桐谷美咲はA2。
握れるし、外を使える。
ただし、雨宮琴葉が2コースから差せば、1号艇の水瀬香帆の出口が重くなる。
その外で、3号艇と4号艇が競る形になるかもしれない。
6号艇の芹沢真帆は、大外から追ってくる。
5コースの灯は、4号艇の攻めと6号艇の外圧の間にいる。
いつものように、外だけを見れば前が消える。
前だけを見れば、後ろから飲まれる。
灯は、もう一行書いた。
雨宮さんを見る。
でも、雨宮さんだけを見ない。
自分の水面を見る。
そこへ、柔らかい声がした。
「女子だけですねぇ」
灯は顔を上げた。
雨宮琴葉が、いつの間にか近くに立っていた。
今日も、空気はゆるい。
A1の圧のようなものは見えない。
けれど、灯はもう知っている。
この人は、怖くない顔のまま、1マークで誰よりも怖い場所に艇を置く。
「はい」
灯は背筋を伸ばした。
「全員女子戦、初めてですかぁ?」
「デビューしてからは、何度かあります。でも……」
「でも?」
「こういうメンバーでは、初めてです」
雨宮は出走表を見た。
「A2の桐谷さんもいますし、みんな細かいですよぉ」
「細かい、ですか」
「はい」
雨宮は、いつものようにゆっくり頷いた。
「女子戦って、静かに見える時ありますけど、けっこう細かいです。ちょっと流れたら、すぐ入られますし。ちょっと止まったら、すぐ置かれます」
灯はノートに書いた。
女子戦。
静かに見えて、細かい。
ちょっと流れたら入られる。
ちょっと止まったら置かれる。
雨宮は灯のノートを見て、少し笑った。
「ほんとにすぐ書きますねぇ」
「書かないと、忘れます」
「いいと思います」
雨宮は水面の方へ視線を向けた。
「でも、怖がりすぎると、誰にも入れなくなります」
その言葉に、灯の胸が少し固まった。
怖がりすぎると、誰にも入れない。
Fのあと、灯は線から離れすぎた。
慎重になりすぎて、水面から遠くなった。
同じことは、1マークでも起きる。
雨宮は、責めるでもなく、淡々と続けた。
「今日は、風見さんの外にもいますからねぇ」
「芹沢さん、ですね」
「はい。6号艇から来ますよぉ」
灯は頷いた。
「でも、4号艇も攻めてきます」
「そうですねぇ」
雨宮は、少しだけ首を傾げた。
「前も後ろも見るの、大変ですねぇ」
その言い方があまりにのんびりしていて、灯は少しだけ力が抜けた。
大変ですねぇ。
簡単に言われた。
でも、本当にその通りだった。
前も後ろも見る。
雨宮琴葉も見る。
自分の水面も見る。
全部を抱えて、5コースから1マークへ入る。
灯はノートに書いた。
前も後ろも見る。
でも、全部を追いすぎない。
雨宮は、ぽつりと言った。
「風見さん、たぶん3着を見ますよねぇ」
灯は少し驚いた。
「分かりますか」
「なんとなくです」
雨宮は笑った。
「戻ってきた日の4着の次は、入りたくなりますからねぇ」
灯は、ノートを見た。
復帰戦。
4着。
その次の3着。
確かに、自分はそれを見ている。
雨宮は続けた。
「入っていいと思いますよぉ」
灯は顔を上げた。
「いいんですか」
「はい。でも、入ったあとに止まらないなら」
灯は、その言葉をすぐに書いた。
入っていい。
でも、入ったあとに止まらないなら。
雨宮は、少しだけ声を落とした。
「力が入るのは、悪いことじゃないです」
灯は手を止めた。
「そうなんですか」
「はい。力が入っても、止まらなければいいんです」
その言葉は、灯の胸に静かに入った。
Fのあと、灯は力むことを怖がっていた。
勝ちたい気持ちも、遅れたくない気持ちも、越えたくない気持ちも、全部が自分の艇を壊すように思えていた。
けれど、雨宮は違う言い方をした。
力が入っても、止まらなければいい。
