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水面に灯る 〜落ちこぼれ女子レーサー、SGの頂点へ〜  作者: 水瀬航
第4章 勝つ水面、戻る水面
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第8話 初勝利

灯は、ノートに書いた文字を見つめていた。

勝ちたい。

短い言葉だった。

けれど、その3文字は、今までノートに書いてきたどの言葉よりも重かった。

六着を減らしたい。

5着を取りたい。

3着に入りたい。

残したい。

その全部の先に、その言葉はあった。

勝ちたい。

書いた時は、手が震えた。

でも、消さなかった。

三島沙耶は言った。

その欲は、捨てなくていい。

ただし、その言葉に飲まれないこと。

灯は、何度もその言葉を思い返していた。

勝ちたい。

でも、勝ちたいだけでは勝てない。

前だけを見れば、後ろを失う。

後ろを怖がれば、前へ行けない。

出口を残さなければ、どれだけ入っても止まる。

見えてからでは遅い。

怖いなら、準備する。

灯はページをめくった。

自分のこれまでの着順が、そこに並んでいる。

6着。

5着。

4着。

3着。

2着。

少しずつ前へ来た。

それは事実だった。

けれど、1着はまだなかった。

自分の名前が、一番上に表示されたことはない。

一番前でゴールしたことはない。

勝ったことがない。

灯は、その現実を見つめた。

その日の出走表が出ていた。

5号艇。

風見灯。

灯は、少しだけ息を吸った。

また5号艇。

5コース想定。

外寄り。

一気に勝つには遠い場所。

けれど、今の灯にとっては、完全に届かない場所ではなかった。

灯は出走表をノートに写した。

1号艇、村瀬航太。B1。

2号艇、片桐慎也。A2。

3号艇、奥野大成。B1。

4号艇、久世蓮。B1。

5号艇、風見灯。B2。

6号艇、堀川湊。B1。

1号艇の村瀬航太は、インから先に回る力がある。

2号艇の片桐慎也はA2。

差しが上手く、展開を逃さない。

3号艇の奥野大成は握るタイプだが、少し出口が甘い。

4号艇の久世蓮は、カドから攻める選手。

6号艇の堀川湊は、大外からでも最後まで追ってくる。

灯は、ペンを握った。

本命は、1号艇か2号艇。

4号艇の攻めもある。

5号艇の自分が1着で買われるような番組ではない。

それは分かっている。

自分はまだ、三島のように買われて勝つ選手ではない。

けれど、水面はオッズだけで決まるわけではない。

灯はノートに書いた。

5号艇。

5コース。

1マークで全部を取りに行かない。

4号艇が攻める。

2号艇が差す。

1号艇が残す。

その3艇が重なった時、どこが残るか。

止まらない場所に艇を置く。

2周目まで見る。

書き終えてから、灯はその最後の一行を見つめた。

2周目まで見る。

勝ちたいと思うと、1マークで全部を決めたくなる。

一気に前へ出たくなる。

でも、灯の勝ち方はたぶんそれではない。

外から全部を飲み込む力は、まだない。

スタートで全員を叩き切る力もない。

だから、見続ける。

1マークで終わらせない。

2マークも見る。

2周目も見る。

3周目まで、出口を見る。

その時、三島沙耶が近づいてきた。

「風見さん」

灯は顔を上げる。

「はい」

「今日、5号艇だね」

「はい」

三島は出走表を見た。

「勝ちたい?」

灯の胸が跳ねた。

まっすぐ聞かれて、すぐには答えられなかった。

でも、ノートにはもう書いてある。

勝ちたい。

灯は、逃げずに頷いた。

「はい。勝ちたいです」

三島は静かに頷いた。

「いいと思う」

灯は少しだけ目を見開いた。

「いいんですか」

「うん。勝ちたいと思わないと、勝つ準備はできない」

三島は出走表の1号艇と2号艇を指した。

「ただし、今日の番組は簡単じゃない。1号艇は残す。2号艇は差す。4号艇は攻める」

「はい」

「5号艇の風見さんが1マークで全部を取りに行くと、たぶん止まる」

灯はノートを見る。

自分でも、同じことを書いていた。

「全部を取りに行かない」

「そう」

三島は短く言った。

「勝ちたい時ほど、全部を取りに行かない」

灯は、その言葉を書き足した。

