第7話 勝ちたい
灯は、ノートの端に書いた一文を何度も見ていた。
前に、まだ2艇。
5号艇。
5コース。
3着。
初めて結果の中に入った。
初めて、払い戻しの中に自分の艇番が入った。
3連単、2-1-5。
42番人気。
払戻、18,760円。
自分の5号艇が入っただけで、配当が跳ねていた。
それは嬉しかった。
怖かった。
重かった。
自分はまだ、買われる選手ではない。
けれど、買われていなかった5号艇が、3着に残った。
その事実は、今も胸の奥に残っている。
ただ、レースを見返すたびに、別の感情も出てきた。
2号艇の北村悠真。
1号艇の高瀬亮介。
2艇が、前にいた。
自分は3着だった。
届いたようで、届いていない。
入ったようで、まだ先があった。
灯は、ノートに書いた3着のページを見つめる。
3着は、勝ちではない。
でも、ただの負けでもなかった。
取って、残して、初めてそこに入れる水面だった。
その下に、小さく書いた文字。
前に、まだ2艇。
その文字が、消えない。
「ずっと見てるね」
日向まどかの声がした。
灯は顔を上げた。
「すみません」
「謝らない」
まどかはいつものように言って、灯の隣に座った。
「初3着のページ?」
「はい」
「嬉しい?」
灯は少し迷ってから頷いた。
「嬉しいです」
「うん」
「でも、前に2艇いました」
まどかは少しだけ笑った。
「そこ見るようになったんだ」
灯は、ノートに視線を落とした。
「3着を取る前は、そこに入ることでいっぱいでした」
「うん」
「でも、入ったら……前が見えました」
言葉にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
前が見えた。
それは、怖い言葉だった。
六着ばかりだった頃には、前など見えなかった。
まず1艇。
まず5着。
まず4着。
まず3着。
ずっと、目の前の一歩だけだった。
けれど3着に入った瞬間、前にいる2艇が見えた。
そこまで来て初めて、自分はまだ勝っていないのだと、はっきり分かった。
まどかはモニターを見ながら言った。
「3着を取ると、2着が見えるよ」
灯は頷いた。
「はい」
「2着を取ると、1着が見える」
灯の胸が少し鳴った。
1着。
その言葉は、まだ遠い。
遠いはずなのに、以前ほど霞んではいなかった。
「怖いです」
灯は言った。
「でしょうね」
まどかはあっさり答えた。
「でも、見るようになったなら、もう見ないふりはできないよ」
灯は、ノートを閉じた。
その日の出走表には、4号艇の欄に自分の名前があった。
4号艇。
風見灯。
今までより、少し内に近い。
5号艇、6号艇で外から拾うのとは違う。
4コース。
カド。
自分から展開に関わる位置。
灯は、その文字を見た時から、胸の奥が落ち着かなかった。
怖い。
でも、少しだけ違う。
怖いのに、逃げたいだけではない。
何かが見えるかもしれない。
そう思っている自分がいた。
灯は出走表をノートに写した。
1号艇、榊原透。B1。
2号艇、大谷修平。A2。
3号艇、水野晴斗。B1。
4号艇、風見灯。B2。
5号艇、朝倉由芽。B2。
6号艇、野々村駿。B1。
進入はおそらく枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
すぐ外に、また朝倉由芽がいる。
今度は5号艇。
由芽は外から灯を見る位置だった。
灯は、ノートに書いた。
4号艇。
4コース。
今までより水面が近い。
でも、近いぶん判断が速くいる。
見る2艇。
2号艇。
3号艇。
2号艇の大谷修平はA2。
