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水面に灯る 〜落ちこぼれ女子レーサー、SGの頂点へ〜  作者: 水瀬航
第4章 勝つ水面、戻る水面
33/58

第5話 3着の背中

モニターの表示が、着順から払い戻しへ切り替わった。

灯は、何気なくその画面を見上げた。

さっきのレース。

一着、三号艇、三島沙耶。

二着、一号艇、相沢航平。

三着、二号艇、牧野涼介。

四着、五号艇、風見灯。

五着、四号艇、梶原怜。

六着、六号艇、瀬尾大地。

また四着だった。

前のレースに続いて、三着には届かなかった。

けれど、今回の四着は少し違う。

三島と同じ水面を走った。

三島が一着を取る水面を、同じレースの中で見た。

そして自分は、三着のすぐ後ろで届かなかった。

灯は、払い戻しの欄を見た。

三連単。

3-1-2

一番人気。

払戻、八百四十円。

灯の視線が止まった。

三号艇が頭。

三島沙耶が一着。

それが、一番人気。

普通なら、一号艇が売れる。

一号艇の相沢航平は、インから先に回る力があるB1の選手だった。

二号艇の牧野涼介も、差して残す技術がある。

それでも、お客さんは三号艇の三島を一着で買っていた。

三島なら、三コースからでも勝つ。

そう思われていた。

そして三島は、その通りに勝った。

灯は、画面を見たまま息を呑んだ。

すごい。

その言葉しか出てこなかった。

三号艇なのに。

頭で一番人気。

そして、一着。

買われていた。

期待されていた。

それに応えた。

三島沙耶という選手の重さが、画面の数字から伝わってくるようだった。

けれど、灯の視線はやがて、別の数字に戻っていった。

二号艇。

牧野涼介。

三着。

灯が最後の二マークで内に入った相手。

一瞬だけ、並びかけた相手。

それでも届かなかった相手。

灯は、モニターの着順表示をもう一度見た。

三着、二号艇、牧野涼介。

四着、五号艇、風見灯。

その一行の差が、胸に残った。

三島は遠い。

三号艇で頭の一番人気になって、その通り勝つ選手。

今の自分には、あまりにも遠い。

けれど、牧野涼介の三着は違う。

届きそうだった。

本当に、あと少しだった。

最後の二マーク。

自分は内に入った。

艇先が並んだ。

一瞬だけ、三着が見えた。

でも、届かなかった。

灯は、自分のノートを開いた。

五号艇。

五コース。

四着。

三島さんと同じ水面にいた。

でも、見ていた先が違った。

その下に、新しい行を書き足す。

三連単。

3-1-2

一番人気。

三島さんは、三号艇で勝つと思われていた。

相沢さんは、抜かれても二着に残ると思われていた。

牧野さんは、三着を守ると思われていた。

そして、三人ともその通りに走った。

灯はそこで、ペンを止めた。

違う。

書きたいことは、そこだけではない。

自分が今、本当に見ているのは三島の一着ではない。

三島の凄さは分かる。

画面を見れば分かる。

レースを見ても分かる。

同じ水面で走ったから、余計に分かる。

でも、今の灯が見続けているのは、三島ではなかった。

牧野涼介の三着だった。

灯は、リプレイの画面に視線を戻した。

最後の二マーク。

二号艇の牧野が先に入る。

少し外へ流れたように見える。

灯の五号艇が内へ入る。

狭い水面。

引き波。

艇が跳ねる。

それでも、灯は入った。

一瞬、並んだ。

今見ても、入れている。

差し場はあった。

遅すぎたわけではない。

でも、牧野は崩れていなかった。

流れたように見えた。

けれど、出口は残っていた。

灯が内に入っても、牧野の艇は外から伸び返した。

三着を渡さなかった。

灯は、そこを何度も見返した。

三着。

ただそこにいたわけではない。

ただ前が崩れなかったから残ったわけでもない。

牧野涼介は、三着を守る形を持っていた。

灯はノートに書く。

牧野涼介。

二号艇。

三着。

最後の二マーク。

私が内に入った。

でも、出口を残していた。

入られても、伸び返した。

三着を渡さなかった。

書いた文字を見つめる。

胸の奥が、少し重い。

自分は、三着を取りに行った。

でも、牧野は三着を守る準備をしていた。

その差。

灯は、ペンを握ったまま動けなかった。

「牧野さんを見てるんだ」

声がして、灯は顔を上げた。

三島沙耶だった。

一着を取ったあとでも、三島の表情は大きく変わらない。

浮かれている様子もない。

悔しがっている様子もない。

もう次の水面を見ているような顔だった。

灯は、少しだけ背筋を伸ばした。

「はい」

三島は隣に座り、モニターを見る。

リプレイでは、また最後の二マークが映っていた。

牧野が先に回る。

灯が内へ入る。

並ぶ。

届かない。

「入れたと思いました」

灯は、正直に言った。

「うん。入ったよ」

三島は短く答えた。

灯は顔を上げる。

「入ってましたか」

「入ってた」

三島はモニターを見たまま言った。