灯は何度もその文字を見た。
「ありがとうございます」
雨宮は、にこりと笑った。
「いえいえ。私もよく力入りますからぁ」
灯は思わず雨宮を見た。
雨宮琴葉が力むところなど、想像できなかった。
雨宮は、のんびり言った。
「見えないようにしてるだけです」
その一言に、灯はまた驚いた。
見えないようにしている。
怖くないのではない。
力が入らないのでもない。
ただ、それを水面に悪い形で出さない。
灯はノートの隅に書いた。
雨宮さん。
力が入らない人ではない。
力が入っても、止まらない人。
展示航走の時間が近づいた。
灯は5号艇のカポックを手に取る。
胸は硬い。
けれど、前ほど冷たくない。
今日の怖さには、少し形がある。
雨宮琴葉の2号艇。
全員女子戦の細かさ。
3着を欲しがる自分。
6号艇の外圧。
それらを、ノートに書いた。
書いたから、見られる。
怖さごと、水面に置く。
灯は、そう胸の中で繰り返した。
6艇がピットを離れた。
1号艇、水瀬香帆。
2号艇、雨宮琴葉。
3号艇、桐谷美咲。
4号艇、遠野紗季。
5号艇、灯。
6号艇、芹沢真帆。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は5コース。
雨宮は2コース。
展示の起こし。
大時計が視界に入る。
灯は時計を見る。
けれど、時計だけにはしない。
4号艇の遠野。
6号艇の芹沢。
そして、2号艇の雨宮。
スリット。
雨宮は、特別に出ているようには見えなかった。
でも、遅れてもいない。
ただ、必要な位置にいた。
灯はそれを見て、不思議な圧を感じた。
前へ出てくる怖さではない。
そこにいる怖さ。
必要な時に、必要な場所へ入ってくる怖さ。
1マーク。
水瀬が先に回る。
雨宮が差す。
桐谷が握る。
遠野がカドから攻める。
灯は5コース。
芹沢が外から来る。
雨宮の艇は、静かに内へ入った。
水瀬の出口が、ほんの少し重くなる。
桐谷と遠野が外で競る。
灯には見えた。
遠野の内。
桐谷の出口。
ただし、深い。
雨宮の差しが綺麗すぎて、内側の水面が一瞬詰まった。
灯は無理に入らなかった。
外へ流れすぎない。
芹沢を忘れない。
出口を残す。
展示のバックで、雨宮が前へ出る。
水瀬が2番手。
桐谷と遠野が外で競る。
灯はその後ろ。
4番手から5番手の位置。
2マーク。
遠野が外へ少し膨らむ。
桐谷も出口が重い。
灯には内が見えた。
入れる。
ただし、芹沢も後ろから来る。
灯は、艇を向けた。
入る。
でも、出口を残す。
力が入る。
でも、止まらない。
艇が跳ねる。
出口へ向ける。
展示のバックで、灯は3番手に近い位置まで出た。
完全ではない。
でも、見えた。
戻ってくると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
ST 0.17くらい。
越えない。
置かない。
水面に入る。
雨宮さん。
2コース。
出ているように見えない。
でも、必要な位置にいる。
1マーク。
雨宮さんが差す。
1号艇の出口が重くなる。
3号艇と4号艇が外で競る。
5号艇の私は、4号艇の内を見る。
深い。
6号艇が来る。
2マーク。
4号艇の内。
3号艇の出口。
入れる。
力が入る。
でも、止まらない。
灯は、そこまで書いてペンを置いた。
雨宮が戻ってきた。
「どうでしたぁ?」
灯は少し考えた。
「雨宮さんが、怖く見えませんでした」
雨宮は目を瞬かせた。
「はい」
「でも、怖かったです」
雨宮は、少しだけ笑った。
「それ、昨日も言ってましたねぇ」
「はい。今日の方が、近かったです」
「同じ水面ですからねぇ」
雨宮は、当たり前のように言った。
