表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水面に灯る 〜落ちこぼれ女子レーサー、SGの頂点へ〜  作者: 水瀬航
第4章 勝つ水面、戻る水面
35/60

第7話 勝ちたい

灯は、ノートの端に書いた一文を何度も見ていた。

前に、まだ2艇。

5号艇。

5コース。

3着。

初めて結果の中に入った。

初めて、払い戻しの中に自分の艇番が入った。

3連単、2-1-5。

42番人気。

払戻、18,760円。

自分の5号艇が入っただけで、配当が跳ねていた。

それは嬉しかった。

怖かった。

重かった。

自分はまだ、買われる選手ではない。

けれど、買われていなかった5号艇が、3着に残った。

その事実は、今も胸の奥に残っている。

ただ、レースを見返すたびに、別の感情も出てきた。

2号艇の北村悠真。

1号艇の高瀬亮介。

2艇が、前にいた。

自分は3着だった。

届いたようで、届いていない。

入ったようで、まだ先があった。

灯は、ノートに書いた3着のページを見つめる。

3着は、勝ちではない。

でも、ただの負けでもなかった。

取って、残して、初めてそこに入れる水面だった。

その下に、小さく書いた文字。

前に、まだ2艇。

その文字が、消えない。

「ずっと見てるね」

日向まどかの声がした。

灯は顔を上げた。

「すみません」

「謝らない」

まどかはいつものように言って、灯の隣に座った。

「初3着のページ?」

「はい」

「嬉しい?」

灯は少し迷ってから頷いた。

「嬉しいです」

「うん」

「でも、前に2艇いました」

まどかは少しだけ笑った。

「そこ見るようになったんだ」

灯は、ノートに視線を落とした。

「3着を取る前は、そこに入ることでいっぱいでした」

「うん」

「でも、入ったら……前が見えました」

言葉にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。

前が見えた。

それは、怖い言葉だった。

六着ばかりだった頃には、前など見えなかった。

まず1艇。

まず5着。

まず4着。

まず3着。

ずっと、目の前の一歩だけだった。

けれど3着に入った瞬間、前にいる2艇が見えた。

そこまで来て初めて、自分はまだ勝っていないのだと、はっきり分かった。

まどかはモニターを見ながら言った。

「3着を取ると、2着が見えるよ」

灯は頷いた。

「はい」

「2着を取ると、1着が見える」

灯の胸が少し鳴った。

1着。

その言葉は、まだ遠い。

遠いはずなのに、以前ほど霞んではいなかった。

「怖いです」

灯は言った。

「でしょうね」

まどかはあっさり答えた。

「でも、見るようになったなら、もう見ないふりはできないよ」

灯は、ノートを閉じた。

その日の出走表には、4号艇の欄に自分の名前があった。

4号艇。

風見灯。

今までより、少し内に近い。

5号艇、6号艇で外から拾うのとは違う。

4コース。

カド。

自分から展開に関わる位置。

灯は、その文字を見た時から、胸の奥が落ち着かなかった。

怖い。

でも、少しだけ違う。

怖いのに、逃げたいだけではない。

何かが見えるかもしれない。

そう思っている自分がいた。

灯は出走表をノートに写した。

1号艇、榊原透。B1。

2号艇、大谷修平。A2。

3号艇、水野晴斗。B1。

4号艇、風見灯。B2。

5号艇、朝倉由芽。B2。

6号艇、野々村駿。B1。

進入はおそらく枠なり。

1、2、3。

4、5、6。

灯は4コース。

すぐ外に、また朝倉由芽がいる。

今度は5号艇。

由芽は外から灯を見る位置だった。

灯は、ノートに書いた。

4号艇。

4コース。

今までより水面が近い。