勝ちたい時ほど、全部を取りに行かない。

「でも、行かなければ勝てないですよね」

灯が言うと、三島は頷いた。

「行く場所を選ぶ」

「場所……」

「1マークで勝ちに行くのか。2マークで詰めるのか。2周目で前の出口を見るのか。最後まで見るのか」

三島は、灯をまっすぐ見た。

「風見さんは、最後まで見る選手だと思う」

その言葉に、灯の胸が静かに震えた。

最後まで見る選手。

勝ち方を教えられたわけではない。

けれど、自分の形を言われた気がした。

灯はゆっくり頷いた。

「はい」

「勝ちたいなら、最後まで見る」

「はい」

そこへ朝倉由芽が来た。

由芽は今日は同じレースではない。

けれど、出走表を見て、少しだけ目を細めた。

「5号艇ですね」

灯は頷いた。

「はい」

「風見さん、勝ちに行くんですか」

その言い方は穏やかだった。

でも、由芽の目は真剣だった。

灯は少しだけ迷ってから答えた。

「行きたいです」

由芽は静かに頷いた。

「見ます」

その一言が、灯には重かった。

由芽は見ている。

数字も、水面も。

自分が勝ちに行く水面を。

同じB2の選手として。

近い場所にいるライバルとして。

灯は、ノートを閉じた。

展示航走の時間が来る。

5号艇のカポックを手に取る。

手のひらに、いつもの重さが乗る。

でも、今日はその重さの中に、別のものがあった。

勝ちたい。

その言葉が、胸の中で小さく燃えている。

6艇がピットを離れた。

1号艇、村瀬航太。

2号艇、片桐慎也。

3号艇、奥野大成。

4号艇、久世蓮。

5号艇、灯。

6号艇、堀川湊。

進入は枠なり。

1、2、3。

4、5、6。

灯は5コース。

展示の起こし。

スリットへ向かう。

1号艇の村瀬は遅れない。

2号艇の片桐は差し構え。

3号艇の奥野は少し重い。

4号艇の久世がカドから攻める角度を作っている。

灯は、その外。

6号艇の堀川も大外から勢いをつけてくる。

全部が見える。

全部が動く。

でも、灯は戻る。

4号艇。

6号艇。

そして、1号艇と2号艇の出口。

展示の1マーク。

村瀬が先に回る。

片桐が差す。

奥野が握るが、出口が重い。

久世が攻める。

内側が詰まる。

灯は、その外から一気に入れるようにも見えた。

けれど、深い。

そこへ突っ込めば止まる。

灯は、無理に入らなかった。

4号艇の出口を見る。

2号艇の差し残りを見る。

1号艇の流れを見る。

その外に、止まらない水面がある。

灯はそこへ艇を置いた。

展示のバックで、3番手争い。

前は1号艇と2号艇。

灯は、その後ろにいる。

2マーク。

片桐が村瀬を追う。

村瀬は残す。

2艇が少し競る。

灯はその後ろから、出口を見た。

詰められる。

でも、今はまだ届かない。

展示を終えて控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

展示。

4号艇、攻める。

2号艇、差す。

1号艇、残す。

1マークで内が詰まる。

深く入ると止まる。

外に止まらない水面。

バックで3番手争い。

2周目まで見る。

1号艇と2号艇が競るなら、出口が重くなる。

そこを見る。

灯はそこまで書いて、ペンを止めた。

三島が横からノートを見る。

「いい」

灯は顔を上げる。

「1マークで行かなくていいんですか」

「行かなくていい場所なら、行かない」

三島は淡々と言った。

「行くべき場所と、行きたいだけの場所は違う」

灯は、その言葉を書いた。

行くべき場所。

行きたいだけの場所。

勝ちたいと思うと、行きたいだけの場所まで行きたくなる。

でも、それでは止まる。

三島は続けた。

「今日の展示なら、1マークで全部を取るより、前の2艇の出口を見た方がいい」

「はい」

「でも本番は変わる。展示通りにはならない」

「はい」

「だから、形だけ覚えない。なぜそこを見るのかを覚える」

灯は頷いた。

「はい」

由芽が近くで聞いていた。

「風見さん、1マークで行かなかったですね」

「行けませんでした」

灯は正直に答えた。

由芽は少しだけ首を振った。

「行かなかったように見えました」

灯は、その言葉に少しだけ驚いた。

行けなかったのではなく、行かなかった。

その違いは、今の灯にはまだ大きい。

由芽は言った。