「でも、届かなかった」

「はい」

「牧野さんが、残す準備をしていたから」

灯はノートを見る。

自分が今書いた言葉と、同じだった。

残す準備。

三島は続けた。

「風見さんは、三着を取りに行った。牧野さんは、三着を守った」

灯は、その言葉をゆっくりノートに書いた。

私は三着を取りに行った。

牧野さんは三着を守った。

「三着はね」

三島は静かに言った。

「取る場所でもあるけど、残す場所でもある」

灯の手が止まった。

取る場所。

残す場所。

今までは、三着は前にあるものだった。

四着の自分が、あと一艇前に出れば届く場所。

舟券に絡む場所。

結果に入る場所。

けれど、三着にいる選手からすれば違う。

そこは守る場所なのだ。

追われる場所。

奪われる場所。

それでも最後まで渡さない場所。

灯は、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。

五着を初めて取った時、追われる怖さを知った。

四着を取った時、三着の背中を見た。

そして今、三着にいる艇が何をしているのかを、初めて少し見た。

「私、三着に入ることばかり考えてました」

灯は言った。

「牧野さんを抜けるかどうかばかり」

「うん」

「でも、牧野さんは……入られても残すことを考えていたんですね」

「そう」

三島は頷いた。

「三着を守る選手は、入られないことだけを考えているわけじゃない。入られた時にどう残すかも考えてる」

灯は、その言葉を書いた。

入られないことだけじゃない。

入られた時に、どう残すか。

「牧野さんは、強いんですね」

「強いよ」

三島は即答した。

「派手ではない。でも、二号艇から三着を守れる選手。こういう選手は、番組の中でかなり厄介」

灯は、牧野の名前を見た。

牧野涼介。

B1。

三島のように目立って勝ったわけではない。

相沢のように一号艇で残したわけでもない。

けれど、三着を守った。

灯が届かなかった。

それだけで、灯には十分すごかった。

モニターは、次に一周一マークの映像へ戻った。

一号艇の相沢航平が先に回る。

二号艇の牧野涼介が差す。

三号艇の三島が、二号艇と四号艇の間に艇を置く。

四号艇の梶原怜がカドから攻める。

五号艇の灯は外にいる。

六号艇の瀬尾大地がさらに外から来る。

三島の艇は無駄がなかった。

そして相沢も、崩れなかった。

三島に抜かれた。

けれど、二着に残った。

灯はそこにも気づいた。

「相沢さんも、崩れてないですね」

三島は小さく頷いた。

「うん」

「抜かれたのに」

「抜かれても、全部崩れるわけじゃない」

三島は言った。

「相沢さんは、逃げ切れなかった。でも、二着を残した。インの選手として、それも大事な力」

灯はノートに書いた。

相沢航平。

一号艇。

二着。

三島さんに抜かれても、崩れなかった。

逃げ切れなくても、連を外さなかった。

書きながら、灯は思う。

三島の凄さ。

相沢の強さ。

牧野の粘り。

それぞれ違う。

けれど、3-1-2 の一番人気は、その三人の力を見て買われていた。

三島が勝つ。

相沢が残る。

牧野が三着を守る。

お客さんは、それを見ていた。

少なくとも、そう買った人が一番多かった。

灯は、ノートにもう一度書く。

三着に入る艇には、理由がある。

そこへ、朝倉由芽が来た。

由芽はメモ帳を持って、少しだけ遠慮がちに声をかけた。

「私も見ていいですか」

三島が頷く。

「もちろん」

由芽は灯の隣に座り、リプレイを見る。

ちょうど最後の二マークが映っていた。

牧野が先に回る。

灯が内へ入る。

牧野が伸び返す。

由芽は、小さく息を吐いた。

「残してますね」

灯は頷いた。

「はい。入れたと思ったんですけど」

「入ってました」

由芽も言った。

「でも、牧野さんが止まってないです」

由芽の目は、数字を見る時とは少し違っていた。

水面を見ている。

けれど、その先に残る着順も見ている。

「牧野さん、三着を守る形を持ってました」

灯は言った。

由芽は静かに頷く。

「私、たぶん牧野さんみたいな走りがしたいんだと思います」

灯は由芽を見る。

「牧野さんみたいな?」

「はい」

由芽は少しだけ考えながら言った。

「勝つ力はまだ足りなくても、三着を守れる選手になりたいです。四着を残すだけじゃなくて、舟券に絡んだ時に落とさない選手に」

灯は、胸の奥が少し揺れた。

由芽は安定している。

沈まない。

四着を残す。

でも、それで満足しているわけではない。

三着に入りたい。

そして入ったら、守りたい。

由芽にとって牧野の三着は、目標に近い形なのかもしれない。

三島は由芽を見た。

「朝倉さんは、牧野さんから学ぶところが多いと思う」

由芽は背筋を伸ばした。

「はい」

「残す力がある。ただ、三着を取りに入る前に止まる時がある」

由芽は少しだけ視線を落とした。

「あります」

「牧野さんは、入るところは入ってる。そこから残してる」