でも、近いぶん判断が速くいる。

見る2艇。

2号艇。

3号艇。

2号艇の大谷修平はA2。

差しが上手い。

1号艇の榊原透がインから先に回るなら、大谷は差してくる。

3号艇の水野晴斗は握るタイプ。

ただし、出口が少し甘い。

そこに4コースの自分がどう入るか。

外には由芽。

由芽を忘れれば、外から差される。

灯はさらに書く。

3号艇が握る。

2号艇が差す。

自分は4コース。

3号艇の外か、内か。

握りすぎない。

でも、遅れすぎない。

出口を残す。

そこへ三島沙耶が来た。

「風見さん」

灯は顔を上げる。

「はい」

「今日、4号艇だね」

「はい」

三島は出走表を見た。

「4コース。今までより少し忙しいよ」

「忙しい、ですか」

「うん。外から見る時間が短くなる」

灯はノートを見た。

「6コースの方が全部見えるけど遠い。4コースは近いけど、判断が早くいる」

「そう」

三島は短く頷いた。

「4コースは、見えるものが近い。そのぶん、迷えばすぐ詰まる」

灯はペンを握った。

4コース。

見えるものが近い。

迷えば、すぐ詰まる。

三島は続けた。

「今日は、3号艇を見すぎないこと」

「3号艇を、ですか」

「うん。3号艇がへこんだり、出口が重くなったりすると、前が見える」

灯は頷いた。

「はい」

「でも、前だけ見て外を忘れたら、朝倉さんに入られる」

灯は、6話の最後の2マークを思い出した。

由芽が内へ入ってきた。

一瞬、並ばれた。

出口を残して、どうにか3着を守った。

あの怖さは、まだ身体に残っている。

「朝倉さんは来ますよね」

「来る」

三島は即答した。

「3着を取りに来るし、風見さんが前に出れば、それを追う」

灯は、少しだけ息を吸った。

三島は静かに言った。

「ただ、朝倉さんを怖がりすぎたら、前には行けない」

「はい」

「勝ちたい時ほど、前と後ろの両方を見る」

勝ちたい時。

その言葉に、灯は反応した。

まだ自分でそう言ったわけではない。

けれど、三島は先にそこを見ているようだった。

「勝ちたいって、思っていいんでしょうか」

灯は、思わず聞いていた。

三島は灯を見た。

「思っていい」

短い答えだった。

灯の胸が、少しだけ震えた。

「でも」

三島は続けた。

「欲だけで走ると壊れる」

灯は黙って頷いた。

「勝ちたいと思うのは悪くない。でも、勝ちたいから全部取りに行く、は違う」

「はい」

「勝ちたいなら、勝てる形を残す」

灯はノートに書いた。

勝ちたいなら、勝てる形を残す。

書いた文字が、いつもより重く見えた。

展示航走の時間が近づいた。

灯は4号艇のカポックを手に取る。

いつもより、少し身体が硬い。

4号艇。

4コース。

自分から何かを起こせるかもしれない位置。

それが怖い。

でも、見たい。

6艇がピットを離れた。

1号艇、榊原透。

2号艇、大谷修平。

3号艇、水野晴斗。

4号艇、灯。

5号艇、由芽。

6号艇、野々村駿。

進入は枠なり。

1、2、3。

4、5、6。

灯は4コース。

起こし。

スリットへ向かう。

1号艇の榊原は遅れない。

2号艇の大谷は差し構え。

3号艇の水野は、少しだけ起こしが不安定に見えた。

灯は4コースから、その外にいる。

いつもより1マークが近い。

水面が、近い。

近いのに、余裕がない。

展示の1マーク。

榊原が先に回る。

大谷が差す。

水野が握る。

その外から、灯は握る形になる。

ただ、握りすぎると流れる。

外には由芽がいる。

由芽は、灯が流れれば内へ入る。

灯は艇を向けた。

水野の外。

でも、外へ流れすぎない。

出口を残す。

由芽に内を渡しすぎない。

展示のバックでは、3番手争い。

見える。

3着が見える。

いや、2着も遠くない。