灯はその言葉を受け止める。
同じ水面。
見ているだけでは分からない距離がある。
同じスリットを通るからこそ分かる怖さがある。
同じ1マークへ向かうからこそ、雨宮の静けさが重い。
雨宮は、出走表を見て言った。
「本番は、たぶん桐谷さんがもう少し握りますねぇ」
「3号艇の桐谷さんですか」
「はい。展示より、少し外を使うと思います」
灯はすぐにノートに書いた。
本番。
3号艇、桐谷さん。
展示より握る可能性。
雨宮は続けた。
「遠野さんも攻めますから、外が少し忙しくなるかもしれません」
灯は頷く。
「私は、4号艇と6号艇を見ます」
「はい。それでいいと思います」
雨宮は、ゆっくり微笑んだ。
「でも、3号艇も忘れないでくださいねぇ。A2ですから」
灯はその言葉に少し緊張した。
桐谷美咲。
A2。
雨宮琴葉ばかり見ている場合ではない。
3号艇も強い。
4号艇も来る。
6号艇も外から来る。
女子だけの水面は、静かではない。
細かく、忙しい。
灯はノートに書いた。
雨宮さんだけを見ない。
3号艇、桐谷さんも見る。
4号艇、遠野さん。
6号艇、芹沢さん。
自分の3着。
本番の時間が来た。
灯は5号艇に乗り込む。
水面の音が近い。
女子戦の控えめな空気など、水面の上にはない。
艇が並べば、全員が自分の着を取りに来る。
1号艇は逃げたい。
2号艇は差したい。
3号艇は握りたい。
4号艇は攻めたい。
6号艇は追いたい。
そして、灯は3着を取りたい。
怖い。
でも、水面にいる。
6艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
1号艇、水瀬。
2号艇、雨宮。
3号艇、桐谷。
4号艇、遠野。
5号艇、灯。
6号艇、芹沢。
1、2、3。
4、5、6。
5コース。
起こし。
大時計。
灯は時計を見る。
4号艇を見る。
6号艇を見る。
2号艇の雨宮も視界に入る。
スリット。
雨宮はやはり、特別に出ているようには見えなかった。
でも、必要な位置にいる。
灯も遅れていない。
STは0.17。
越えていない。
置いてもいない。
復帰初戦より、少しだけ踏み込めている。
水面に入っている。
1マークへ向かう。
1号艇の水瀬が先に回る。
2号艇の雨宮が差す。
3号艇の桐谷が握る。
4号艇の遠野がカドから攻める。
灯は5コース。
6号艇の芹沢が外から伸びる。
雨宮の差しが入った。
音が大きいわけではない。
艇が激しく見えるわけでもない。
けれど、水瀬の出口が重くなる場所に、雨宮の艇はもう置かれていた。
差し場ができてからではない。
できる前から、そこにいた。
灯は一瞬、雨宮を見すぎそうになった。
だが、すぐに戻る。
自分の水面。
4号艇。
6号艇。
桐谷と遠野が外で競る。
桐谷は展示よりも握ってきた。
遠野も攻める。
2艇の外が重なる。
灯には、遠野の内が見えた。
深い。
でも、入れる水面。
芹沢が外から来る。
灯は芹沢を忘れない。
入る。
でも、出口を残す。
灯は艇を落とした。
波を踏む。
艇が跳ねる。
胸が冷たくなる。
力が入る。
でも、止めない。
出口へ向ける。
バックストレッチ。
2号艇の雨宮が先頭へ出る。
1号艇の水瀬が2番手。
3号艇の桐谷と4号艇の遠野が外で競る。
灯はその内側に入りかけている。
芹沢は外で伸び切れていない。
まだ3着ではない。
でも、届く位置にいる。
2マーク。
遠野が外へ流れる。
桐谷の出口も少し重い。
灯には内が見えた。
ここ。
ここで入れば、3着が取れる。
身体に力が入る。
見えた時ほど、呼吸。
雨宮の言葉が浮かぶ。
力が入っても、止まらなければいい。
灯は息をした。
南雲でも、沢渡でもない。