「私なら、たぶん4着を残す位置を取りに行くと思います。でも風見さんは、その先を見てました」

「その先……」

「2周目まで」

灯は、ノートを見る。

2周目まで見る。

由芽にも、それが見えていた。

灯は少しだけ胸が熱くなった。

本番の時間が近づいた。

水面の音が大きくなる。

灯は5号艇に乗り込んだ。

胸は硬い。

手も少し震えている。

けれど、目は逃げていない。

勝ちたい。

でも、全部を取りに行かない。

最後まで見る。

6艇がピットを離れる。

進入は展示と同じ。

1号艇、村瀬。

2号艇、片桐。

3号艇、奥野。

4号艇、久世。

5号艇、灯。

6号艇、堀川。

1、2、3。

4、5、6。

5コース。

起こし。

エンジン音が変わる。

灯はスリットを見る。

1号艇の村瀬は遅れない。

2号艇の片桐も鋭い。

3号艇の奥野が少し重い。

4号艇の久世がカドから攻める。

6号艇の堀川が外から伸びる。

灯は5コースから、その間にいる。

行きたい。

前へ出たい。

1マークで決めたい。

その気持ちが胸に出た。

けれど、灯は飲まれなかった。

勝ちたいなら、勝てる形を残す。

1マーク。

村瀬が先に回る。

片桐が差す。

奥野が握るが、出口が重い。

久世がカドから攻める。

久世の攻めで、内側が詰まる。

灯には見えた。

差し場。

でも、深い。

そこへ入れば、引き波で止まる。

灯は一気に1着を取りに行かなかった。

4号艇の出口。

2号艇の差し残り。

1号艇の流れ。

その全部の外に、止まらない水面を探す。

あった。

きれいではない。

遠い。

でも、止まらない。

灯はそこへ艇を置いた。

波を踏む。

艇が跳ねる。

でも、止まらない。

バックストレッチ。

1号艇の村瀬が残す。

2号艇の片桐が差して迫る。

4号艇の久世が外で粘る。

灯はその後ろ。

3番手争い。

6号艇の堀川も外から来る。

灯は、まだ前ではない。

でも、死んでいない。

追える。

2マーク。

片桐が村瀬を追う。

村瀬はインで残す。

2艇が少し競る。

久世が外から残ろうとする。

灯は久世の内を見る。

ここで4号艇を消さなければ、前を追えない。

灯は艇を向けた。

深く入りすぎない。

出口を残す。

久世の内へ入る。

久世の艇が外から伸び返そうとする。

堀川も後ろから来る。

灯は艇を止めない。

バックへ出る。

灯は久世の前に出た。

3番手。

前に1号艇と2号艇。

1着争いは、まだ村瀬と片桐。

灯は、その後ろにいる。

2周1マーク。

村瀬は逃げたい。

片桐は差して逆転したい。

2艇が近い。

近すぎる。

片桐が村瀬の内を狙う。

村瀬は外へ流れすぎないように艇を返す。

2艇の出口が、少し重くなる。

灯には、それが見えた。

行きたい。

ここで突っ込めば、前へ出られるかもしれない。

でも、深い。

灯は、少し外に艇を置いた。

2艇が競るなら、次の出口が重くなる。

そこを、見る。

灯は外から出口を持って回った。

村瀬と片桐が内で競る。

久世が後ろから来る。

堀川も外にいる。

灯は止まらない場所を選んだ。

バックストレッチ。

片桐が村瀬をかわして前へ出た。

先頭、2号艇片桐。

村瀬は少し重くなった。

灯は外から伸びる。

村瀬の前に出る。

2番手。

灯は2番手に上がった。

前には片桐。

A2の片桐慎也。

差し本命。

崩れない選手。

けれど、前にいるのは1艇だけ。

灯は息を吸った。

また、この水面だ。

前に1艇。

勝ちたい。

その言葉が胸の中で強くなる。

2周2マーク。

片桐が先に回る。

灯はその後ろ。

片桐のターンは崩れない。

けれど、出口がほんの少し重い。

A2でも、完全ではない。

灯は内を見た。

まだ早い。

ここで入れば、届かない。

片桐は残す。

灯は無理に差し込まなかった。

距離を詰める。

出口を残す。

3周目まで見る。

バックストレッチで、少しだけ差が縮まった。

灯は、手に力が入りすぎそうになるのを抑えた。

3周1マーク。

片桐は先頭で回る。

灯はその後ろ。

村瀬が追ってくる。

久世も3着争いに残っている。

後ろを忘れれば、2着すら失う。

でも、前を見なければ勝てない。

灯は、前と後ろの両方を見る。

片桐の出口。