けれど、その瞬間、灯の艇は少し外へ散った。

欲が出た。

そう分かった。

2マークで、灯は少しだけ修正した。

水野が外へ膨らむ。

灯はその内を見る。

入れる。

由芽も内を見ている。

灯は入った。

ただし、今度は出口を残せた。

展示を終えて控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

展示。

4コース。

1マークが近い。

3号艇、水野さんの出口が重い。

外から握れる。

ただし、握りすぎると流れる。

5号艇、朝倉さんが内へ来る。

3着が見える。

2着も見えそうになる。

そこを見すぎると艇が散る。

灯は、最後の一行を少し迷ってから書いた。

勝ちたい気持ちが、艇を外へ散らす。

その文字を見た瞬間、少し怖くなった。

まだ本番前なのに。

もう欲が出ている。

三島がノートを覗く。

「それ、大事」

灯は顔を上げた。

「勝ちたい気持ち、ですか」

「うん。気づけているなら、まだ戻れる」

「戻れる……」

「自分が外へ散った理由を分かっていない方が怖い」

三島は出走表を指で軽く叩いた。

「本番でも同じ。3号艇が重くなったら前が見える。そこで全部取りに行くと流れる」

「はい」

「でも、怖がって行かなければ何も取れない」

灯は、三島を見た。

三島は淡々と言った。

「行く。ただし出口を残す」

灯は頷いた。

「はい」

由芽が戻ってきて、自分のメモ帳を開いていた。

灯が見ると、由芽は少しだけ笑った。

「今日は風見さんの外ですね」

「はい」

「展示、前に行きそうでした」

灯は少しだけ肩をすくめた。

「行きすぎそうでした」

「分かりました」

由芽は静かに言った。

「私、そこを見ます」

灯は胸が締まった。

由芽は見ている。

灯が前に行きすぎる場所を。

灯が流れる場所を。

そこに入ろうとしている。

灯は頷いた。

「私も、朝倉さんを見ます」

由芽は小さく頷いた。

「はい」

本番の時間が来た。

灯は4号艇に乗り込んだ。

水面の音が近い。

4コース。

いつもより前に近い水面。

心臓の音が、自分でも分かる。

勝ちたい。

まだノートには大きく書いていない。

でも、胸の中にはもうある。

灯は息を吐いた。

欲だけで走ると壊れる。

勝ちたいなら、勝てる形を残す。

6艇がピットを離れる。

進入は展示と同じ。

1号艇、榊原。

2号艇、大谷。

3号艇、水野。

4号艇、灯。

5号艇、由芽。

6号艇、野々村。

1、2、3。

4、5、6。

4コース。

起こし。

スリット。

1号艇の榊原は遅れない。

2号艇の大谷も鋭い。

3号艇の水野が、少しだけへこんだ。

灯はそれを見た。

自分の4号艇が、わずかに覗く。

行ける。

そう思った。

一瞬、まくりに行きたくなった。

全部を外から飲み込めるような錯覚があった。

でも、身体の奥で別の声が残った。

勝ちたいなら、勝てる形を残す。

灯は無理に握り潰しに行かなかった。

水野の外から、自分の出口を残す角度で艇を向けた。

1マーク。

榊原が先に回る。

大谷が差す。

水野が握るが、出口が重い。

灯はその外から入った。

握る。

でも、流れすぎない。

由芽が内を狙っている。

灯は、由芽に完全な差し場を渡さない。

バックストレッチ。

2号艇の大谷が差して、1号艇の榊原に並ぶ。

榊原も残す。

水野は少し重い。

灯はその外から伸び、3番手争いへ入った。

由芽は後ろ。

でも、まだ近い。

2マーク。

大谷と榊原が前で争う。

水野が外へ膨らむ。

灯は内を見る。

入れる。

ここで入れば、2番手争いまで近づける。

ただし、由芽も内を狙っている。

灯は迷わなかった。

水野の内へ入る。

出口を残す。

由芽に完全な内を渡さない。

艇が跳ねる。