今日は遠野と桐谷。
そして雨宮の前の水面。
灯は艇を向けた。
遠野の内。
桐谷の出口。
深く入りすぎない。
芹沢に差し場を渡しすぎない。
出口を残す。
艇が跳ねる。
それでも、止まらない。
バックストレッチ。
灯が遠野の前に出た。
桐谷とも並ぶ。
出口で、灯の艇が伸びる。
3番手。
灯は3着圏へ入った。
前には雨宮。
その後ろに水瀬。
灯は3番手。
けれど、すぐ後ろには桐谷がいる。
A2。
桐谷美咲は簡単には消えない。
遠野も差し返しを狙う。
芹沢も外から諦めていない。
2周1マーク。
雨宮は先頭で回る。
大きく見えない。
艇が暴れない。
音が荒くない。
それでも、隙がない。
水瀬が2番手で続く。
灯は3番手。
桐谷が差してくる。
灯は内を開けすぎない。
外へ流れすぎない。
出口を残す。
桐谷の艇先が一瞬近づく。
灯は握りすぎなかった。
出口で伸び返す。
3番手を守る。
2周2マーク。
遠野が外から来る。
桐谷も内を狙う。
灯は少しだけ力が入った。
3着。
結果の中。
女子戦。
雨宮琴葉のいるレース。
ここで残したい。
その気持ちが、胸を硬くする。
力が入っても、止まらなければいい。
雨宮の言葉を思い出す。
灯は、力を消そうとしなかった。
ただ、艇を止めないように出口を見る。
遠野を受けすぎない。
桐谷に差し場を渡しすぎない。
芹沢を忘れない。
バックへ出る。
まだ3番手。
3周目。
実況が先頭の雨宮を追う。
「2号艇、雨宮琴葉が先頭」
その声を聞いた瞬間、灯は前を見た。
雨宮の艇は遠い。
届く感じがしない。
前にいるのに、大きく迫ってくるわけではない。
ただ、隙がない。
追わせない。
それが、同じ水面で走るとよく分かった。
灯は思った。
私は、まだ3着を残すだけで精一杯だ。
でも、それでいい。
今日は、自分の3着を取る。
最後の1マーク。
桐谷が迫る。
灯は出口を残す。
最後の2マーク。
遠野が内を狙う。
芹沢も外から来る。
灯は、少しだけ深く入りそうになった。
守りたい。
残したい。
でも、守るだけでは止まる。
灯は、艇を出口へ向けた。
入られても残す。
力が入っても止めない。
波を踏む。
艇が跳ねる。
それでも前へ向く。
ゴールラインが近づく。
灯は最後まで艇を止めなかった。
ゴール。
1着、2号艇、雨宮琴葉。
2着、1号艇、水瀬香帆。
3着、5号艇、風見灯。
4着、3号艇、桐谷美咲。
5着、4号艇、遠野紗季。
6着、6号艇、芹沢真帆。
3着。
灯はモニターを見た。
5号艇。
風見灯。
3着。
全員女子戦。
雨宮琴葉のいるレース。
その中で、自分の艇番が結果の中にあった。
嬉しさがあった。
でも、それよりも強く残ったのは、雨宮の遠さだった。
自分は3着を取った。
でも、雨宮琴葉には届いていない。
追った感覚すら、あまりなかった。
雨宮は、最初から最後まで自分のレースを乱さなかった。
控室に戻ると、雨宮がいつもの調子で言った。
「3着、おめでとうございますぅ」
灯は頭を下げた。
「ありがとうございます」
雨宮はにこにこしている。
1着を取った直後とは思えないほど、変わらない。
灯は、ノートを握ったまま言った。
「でも、雨宮さん、遠かったです」
「遠かったですかぁ?」
雨宮は首を傾げた。
「はい。前にいるのに、追える感じがしませんでした」
雨宮は少しだけ考えた。
それから、柔らかく笑った。
「追わせないのも、けっこう大事ですからねぇ」
灯は、その言葉に息を止めた。
追わせない。
逃げるだけではない。
勝つだけでもない。
後ろに、追えると思わせない。
それも強さ。
灯は、すぐにノートを開いた。
雨宮さん。
2号艇。
1着。
差し。
追わせない強さ。