差しが上手い。
1号艇の榊原透がインから先に回るなら、大谷は差してくる。
3号艇の水野晴斗は握るタイプ。
ただし、出口が少し甘い。
そこに4コースの自分がどう入るか。
外には由芽。
由芽を忘れれば、外から差される。
灯はさらに書く。
3号艇が握る。
2号艇が差す。
自分は4コース。
3号艇の外か、内か。
握りすぎない。
でも、遅れすぎない。
出口を残す。
そこへ三島沙耶が来た。
「風見さん」
灯は顔を上げる。
「はい」
「今日、4号艇だね」
「はい」
三島は出走表を見た。
「4コース。今までより少し忙しいよ」
「忙しい、ですか」
「うん。外から見る時間が短くなる」
灯はノートを見た。
「6コースの方が全部見えるけど遠い。4コースは近いけど、判断が早くいる」
「そう」
三島は短く頷いた。
「4コースは、見えるものが近い。そのぶん、迷えばすぐ詰まる」
灯はペンを握った。
4コース。
見えるものが近い。
迷えば、すぐ詰まる。
三島は続けた。
「今日は、3号艇を見すぎないこと」
「3号艇を、ですか」
「うん。3号艇がへこんだり、出口が重くなったりすると、前が見える」
灯は頷いた。
「はい」
「でも、前だけ見て外を忘れたら、朝倉さんに入られる」
灯は、6話の最後の2マークを思い出した。
由芽が内へ入ってきた。
一瞬、並ばれた。
出口を残して、どうにか3着を守った。
あの怖さは、まだ身体に残っている。
「朝倉さんは来ますよね」
「来る」
三島は即答した。
「3着を取りに来るし、風見さんが前に出れば、それを追う」
灯は、少しだけ息を吸った。
三島は静かに言った。
「ただ、朝倉さんを怖がりすぎたら、前には行けない」
「はい」
「勝ちたい時ほど、前と後ろの両方を見る」
勝ちたい時。
その言葉に、灯は反応した。
まだ自分でそう言ったわけではない。
けれど、三島は先にそこを見ているようだった。
「勝ちたいって、思っていいんでしょうか」
灯は、思わず聞いていた。
三島は灯を見た。
「思っていい」
短い答えだった。
灯の胸が、少しだけ震えた。
「でも」
三島は続けた。
「欲だけで走ると壊れる」
灯は黙って頷いた。
「勝ちたいと思うのは悪くない。でも、勝ちたいから全部取りに行く、は違う」
「はい」
「勝ちたいなら、勝てる形を残す」
灯はノートに書いた。
勝ちたいなら、勝てる形を残す。
書いた文字が、いつもより重く見えた。
展示航走の時間が近づいた。
灯は4号艇のカポックを手に取る。
いつもより、少し身体が硬い。
4号艇。
4コース。
自分から何かを起こせるかもしれない位置。
それが怖い。
でも、見たい。
6艇がピットを離れた。
1号艇、榊原透。
2号艇、大谷修平。
3号艇、水野晴斗。
4号艇、灯。
5号艇、由芽。
6号艇、野々村駿。
進入は枠なり。
1、2、3。
4、5、6。
灯は4コース。
起こし。
スリットへ向かう。
1号艇の榊原は遅れない。
2号艇の大谷は差し構え。
3号艇の水野は、少しだけ起こしが不安定に見えた。
灯は4コースから、その外にいる。
いつもより1マークが近い。
水面が、近い。
近いのに、余裕がない。
展示の1マーク。
榊原が先に回る。
大谷が差す。
水野が握る。
その外から、灯は握る形になる。
ただ、握りすぎると流れる。
外には由芽がいる。
由芽は、灯が流れれば内へ入る。
灯は艇を向けた。
水野の外。
でも、外へ流れすぎない。
出口を残す。
由芽に内を渡しすぎない。
展示のバックでは、3番手争い。
見える。
3着が見える。
いや、2着も遠くない。
けれど、その瞬間、灯の艇は少し外へ散った。