でも、止まらない。

バックへ出る。

灯は水野の前に出た。

2番手の榊原まで、近い。

大谷が先頭に立っている。

いや、2号艇の大谷が前。

1号艇の榊原が2番手。

灯は3番手から、その背中を見る。

その瞬間、灯の胸に火がついた。

前に、2艇。

でも、1艇は近い。

2周1マーク。

榊原が少し出口で重くなる。

大谷は先頭で安定している。

灯は榊原の内を見た。

行けるかもしれない。

2着。

今までより、さらに前。

灯は艇を向けた。

深く入りすぎない。

出口を残す。

由芽が後ろから来る。

でも、ここは行く。

灯は榊原の内へ入った。

榊原の艇が外から伸び返す。

一瞬、並ぶ。

灯は、波を踏んだ。

艇が跳ねる。

でも止まらない。

出口で伸びる。

バックストレッチ。

灯が榊原の前に出た。

2番手。

初めての2番手。

前には、大谷修平。

1艇だけ。

灯の目の前に、1艇だけ。

胸が一気に熱くなった。

今まで、こんな水面は見たことがなかった。

前に1艇しかいない。

その艇を抜けば、1着。

灯は思った。

抜きたい。

その言葉は、今までのどの言葉よりも強かった。

沈みたくない。

1艇前へ。

3着に入りたい。

残したい。

その全部の先に、今、別の言葉が生まれていた。

抜きたい。

1番前に行きたい。

2周2マーク。

大谷は先頭で艇を返す。

余裕があるように見えた。

でも、灯から見れば届かない距離ではない。

出口が少し重くなれば、入れるかもしれない。

灯は前を見る。

前だけを見たくなる。

けれど、後ろには榊原がいる。

由芽もいる。

2着を失うわけにはいかない。

灯は出口を残した。

大谷との差は少し縮まった。

3周目。

実況の声が耳に入った。

「先頭は2号艇、大谷修平。2番手に4号艇、風見灯」

灯の名前が、2番手として呼ばれた。

胸が震える。

2番手。

前に1艇。

自分は今、勝ちを追っている。

最後の1マーク。

大谷のターンは崩れない。

灯は追う。

少しだけ差が詰まる。

最後の2マーク。

大谷が先に入る。

ほんの少し、出口が重くなった。

灯には内が見えた。

狭い。

でも、見えた。

ここしかない。

灯は艇を落とした。

大谷の内。

波を踏む。

艇が跳ねる。

胸が冷たくなる。

でも、止めない。

出口。

出口を残す。

灯の艇は、大谷の内へ入った。

一瞬、並びかける。

本当に、一瞬。

けれど、大谷は崩れていなかった。

A2の大谷修平は、出口を残していた。

灯が入っても、外から伸び返す。

大谷の艇先が前に出る。

ゴールラインが近づく。

灯は追う。

届かない。

ゴール。

1着、2号艇、大谷修平。

2着、4号艇、風見灯。

3着、1号艇、榊原透。

4着、5号艇、朝倉由芽。

5着、3号艇、水野晴斗。

6着、6号艇、野々村駿。

2着。

4号艇、風見灯。

初めての2着。

灯はモニターを見た。

2着。

自分の名前が、2番目にある。

3着より前。

舟券には、もちろん絡んでいる。

それなのに、胸に最初に来たのは、また悔しさだった。

前に、1艇しかいなかった。

でも、届かなかった。

最後の2マーク。

内が見えた。

入った。

並びかけた。

でも、大谷は出口を残していた。

灯は、ゆっくり息を吐いた。

2着。

嬉しい。

でも、悔しい。

3着を取った日より、悔しさが鋭かった。

艇を降りても、その感覚は消えなかった。

控室に戻ると、由芽が先にいた。

由芽は4着だった。

灯を見ると、静かに言った。

「2着、おめでとうございます」

灯は頭を下げた。

「ありがとうございます」

由芽は少しだけ悔しそうに笑った。

「風見さん、前に出ましたね」

灯は首を横に振った。

「でも、勝てませんでした」