村瀬の差し。

久世の外。

自分の出口。

全部を見ようとすれば遅れる。

だから、選ぶ。

片桐の出口。

村瀬の艇先。

灯は、片桐の後ろで艇を止めなかった。

最後の2マーク。

片桐が先に入る。

A2のターン。

崩れない。

でも、2周目から少しだけ出口が重くなっていた。

灯には、それが見えていた。

今度は、見えてからではない。

重くなる前から、そこへ向ける。

灯は、片桐の内へ艇を向けた。

狭い。

引き波もある。

でも、入れる。

ただし、入るだけではだめ。

出口を残す。

片桐は残す選手。

大谷にも、牧野にも、今まで届かなかった理由がある。

相手は出口を残してくる。

だから、もっと先に艇を向ける。

灯はハンドルを切った。

片桐の内へ入る。

波を踏む。

艇が跳ねる。

胸が冷たくなる。

止まるな。

止まるな。

灯は、艇を出口へ向けた。

片桐の艇が外から伸び返す。

並ぶ。

ゴールラインが近づく。

片桐の艇先。

灯の艇先。

一瞬、同じに見えた。

灯は最後まで目を逸らさなかった。

怖い。

でも、見る。

怖いから、見る。

出口。

伸びる。

ほんの半艇身。

灯の艇が、前へ出た。

ゴール。

場内の音が、一瞬遅れて届いた。

灯は、すぐにモニターを見た。

1着、5号艇、風見灯。

2着、2号艇、片桐慎也。

3着、4号艇、久世蓮。

4着、1号艇、村瀬航太。

5着、6号艇、堀川湊。

6着、3号艇、奥野大成。

1着。

5号艇、風見灯。

灯は、画面を見たまま、何も考えられなかった。

1着。

自分の名前が、一番上にある。

一番前でゴールした。

勝った。

勝った。

その言葉が、すぐには身体に入ってこなかった。

手が震えている。

足元も少し頼りない。

艇を降りても、まだエンジンの振動が身体に残っていた。

片桐に残されると思った。

村瀬に差し返されると思った。

久世に外から来られると思った。

でも、残した。

抜いた。

前に出た。

1番前で、ゴールした。

控室に戻った瞬間、灯は三島の姿を見つけた。

三島沙耶は、いつものように落ち着いた顔で立っていた。

その顔を見た瞬間、灯の中で抑えていたものが一気に溢れた。

「沙耶さん……!」

声が出た。

自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。

三島が少しだけ目を見開く。

灯は、もう止まれなかった。

「沙耶さん、私、勝ちました!」

控室の空気が、少しだけ止まった。

言ってから、灯は自分の言葉に気づいた。

沙耶さん。

三島さんではなく。

沙耶さん。

「あ……」

灯は慌てて頭を下げようとした。

「す、すみません。三島さんって呼ぶつもりで……」

三島は、少しの間、何も言わなかった。

灯の胸が急に冷たくなる。

馴れ馴れしかったかもしれない。

浮かれすぎたかもしれない。

そう思った瞬間、三島が静かに言った。

「うん」

灯は顔を上げた。

三島は、ほんの少しだけ表情を緩めていた。

「勝ったね」

その一言で、灯の胸が詰まった。

三島は続けた。

「初勝利、おめでとう」

灯は、もう一度頭を下げた。

「ありがとうございます……!」

声が震えた。

泣きそうだった。

勝った。

本当に勝った。

三島が見てくれていた。

そのことが、何より胸に来た。

少し離れたところで、由芽が立っていた。

由芽は拍手をするわけでも、大きく笑うわけでもなかった。

ただ、まっすぐ灯を見ていた。

「おめでとうございます」

灯は振り向いた。

「ありがとうございます」

由芽は少しだけ唇を結んでから言った。

「悔しいです」

その声は、澄んでいた。

灯は何も言えなかった。

由芽は続ける。

「でも、見ました」

「え……」

「風見さんが、勝つ水面を」

灯の胸がまた熱くなる。

由芽は悔しさを隠していない。

でも、灯の勝利もちゃんと見てくれている。

それが、嬉しかった。

まどかも近くに来た。

「やったね、風見ちゃん」

灯は、ようやく少しだけ笑った。

「はい……勝ちました」

「うん。勝った」

まどかは優しく言った。

「でも、たぶん三島さんが言うよ」

灯は首を傾げた。

「何をですか」

その答えは、すぐに来た。

三島が椅子を引いた。

「じゃあ、書こうか」