欲が出た。
そう分かった。
2マークで、灯は少しだけ修正した。
水野が外へ膨らむ。
灯はその内を見る。
入れる。
由芽も内を見ている。
灯は入った。
ただし、今度は出口を残せた。
展示を終えて控室へ戻ると、灯はすぐにノートを開いた。
展示。
4コース。
1マークが近い。
3号艇、水野さんの出口が重い。
外から握れる。
ただし、握りすぎると流れる。
5号艇、朝倉さんが内へ来る。
3着が見える。
2着も見えそうになる。
そこを見すぎると艇が散る。
灯は、最後の一行を少し迷ってから書いた。
勝ちたい気持ちが、艇を外へ散らす。
その文字を見た瞬間、少し怖くなった。
まだ本番前なのに。
もう欲が出ている。
三島がノートを覗く。
「それ、大事」
灯は顔を上げた。
「勝ちたい気持ち、ですか」
「うん。気づけているなら、まだ戻れる」
「戻れる……」
「自分が外へ散った理由を分かっていない方が怖い」
三島は出走表を指で軽く叩いた。
「本番でも同じ。3号艇が重くなったら前が見える。そこで全部取りに行くと流れる」
「はい」
「でも、怖がって行かなければ何も取れない」
灯は、三島を見た。
三島は淡々と言った。
「行く。ただし出口を残す」
灯は頷いた。
「はい」
由芽が戻ってきて、自分のメモ帳を開いていた。
灯が見ると、由芽は少しだけ笑った。
「今日は風見さんの外ですね」
「はい」
「展示、前に行きそうでした」
灯は少しだけ肩をすくめた。
「行きすぎそうでした」
「分かりました」
由芽は静かに言った。
「私、そこを見ます」
灯は胸が締まった。
由芽は見ている。
灯が前に行きすぎる場所を。
灯が流れる場所を。
そこに入ろうとしている。
灯は頷いた。
「私も、朝倉さんを見ます」
由芽は小さく頷いた。
「はい」
本番の時間が来た。
灯は4号艇に乗り込んだ。
水面の音が近い。
4コース。
いつもより前に近い水面。
心臓の音が、自分でも分かる。
勝ちたい。
まだノートには大きく書いていない。
でも、胸の中にはもうある。
灯は息を吐いた。
欲だけで走ると壊れる。
勝ちたいなら、勝てる形を残す。
6艇がピットを離れる。
進入は展示と同じ。
1号艇、榊原。
2号艇、大谷。
3号艇、水野。
4号艇、灯。
5号艇、由芽。
6号艇、野々村。
1、2、3。
4、5、6。
4コース。
起こし。
スリット。
1号艇の榊原は遅れない。
2号艇の大谷も鋭い。
3号艇の水野が、少しだけへこんだ。
灯はそれを見た。
自分の4号艇が、わずかに覗く。
行ける。
そう思った。
一瞬、まくりに行きたくなった。
全部を外から飲み込めるような錯覚があった。
でも、身体の奥で別の声が残った。
勝ちたいなら、勝てる形を残す。
灯は無理に握り潰しに行かなかった。
水野の外から、自分の出口を残す角度で艇を向けた。
1マーク。
榊原が先に回る。
大谷が差す。
水野が握るが、出口が重い。
灯はその外から入った。
握る。
でも、流れすぎない。
由芽が内を狙っている。
灯は、由芽に完全な差し場を渡さない。
バックストレッチ。
2号艇の大谷が差して、1号艇の榊原に並ぶ。
榊原も残す。
水野は少し重い。
灯はその外から伸び、3番手争いへ入った。
由芽は後ろ。
でも、まだ近い。
2マーク。
大谷と榊原が前で争う。
水野が外へ膨らむ。
灯は内を見る。
入れる。
ここで入れば、2番手争いまで近づける。
ただし、由芽も内を狙っている。
灯は迷わなかった。
水野の内へ入る。
出口を残す。
由芽に完全な内を渡さない。
艇が跳ねる。
でも、止まらない。
バックへ出る。
灯は水野の前に出た。