「それでも、2着です」

「はい」

灯は少しだけ言葉を止めた。

「朝倉さんは、悔しいですか」

由芽は迷わなかった。

「悔しいです」

その声に、灯は頷いた。

「私も、悔しいです」

2人は少しだけ黙った。

灯は2着。

由芽は4着。

数字だけ見れば、灯が前に出た。

けれど、由芽は沈んでいない。

4着を残している。

そして、たぶん次はまた取りに来る。

そこへ日向まどかが来た。

「2着で悔しい顔するようになったね」

灯は顔を上げた。

「悔しいです」

「いいよ。そこまで来たってこと」

まどかは軽く笑った。

けれど、そのあと少しだけ声を落とした。

「ただ、勝ちたいって思った時ほど、6着にも戻りやすいよ」

灯は息を呑んだ。

まどかは続けた。

「前だけ見たくなるから。1着だけ追いたくなるから。そうすると、後ろも出口も消える」

灯は、最後の2マークを思い出した。

大谷を追った。

前だけを見たくなった。

でも、もし2着を残す出口を失っていたら、榊原や由芽に差されていたかもしれない。

勝ちたい気持ちは、強い。

でも、それは危うい。

灯は頷いた。

「はい」

「でも、勝ちたいって思うのは悪くないよ」

まどかは笑った。

「そこまで来たんだから」

灯は、胸の奥でその言葉を受け止めた。

そこへ三島が来た。

「風見さん」

灯はすぐに姿勢を正した。

「はい」

「初2着?」

「はい」

三島は短く言った。

「おめでとう」

灯は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「でも」

三島が言う前に、灯は小さく言った。

「1着には届きませんでした」

三島は少しだけ目を細めた。

「うん」

灯はノートを開いた。

手はまだ熱い。

胸の奥も落ち着かない。

でも、書かなければならない。

4号艇。

4コース。

2着。

初めての2着。

1マーク。

3号艇の出口が重い。

外から握る。

流れすぎない。

5号艇の朝倉さんに内を渡しすぎない。

2マーク。

3号艇をかわす。

2周1マーク。

1号艇、榊原さんの内へ入る。

2番手へ。

前に2号艇、大谷さん。

前に1艇しかいない。

最後の2マーク。

2号艇の内が見えた。

入った。

並びかけた。

でも、大谷さんの出口が残った。

届かなかった。

前に1艇しかいなかった。

でも、届かなかった。

灯は、そこでペンを止めた。

三島はノートを見ていた。

「1着、見えた?」

灯は顔を上げた。

「見えました」

「なら、次は勝ちたいと思うね」

灯は黙った。

胸の奥にあった言葉を、三島が先に言った。

勝ちたい。

灯は、まだノートに書いていなかった。

書けば、何かが変わってしまう気がした。

その言葉は、今までのどの目標よりも強い。

怖い。

けれど、嘘ではない。

三島は静かに言った。

「その欲は、捨てなくていい」

灯は、息を吸った。

「いいんですか」

「いい」

三島は即答した。

「勝ちたいと思わない選手は、勝てない」

灯は、胸が熱くなった。

「でも」

三島は続けた。

「欲だけで走ると壊れる」

灯は、展示のノートを思い出した。

勝ちたい気持ちが、艇を外へ散らす。

「はい」

「今日、最後の2マークは行ってよかった。でも、大谷さんは残していた」

「はい」

「勝つには、あの出口をさらに先に読む必要がある」

灯はノートに書いた。

勝つには、相手の出口をさらに先に読む。

「そして、自分の2着も残す」

「はい」

「1着を追いながら、2着を捨てない。そこが難しい」

灯は、深く頷いた。

1着を追いながら、2着を捨てない。

3着を取った時と同じだった。

前へ行く。

でも、今いる場所を渡さない。

ただ、今度はその場所が2着になった。