灯は目を瞬かせた。

「え?」

「勝ったレースも書きなさい」

灯は、思わず固まった。

「勝ったレースも、ですか」

「そう」

三島はいつもの声で言った。

「勝てた理由を書けないと、次には残らない」

その言葉で、灯の胸にあった熱が少しだけ形を変えた。

勝った。

嬉しい。

泣きそう。

でも、それだけでは終われない。

勝ったレースも、原因で見る。

負けた時だけではない。

絡んだ時だけではない。

勝った時も。

灯は、震える手でノートを開いた。

けれど、ペンがなかなか進まなかった。

何を書けばいいのか分からない。

1着。

勝った。

抜いた。

その感情だけが溢れて、原因がうまく見えない。

灯は、小さく息を吸った。

「沙耶さん」

今度は、さっきより少しだけ落ち着いて呼んだ。

三島は拒まなかった。

「なに?」

灯は、ペンを握ったまま言った。

「勝ったレースの書き方を、教えてください」

三島は、静かに頷いた。

「負けたレースと同じ」

灯は顔を上げた。

「同じ、ですか」

「同じ」

三島は言った。

「感情じゃなくて、原因で見る」

灯は、ゆっくり頷いた。

「はい」

「まず、どこで勝ったと思う?」

灯は、少し考えた。

最後の2マーク。

片桐の内へ入った場面。

ゴール前で前に出た瞬間。

そこが一番分かりやすい。

でも、本当にそこだけだったのか。

灯は、レースを思い返した。

1マークで、深い差し場に入らなかった。

4号艇の出口と、2号艇の差し残りを見た。

止まらない場所に艇を置いた。

2マークで久世を消した。

2周1マークで、村瀬と片桐が競る出口を見た。

そこで無理に突っ込まず、外から出口を持って回った。

2周2マークで、片桐にすぐ差し込まなかった。

3周目まで見た。

最後の2マークで、片桐の出口が重くなる前から艇を向けた。

灯は、少しずつ書き始めた。

5号艇。

5コース。

1着。

決まり手、抜き。

1マーク。

4号艇が攻める。

2号艇が差す。

1号艇が残す。

内が詰まる。

深く入らない。

外に止まらない水面。

バックで3番手争い。

2マーク。

4号艇、久世さんを消す。

出口を残す。

2周1マーク。

1号艇、村瀬さん。

2号艇、片桐さん。

2艇が競る。

すぐには突っ込まない。

出口が重くなるのを見る。

外から止まらない場所。

バックで2番手。

2周2マーク。

片桐さんの出口を見る。

まだ入らない。

距離を詰める。

3周1マーク。

2着を残しながら、1着を見る。

最後の2マーク。

片桐さんの出口が重くなる前から、艇を向ける。

内へ入る。

出口を残す。

並ぶ。

ゴール前で前へ出る。

灯は、そこまで書いてペンを止めた。

三島がノートを見る。

「書けてる」

灯は顔を上げる。

「これで、いいですか」

「うん」

三島は頷いた。

「最後の2マークだけじゃない。そこまでの準備があったから抜けた」

灯は、ノートを見つめた。

勝った瞬間だけを見れば、最後の2マークだった。

けれど、勝てた理由はそこだけではない。

1マークで止まらなかったこと。

2マークで久世を消したこと。

2周1マークで焦らなかったこと。

2周2マークで無理に入らなかったこと。

最後まで見たこと。

それら全部が、初勝利につながっていた。

灯は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。

勝てた理由が、少しだけ見えた。

モニターの表示が、払い戻しへ切り替わった。

灯は、顔を上げる。

2連複。

2=5。

12番人気。

払戻、2,480円。

2連単。

5-2。

38番人気。

払戻、12,600円。

3連複。

2=4=5。

18番人気。

払戻、4,380円。

3連単。

5-2-4。

86番人気。

払戻、56,720円。

5号艇。

風見灯。

その番号が、今度は一番前にあった。

5-2-4。

自分の5号艇が、先頭にある。

灯は、その画面を見つめた。

三島の3号艇頭1番人気とは違う。

自分は、まだ買われて勝ったわけではない。

86番人気。

多くの人は、自分の1着を見ていなかった。

それでも、勝った。

買われていなかった5号艇が、1着になった。

その数字は、嬉しさだけではなく、怖さも連れてきた。