2番手の榊原まで、近い。
大谷が先頭に立っている。
いや、2号艇の大谷が前。
1号艇の榊原が2番手。
灯は3番手から、その背中を見る。
その瞬間、灯の胸に火がついた。
前に、2艇。
でも、1艇は近い。
2周1マーク。
榊原が少し出口で重くなる。
大谷は先頭で安定している。
灯は榊原の内を見た。
行けるかもしれない。
2着。
今までより、さらに前。
灯は艇を向けた。
深く入りすぎない。
出口を残す。
由芽が後ろから来る。
でも、ここは行く。
灯は榊原の内へ入った。
榊原の艇が外から伸び返す。
一瞬、並ぶ。
灯は、波を踏んだ。
艇が跳ねる。
でも止まらない。
出口で伸びる。
バックストレッチ。
灯が榊原の前に出た。
2番手。
初めての2番手。
前には、大谷修平。
1艇だけ。
灯の目の前に、1艇だけ。
胸が一気に熱くなった。
今まで、こんな水面は見たことがなかった。
前に1艇しかいない。
その艇を抜けば、1着。
灯は思った。
抜きたい。
その言葉は、今までのどの言葉よりも強かった。
沈みたくない。
1艇前へ。
3着に入りたい。
残したい。
その全部の先に、今、別の言葉が生まれていた。
抜きたい。
1番前に行きたい。
2周2マーク。
大谷は先頭で艇を返す。
余裕があるように見えた。
でも、灯から見れば届かない距離ではない。
出口が少し重くなれば、入れるかもしれない。
灯は前を見る。
前だけを見たくなる。
けれど、後ろには榊原がいる。
由芽もいる。
2着を失うわけにはいかない。
灯は出口を残した。
大谷との差は少し縮まった。
3周目。
実況の声が耳に入った。
「先頭は2号艇、大谷修平。2番手に4号艇、風見灯」
灯の名前が、2番手として呼ばれた。
胸が震える。
2番手。
前に1艇。
自分は今、勝ちを追っている。
最後の1マーク。
大谷のターンは崩れない。
灯は追う。
少しだけ差が詰まる。
最後の2マーク。
大谷が先に入る。
ほんの少し、出口が重くなった。
灯には内が見えた。
狭い。
でも、見えた。
ここしかない。
灯は艇を落とした。
大谷の内。
波を踏む。
艇が跳ねる。
胸が冷たくなる。
でも、止めない。
出口。
出口を残す。
灯の艇は、大谷の内へ入った。
一瞬、並びかける。
本当に、一瞬。
けれど、大谷は崩れていなかった。
A2の大谷修平は、出口を残していた。
灯が入っても、外から伸び返す。
大谷の艇先が前に出る。
ゴールラインが近づく。
灯は追う。
届かない。
ゴール。
1着、2号艇、大谷修平。
2着、4号艇、風見灯。
3着、1号艇、榊原透。
4着、5号艇、朝倉由芽。
5着、3号艇、水野晴斗。
6着、6号艇、野々村駿。
2着。
4号艇、風見灯。
初めての2着。
灯はモニターを見た。
2着。
自分の名前が、2番目にある。
3着より前。
舟券には、もちろん絡んでいる。
それなのに、胸に最初に来たのは、また悔しさだった。
前に、1艇しかいなかった。
でも、届かなかった。
最後の2マーク。
内が見えた。
入った。
並びかけた。
でも、大谷は出口を残していた。
灯は、ゆっくり息を吐いた。
2着。
嬉しい。
でも、悔しい。
3着を取った日より、悔しさが鋭かった。
艇を降りても、その感覚は消えなかった。
控室に戻ると、由芽が先にいた。
由芽は4着だった。
灯を見ると、静かに言った。
「2着、おめでとうございます」
灯は頭を下げた。
「ありがとうございます」
由芽は少しだけ悔しそうに笑った。
「風見さん、前に出ましたね」
灯は首を横に振った。
「でも、勝てませんでした」
「それでも、2着です」