前にいるのに、大きく見えない。
でも、隙がない。
雨宮は灯のノートを見て、少しだけ笑った。
「風見さんも、3着を残す時、ちょっと力が入りましたねぇ」
灯は顔を上げた。
「分かりましたか」
「はい」
「やっぱり、力が入りました」
「でも、止まりませんでした」
雨宮はゆっくり言った。
「力が入っても、止まらなかったなら、今日はいいと思います」
灯は、その言葉をノートに書いた。
力が入っても、止まらなかった。
今日は、それでいい。
書きながら、灯は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
力むことを、全部悪いものだと思っていた。
怖さも、欲も、緊張も、全部消してからでなければ走れない気がしていた。
でも、違う。
力が入ることはある。
怖いこともある。
欲が出ることもある。
大事なのは、そのまま止まらないこと。
水面の中で、出口を残すこと。
灯は、自分のレースも書いた。
5号艇。
5コース。
3着。
全員女子戦。
ST 0.17。
越えない。
置かない。
水面に入る。
雨宮さんが2コースから差す。
1号艇の出口が重くなる。
3号艇と4号艇が外で競る。
1マーク。
4号艇の内を見る。
6号艇を忘れない。
出口を残す。
2マーク。
4号艇の内へ入る。
3号艇を前に置く。
6号艇を消す。
バックで3番手。
2周目以降。
3号艇、4号艇、6号艇を後ろに置く。
3着を残す。
雨宮さんは遠い。
怖くないのに、隙がない。
追わせない強さ。
その下に、もう一行。
力が入っても、止まらなければいい。
モニターの表示が払い戻しへ切り替わる。
3連複。
1=2=5。
8番人気。
払戻、1,760円。
3連単。
2-1-5。
21番人気。
払戻、8,940円。
5号艇。
風見灯。
その数字が、また払い戻しの中に入った。
復帰節2走目。
全員女子戦。
A1の雨宮琴葉が勝ったレース。
その中で、自分は3着に残った。
それは大きなことだった。
でも、同時に、上の級の遠さを見た。
雨宮琴葉は、強く見せずに勝った。
水面を荒らさず、隙だけを消して、気づいた時には先頭にいた。
灯は、ノートの隅に書いた。
A1。
静かな女王。
怖くない顔をして、怖い水面を作る人。
雨宮は、その文字を見て言った。
「女王って感じじゃないですけどねぇ」
灯は少しだけ笑った。
「でも、静かでした」
「静かでしたかぁ」
「はい。静かなのに、誰も追えませんでした」
雨宮は、少しだけ照れたように笑った。
「それなら、今日はいいレースだったかもしれませんねぇ」
灯はノートを閉じかけて、もう一度開いた。
まだ書くことがあった。
B1への道は、ただ数字を積むだけではない。
上の級の水面を、同じレースで見て、それでも自分の着を取る道。
書きながら、灯は今日の水面を思い返した。
雨宮を追えなかった。
でも、雨宮のいるレースで3着を取った。
届かない。
でも、結果には入った。
それは、今の灯にとって大きな一歩だった。
勝つだけが成長ではない。
3着を残すこと。
上の級を同じ水面で見ること。
その強さをノートに盗むこと。
全部が、B1への道になる。
灯は最後に、自分の結果を書いた。
5号艇。
3着。
届かない。
でも、結果には入った。
そして、その下に小さく書き足した。
次は、もっと近くで見る。
雨宮琴葉の静かな背中は、まだ遠い。
けれど、灯は目を逸らさなかった。
怖くないのに怖い水面。
静かなまま勝つ選手。
その存在を、今日のノートに刻んだ。
復帰節の2走目。
灯は、もう一度舟券の中に戻った。
そして同時に、上の級の水面がどれほど静かに遠いのかを知った。




