第5話 3着の背中
モニターの表示が、着順から払い戻しへ切り替わった。
灯は、何気なくその画面を見上げた。
さっきのレース。
一着、三号艇、三島沙耶。
二着、一号艇、相沢航平。
三着、二号艇、牧野涼介。
四着、五号艇、風見灯。
五着、四号艇、梶原怜。
六着、六号艇、瀬尾大地。
また四着だった。
前のレースに続いて、三着には届かなかった。
けれど、今回の四着は少し違う。
三島と同じ水面を走った。
三島が一着を取る水面を、同じレースの中で見た。
そして自分は、三着のすぐ後ろで届かなかった。
灯は、払い戻しの欄を見た。
三連単。
3-1-2
一番人気。
払戻、八百四十円。
灯の視線が止まった。
三号艇が頭。
三島沙耶が一着。
それが、一番人気。
普通なら、一号艇が売れる。
一号艇の相沢航平は、インから先に回る力があるB1の選手だった。
二号艇の牧野涼介も、差して残す技術がある。
それでも、お客さんは三号艇の三島を一着で買っていた。
三島なら、三コースからでも勝つ。
そう思われていた。
そして三島は、その通りに勝った。
灯は、画面を見たまま息を呑んだ。
すごい。
その言葉しか出てこなかった。
三号艇なのに。
頭で一番人気。
そして、一着。
買われていた。
期待されていた。
それに応えた。
三島沙耶という選手の重さが、画面の数字から伝わってくるようだった。
けれど、灯の視線はやがて、別の数字に戻っていった。
二号艇。
牧野涼介。
三着。
灯が最後の二マークで内に入った相手。
一瞬だけ、並びかけた相手。
それでも届かなかった相手。
灯は、モニターの着順表示をもう一度見た。
三着、二号艇、牧野涼介。
四着、五号艇、風見灯。
その一行の差が、胸に残った。
三島は遠い。
三号艇で頭の一番人気になって、その通り勝つ選手。
今の自分には、あまりにも遠い。
けれど、牧野涼介の三着は違う。
届きそうだった。
本当に、あと少しだった。
最後の二マーク。
自分は内に入った。
艇先が並んだ。
一瞬だけ、三着が見えた。
でも、届かなかった。
灯は、自分のノートを開いた。
五号艇。
五コース。
四着。
三島さんと同じ水面にいた。
でも、見ていた先が違った。
その下に、新しい行を書き足す。
三連単。
3-1-2
一番人気。
三島さんは、三号艇で勝つと思われていた。
相沢さんは、抜かれても二着に残ると思われていた。
牧野さんは、三着を守ると思われていた。
そして、三人ともその通りに走った。
灯はそこで、ペンを止めた。
違う。
書きたいことは、そこだけではない。
自分が今、本当に見ているのは三島の一着ではない。
三島の凄さは分かる。
画面を見れば分かる。
レースを見ても分かる。
同じ水面で走ったから、余計に分かる。
でも、今の灯が見続けているのは、三島ではなかった。
牧野涼介の三着だった。
灯は、リプレイの画面に視線を戻した。
最後の二マーク。
二号艇の牧野が先に入る。
少し外へ流れたように見える。
灯の五号艇が内へ入る。
狭い水面。
引き波。
艇が跳ねる。
それでも、灯は入った。
一瞬、並んだ。
今見ても、入れている。
差し場はあった。
遅すぎたわけではない。
でも、牧野は崩れていなかった。
流れたように見えた。
けれど、出口は残っていた。
灯が内に入っても、牧野の艇は外から伸び返した。
三着を渡さなかった。
灯は、そこを何度も見返した。
三着。
ただそこにいたわけではない。
ただ前が崩れなかったから残ったわけでもない。
牧野涼介は、三着を守る形を持っていた。
灯はノートに書く。
牧野涼介。
二号艇。
三着。
最後の二マーク。
私が内に入った。
でも、出口を残していた。
入られても、伸び返した。
三着を渡さなかった。
書いた文字を見つめる。
胸の奥が、少し重い。
自分は、三着を取りに行った。
でも、牧野は三着を守る準備をしていた。