「はい」
灯は少しだけ言葉を止めた。
「朝倉さんは、悔しいですか」
由芽は迷わなかった。
「悔しいです」
その声に、灯は頷いた。
「私も、悔しいです」
2人は少しだけ黙った。
灯は2着。
由芽は4着。
数字だけ見れば、灯が前に出た。
けれど、由芽は沈んでいない。
4着を残している。
そして、たぶん次はまた取りに来る。
そこへ日向まどかが来た。
「2着で悔しい顔するようになったね」
灯は顔を上げた。
「悔しいです」
「いいよ。そこまで来たってこと」
まどかは軽く笑った。
けれど、そのあと少しだけ声を落とした。
「ただ、勝ちたいって思った時ほど、6着にも戻りやすいよ」
灯は息を呑んだ。
まどかは続けた。
「前だけ見たくなるから。1着だけ追いたくなるから。そうすると、後ろも出口も消える」
灯は、最後の2マークを思い出した。
大谷を追った。
前だけを見たくなった。
でも、もし2着を残す出口を失っていたら、榊原や由芽に差されていたかもしれない。
勝ちたい気持ちは、強い。
でも、それは危うい。
灯は頷いた。
「はい」
「でも、勝ちたいって思うのは悪くないよ」
まどかは笑った。
「そこまで来たんだから」
灯は、胸の奥でその言葉を受け止めた。
そこへ三島が来た。
「風見さん」
灯はすぐに姿勢を正した。
「はい」
「初2着?」
「はい」
三島は短く言った。
「おめでとう」
灯は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「でも」
三島が言う前に、灯は小さく言った。
「1着には届きませんでした」
三島は少しだけ目を細めた。
「うん」
灯はノートを開いた。
手はまだ熱い。
胸の奥も落ち着かない。
でも、書かなければならない。
4号艇。
4コース。
2着。
初めての2着。
1マーク。
3号艇の出口が重い。
外から握る。
流れすぎない。
5号艇の朝倉さんに内を渡しすぎない。
2マーク。
3号艇をかわす。
2周1マーク。
1号艇、榊原さんの内へ入る。
2番手へ。
前に2号艇、大谷さん。
前に1艇しかいない。
最後の2マーク。
2号艇の内が見えた。
入った。
並びかけた。
でも、大谷さんの出口が残った。
届かなかった。
前に1艇しかいなかった。
でも、届かなかった。
灯は、そこでペンを止めた。
三島はノートを見ていた。
「1着、見えた?」
灯は顔を上げた。
「見えました」
「なら、次は勝ちたいと思うね」
灯は黙った。
胸の奥にあった言葉を、三島が先に言った。
勝ちたい。
灯は、まだノートに書いていなかった。
書けば、何かが変わってしまう気がした。
その言葉は、今までのどの目標よりも強い。
怖い。
けれど、嘘ではない。
三島は静かに言った。
「その欲は、捨てなくていい」
灯は、息を吸った。
「いいんですか」
「いい」
三島は即答した。
「勝ちたいと思わない選手は、勝てない」
灯は、胸が熱くなった。
「でも」
三島は続けた。
「欲だけで走ると壊れる」
灯は、展示のノートを思い出した。
勝ちたい気持ちが、艇を外へ散らす。
「はい」
「今日、最後の2マークは行ってよかった。でも、大谷さんは残していた」
「はい」
「勝つには、あの出口をさらに先に読む必要がある」
灯はノートに書いた。
勝つには、相手の出口をさらに先に読む。
「そして、自分の2着も残す」
「はい」
「1着を追いながら、2着を捨てない。そこが難しい」
灯は、深く頷いた。
1着を追いながら、2着を捨てない。
3着を取った時と同じだった。
前へ行く。
でも、今いる場所を渡さない。