次から、少し見られ方が変わるかもしれない。

もう、ただのB2としてだけでは見られないかもしれない。

勝った選手として見られるかもしれない。

そのことが、灯にはまだ怖かった。

三島が言った。

「風見さん」

灯は顔を上げる。

「はい」

「初勝利は、残る」

灯は頷いた。

「はい」

「でも、次のレースは別」

その言葉に、灯の胸が少し締まった。

「はい」

「今日勝ったから、次も勝てるわけじゃない。今日勝ったから、6着を取らないわけでもない」

灯は、ノートを見た。

それは分かっている。

分かっているはずだった。

でも、勝ったばかりの胸には少し痛かった。

三島は続ける。

「だから、勝った理由を書く」

「はい」

「勝った自分を感情だけで残さない」

灯は、ノートに書いた。

勝った自分を、感情だけで残さない。

その文字を書いた時、胸の奥に少しだけ別の怖さが生まれた。

勝った自分。

それを、失いたくない。

次にまた6着を取ったら。

次にスタートで遅れたら。

次に何もできなかったら。

今日の勝利が、たまたまだと思われるかもしれない。

その不安が、一瞬だけ胸をよぎった。

灯は、ペンを握る手に力が入るのを感じた。

三島はそれに気づいたように言った。

「今は、それ以上考えなくていい」

灯は顔を上げた。

「はい」

「今日は、勝ったことを受け止める。でも、浮かれて終わらない」

「はい」

「勝てた理由を書いて、次の準備にする」

灯は深く頷いた。

「はい。沙耶さん」

今度は自然に出た。

少しだけ照れた。

けれど、言い直さなかった。

三島も、何も言わなかった。

ただ、短く頷いた。

「うん」

それだけで、灯は少しだけ救われた気がした。

沙耶さん。

その呼び方は、まだ慣れない。

でも、今の灯には、その距離が必要だった。

三島沙耶は、遠い選手だ。

A2で、勝てる水面を知っている人。

負けたレースも、勝ったレースも、原因で見させる人。

でも今日、初めて勝った自分を、最初に見せたいと思った人でもあった。

由芽が少し離れた場所で、自分のメモ帳を書いていた。

灯はその背中を見る。

由芽は悔しいと言った。

でも、見たとも言った。

風見さんが、勝つ水面を。

灯は思った。

自分が勝ったことで、由芽の中にも何かが残ったのかもしれない。

それが嬉しくもあり、怖くもあった。

まどかが軽く手を叩いた。

「風見ちゃん、今日はちゃんとご飯食べなよ」

灯は、思わず笑った。

「はい」

「勝った日ほど、変な感じになるから」

「変な感じ、ですか」

「うん。ふわふわする。でも身体は疲れてる」

灯は、自分の手を見る。

まだ少し震えている。

まどかの言う通りだった。

嬉しいのに、身体は重い。

勝ったのに、怖い。

胸が熱いのに、どこか冷たい。

初めての感覚だった。

灯は、ノートの最後にゆっくりと書いた。

初勝利。

5号艇。

5コース。

1着。

決まり手、抜き。

勝った。

でも、勝てた理由を書けなければ、次には残らない。

その下に、もう一行。

沙耶さんに、勝ったと伝えた。

書いてから、灯は少しだけ顔が熱くなった。

でも、消さなかった。

それも、今日の水面の一部だった。

初めて勝った日。

自分の名前が一番上にあった日。

5-2-4。

86番人気。

56,720円。

多くの人が見ていなかった勝ち。

けれど、自分は見た。

最後まで見た。

怖いまま、艇を入れた。

出口を残した。

勝った。

灯は、ノートを閉じた。

水面は、もう次のレースの音を立てている。

自分の初勝利も、すぐに次の結果の中へ流れていく。

けれど、ノートには残る。

勝ったこと。

勝てた理由。

沙耶さんと呼んだこと。

由芽が悔しいと言ったこと。

まどかが笑ってくれたこと。

その全部が、今日の水面だった。

灯は、もう一度だけモニターを見た。

5号艇。

風見灯。

1着。

その文字は、思っていたよりもずっと重かった。

勝利は、終わりではなかった。

きっと、ここからが怖い。

それでも、灯はその怖さごと、胸の奥にしまった。

勝った。

初めて、自分の力で。

その事実だけは、もう消えなかった。

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