まどかが言ったように、勝ちたい時ほど沈みやすい。

前だけを見れば、後ろに飲まれる。

後ろだけ見れば、勝ちは見えない。

三島は最後に言った。

「今日の2着は、悪くない」

灯は顔を上げる。

「はい」

「でも、次は勝ちたいと思って走ることになる」

灯は、ノートの空白を見た。

そこに、まだ書いていない言葉がある。

三島はそれ以上言わなかった。

灯が自分で書くのを待っているようだった。

モニターの表示が払い戻しへ切り替わる。

2連複。

1=4。

7番人気。

払戻、1,140円。

2連単。

2-4。

9番人気。

払戻、2,960円。

3連複。

1=2=4。

8番人気。

払戻、1,780円。

3連単。

2-4-1。

36番人気。

払戻、15,420円。

4号艇。

風見灯。

また、自分の艇番が払い戻しの中にあった。

今度は3着ではなく、2着。

3連単の真ん中に、自分の4号艇がある。

2-4-1。

灯は、その数字を見つめた。

5号艇で3着に入った時とは違う。

今度は2着。

前にいたのは、1艇だけ。

その1艇に、届かなかった。

灯はノートに払い戻しを書いた。

2連複。

1=4。

7番人気。

1,140円。

2連単。

2-4。

9番人気。

2,960円。

3連複。

1=2=4。

8番人気。

1,780円。

3連単。

2-4-1。

36番人気。

15,420円。

4号艇。

風見灯。

初めての2着。

灯は、ペンを止めた。

その下に、ゆっくりと書く。

前に、あと1艇しかいなかった。

その1艇が、遠かった。

手が震えた。

次の言葉を書くのが怖かった。

書けば、もう戻れない気がした。

六着を減らしたい。

5着を取りたい。

3着に入りたい。

それらとは違う。

1番前でゴールしたい。

その欲を、はっきり自分のものにすることが怖かった。

けれど、もう胸の奥にはある。

灯は、ペン先を紙に置いた。

勝ちたい。

文字は、思ったより短かった。

でも、重かった。

灯は、その3文字を見つめた。

勝ちたい。

怖いほど真っ直ぐだった。

日向まどかが、その文字を見て小さく笑った。

「書いたね」

灯は頷いた。

「書きました」

由芽も、少し離れたところからその文字を見ていた。

「風見さん、次は勝ちに行くんですね」

灯は、由芽を見る。

「分かりません」

正直に答えた。

「まだ、勝てるかは分かりません」

「はい」

「でも、勝ちたいです」

由芽は静かに頷いた。

「私も、置いていかれないようにします」

その言葉に、灯の胸がまた少し鳴った。

置いていかれない。

由芽は由芽で、灯の2着を見て何かを感じている。

三島がノートを見て、短く言った。

「いい」

灯は顔を上げた。

「いいんですか」

「うん」

三島は静かに続けた。

「その言葉は、消さなくていい」

灯はノートを見た。

勝ちたい。

消さなくていい。

けれど、三島は最後にもう一つ言った。

「ただし、その言葉に飲まれないこと」

灯は、ゆっくり頷いた。

「はい」

勝ちたい。

その言葉は、灯の中に灯った。

小さな火のようだった。

温かい。

でも、近づきすぎれば、自分を焼くかもしれない。

それでも、もう消したくはなかった。

灯はノートを閉じた。

3着を取った時、前に2艇いた。

2着を取った今日、前に1艇しかいなかった。

その1艇が、遠かった。

でも、見えた。

1番前の水面。

まだ届かない。

でも、見えた。

水面は、夕方の光を受けて揺れている。

灯は、その揺れを見ながら、胸の中でもう一度だけ言った。

勝ちたい。

今度は、逃げずに。

その言葉を抱えたまま、次の水面を見るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