ただ、今度はその場所が2着になった。
まどかが言ったように、勝ちたい時ほど沈みやすい。
前だけを見れば、後ろに飲まれる。
後ろだけ見れば、勝ちは見えない。
三島は最後に言った。
「今日の2着は、悪くない」
灯は顔を上げる。
「はい」
「でも、次は勝ちたいと思って走ることになる」
灯は、ノートの空白を見た。
そこに、まだ書いていない言葉がある。
三島はそれ以上言わなかった。
灯が自分で書くのを待っているようだった。
モニターの表示が払い戻しへ切り替わる。
2連複。
1=4。
7番人気。
払戻、1,140円。
2連単。
2-4。
9番人気。
払戻、2,960円。
3連複。
1=2=4。
8番人気。
払戻、1,780円。
3連単。
2-4-1。
36番人気。
払戻、15,420円。
4号艇。
風見灯。
また、自分の艇番が払い戻しの中にあった。
今度は3着ではなく、2着。
3連単の真ん中に、自分の4号艇がある。
2-4-1。
灯は、その数字を見つめた。
5号艇で3着に入った時とは違う。
今度は2着。
前にいたのは、1艇だけ。
その1艇に、届かなかった。
灯はノートに払い戻しを書いた。
2連複。
1=4。
7番人気。
1,140円。
2連単。
2-4。
9番人気。
2,960円。
3連複。
1=2=4。
8番人気。
1,780円。
3連単。
2-4-1。
36番人気。
15,420円。
4号艇。
風見灯。
初めての2着。
灯は、ペンを止めた。
その下に、ゆっくりと書く。
前に、あと1艇しかいなかった。
その1艇が、遠かった。
手が震えた。
次の言葉を書くのが怖かった。
書けば、もう戻れない気がした。
六着を減らしたい。
5着を取りたい。
3着に入りたい。
それらとは違う。
1番前でゴールしたい。
その欲を、はっきり自分のものにすることが怖かった。
けれど、もう胸の奥にはある。
灯は、ペン先を紙に置いた。
勝ちたい。
文字は、思ったより短かった。
でも、重かった。
灯は、その3文字を見つめた。
勝ちたい。
怖いほど真っ直ぐだった。
日向まどかが、その文字を見て小さく笑った。
「書いたね」
灯は頷いた。
「書きました」
由芽も、少し離れたところからその文字を見ていた。
「風見さん、次は勝ちに行くんですね」
灯は、由芽を見る。
「分かりません」
正直に答えた。
「まだ、勝てるかは分かりません」
「はい」
「でも、勝ちたいです」
由芽は静かに頷いた。
「私も、置いていかれないようにします」
その言葉に、灯の胸がまた少し鳴った。
置いていかれない。
由芽は由芽で、灯の2着を見て何かを感じている。
三島がノートを見て、短く言った。
「いい」
灯は顔を上げた。
「いいんですか」
「うん」
三島は静かに続けた。
「その言葉は、消さなくていい」
灯はノートを見た。
勝ちたい。
消さなくていい。
けれど、三島は最後にもう一つ言った。
「ただし、その言葉に飲まれないこと」
灯は、ゆっくり頷いた。
「はい」
勝ちたい。
その言葉は、灯の中に灯った。
小さな火のようだった。
温かい。
でも、近づきすぎれば、自分を焼くかもしれない。
それでも、もう消したくはなかった。
灯はノートを閉じた。
3着を取った時、前に2艇いた。
2着を取った今日、前に1艇しかいなかった。
その1艇が、遠かった。
でも、見えた。
1番前の水面。
まだ届かない。
でも、見えた。
水面は、夕方の光を受けて揺れている。
灯は、その揺れを見ながら、胸の中でもう一度だけ言った。
勝ちたい。
今度は、逃げずに。
その言葉を抱えたまま、次の水面を見るために。