由芽はメモ帳に書いた。

灯は、その横で自分のノートを見る。

三島が、今度は灯に視線を向けた。

「風見さんは逆」

灯は息を呑む。

「逆、ですか」

「うん。入ろうとする力は出てきた。でも、入ったあとに残す準備がまだ足りない」

灯は黙って頷いた。

その通りだった。

自分は、牧野の内に入った。

でも、そこから前に出し切れなかった。

仮に前に出られたとしても、その後に四着の艇を抑え込めたかは分からない。

三着を取るということは、ただ一瞬だけ前に出ることではない。

最後まで三番目でいること。

灯はノートに書く。

三着は、一瞬取るものじゃない。

最後まで残すもの。

由芽がその文字を見て、小さく頷いた。

「重いですね」

「はい」

灯は答えた。

「思っていたより、ずっと重いです」

三島は、モニターの払い戻し表示が消えた画面を見ていた。

もう次のレースの展示が始まっている。

さっきの3-1-2は、画面の上から消えている。

けれど、灯のノートには残っている。

三島は言った。

「結果はすぐ流れる」

灯は顔を上げた。

「でも、見たものは残せる」

灯は、ノートを抱えるように持った。

「はい」

しばらく、三人でリプレイを見た。

一マーク。

二マーク。

最後の二マーク。

何度見ても、灯は牧野の三着に届かない。

けれど、見返すたびに、届かなかった理由が少しずつ形になる。

見えてから入った。

牧野は、入られても残す準備をしていた。

三着は、取る場所であり、残す場所。

自分にはまだ、後半が足りない。

「風見さん」

三島が言った。

「はい」

「次に三着が見えたら、何を見る?」

灯はノートを見る。

少し考えてから答えた。

「前の艇が崩れる前から、崩れ方を見ます」

「うん」

「でも、入ったあとに出口を残します」

「うん」

「それと……」

灯は、牧野の映像を見た。

「三着に入れたとしても、後ろに渡さない場所を見ます」

三島は、短く頷いた。

「それでいい」

由芽も、静かにメモ帳を閉じた。

「私も、次は入るところまで見ます」

三島は由芽を見る。

「朝倉さんは、止まりすぎないこと」

「はい」

「風見さんは、入ったあと止めないこと」

灯は頷いた。

「はい」

違う課題。

同じ三着。

由芽は、入る前で止まる。

灯は、入った後に残せない。

どちらも、三着には足りない。

でも、どちらも三着を見ている。

それが、灯には少し心強かった。

夕方の控室は、少し静かになっていた。

レース場の音は続いている。

水面は止まらない。

三島の一着も、相沢の二着も、牧野の三着も、灯の四着も、すぐに次のレースの音に押し流されていく。

それでも、灯はノートに残す。

三島沙耶。

三号艇。

三連単、3-1-2

一番人気。

買われて、勝った。

相沢航平。

一号艇。

抜かれても二着を残した。

牧野涼介。

二号艇。

入られても三着を守った。

風見灯。

五号艇。

四着。

入った。

でも、残せなかった。

その下に、灯はゆっくりと書いた。

三着の背中。

それは、前にいるだけの艇ではなかった。

追われても残る艇だった。

その一艇を越えるには、入るだけでは足りない。

残す準備がいる。

ペン先が止まる。

灯は、少しだけ息を吸った。

「三島さん」

「なに?」

「三着、取りたいです」

その言葉は、前にも口にした。

でも、今は少し違った。

ただ三着に入りたいのではない。

牧野のように、三着を守れる形を持ちたい。

自分の艇番を、結果の中に入れたい。

そして、入ったあとに渡したくない。

三島は、静かに灯を見た。

「取りに行きなさい」

灯は頷いた。

「はい」

「ただし、三着の背中だけを追わない」

「はい」

「三着にいる艇が、何を残しているかを見る」

灯はノートに書いた。

三着の背中だけを追わない。

三着にいる艇が、何を残しているかを見る。

三島は立ち上がった。

「次は、その水面を走る番だね」

灯の胸が、静かに鳴った。

次。

三着の水面。

舟券に絡む水面。

取るだけではなく、残す水面。

灯は、深く頷いた。

「はい。三島さん」

三島はそれ以上何も言わず、控室の奥へ歩いていった。

由芽も自分の席へ戻る。

まどかは少し離れたところで、いつものように軽く手を振っていた。

灯は、もう一度モニターを見た。

そこにはもう、3-1-2の表示はない。

牧野涼介の三着も、画面からは消えている。

けれど、灯の中には残っていた。

最後の二マーク。

自分が入った水面。

牧野が残した出口。

届かなかった半艇身。

あれが、三着の背中。

灯はノートの最後に、もう一行を書いた。

次に入るなら、今度は残す。

書き終えて、灯はペンを置いた。

怖い。

でも、取りたい。

そして、取ったなら渡したくない。

次の水面で、灯は初めてその場所へ行こうとしていた。

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