その差。
灯は、ペンを握ったまま動けなかった。
「牧野さんを見てるんだ」
声がして、灯は顔を上げた。
三島沙耶だった。
一着を取ったあとでも、三島の表情は大きく変わらない。
浮かれている様子もない。
悔しがっている様子もない。
もう次の水面を見ているような顔だった。
灯は、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
三島は隣に座り、モニターを見る。
リプレイでは、また最後の二マークが映っていた。
牧野が先に回る。
灯が内へ入る。
並ぶ。
届かない。
「入れたと思いました」
灯は、正直に言った。
「うん。入ったよ」
三島は短く答えた。
灯は顔を上げる。
「入ってましたか」
「入ってた」
三島はモニターを見たまま言った。
「でも、届かなかった」
「はい」
「牧野さんが、残す準備をしていたから」
灯はノートを見る。
自分が今書いた言葉と、同じだった。
残す準備。
三島は続けた。
「風見さんは、三着を取りに行った。牧野さんは、三着を守った」
灯は、その言葉をゆっくりノートに書いた。
私は三着を取りに行った。
牧野さんは三着を守った。
「三着はね」
三島は静かに言った。
「取る場所でもあるけど、残す場所でもある」
灯の手が止まった。
取る場所。
残す場所。
今までは、三着は前にあるものだった。
四着の自分が、あと一艇前に出れば届く場所。
舟券に絡む場所。
結果に入る場所。
けれど、三着にいる選手からすれば違う。
そこは守る場所なのだ。
追われる場所。
奪われる場所。
それでも最後まで渡さない場所。
灯は、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
五着を初めて取った時、追われる怖さを知った。
四着を取った時、三着の背中を見た。
そして今、三着にいる艇が何をしているのかを、初めて少し見た。
「私、三着に入ることばかり考えてました」
灯は言った。
「牧野さんを抜けるかどうかばかり」
「うん」
「でも、牧野さんは……入られても残すことを考えていたんですね」
「そう」
三島は頷いた。
「三着を守る選手は、入られないことだけを考えているわけじゃない。入られた時にどう残すかも考えてる」
灯は、その言葉を書いた。
入られないことだけじゃない。
入られた時に、どう残すか。
「牧野さんは、強いんですね」
「強いよ」
三島は即答した。
「派手ではない。でも、二号艇から三着を守れる選手。こういう選手は、番組の中でかなり厄介」
灯は、牧野の名前を見た。
牧野涼介。
B1。
三島のように目立って勝ったわけではない。
相沢のように一号艇で残したわけでもない。
けれど、三着を守った。
灯が届かなかった。
それだけで、灯には十分すごかった。
モニターは、次に一周一マークの映像へ戻った。
一号艇の相沢航平が先に回る。
二号艇の牧野涼介が差す。
三号艇の三島が、二号艇と四号艇の間に艇を置く。
四号艇の梶原怜がカドから攻める。
五号艇の灯は外にいる。
六号艇の瀬尾大地がさらに外から来る。
三島の艇は無駄がなかった。
そして相沢も、崩れなかった。
三島に抜かれた。
けれど、二着に残った。
灯はそこにも気づいた。
「相沢さんも、崩れてないですね」
三島は小さく頷いた。
「うん」
「抜かれたのに」
「抜かれても、全部崩れるわけじゃない」
三島は言った。
「相沢さんは、逃げ切れなかった。でも、二着を残した。インの選手として、それも大事な力」
灯はノートに書いた。
相沢航平。
一号艇。
二着。
三島さんに抜かれても、崩れなかった。
逃げ切れなくても、連を外さなかった。
書きながら、灯は思う。
三島の凄さ。
相沢の強さ。
牧野の粘り。
それぞれ違う。
けれど、3-1-2 の一番人気は、その三人の力を見て買われていた。
三島が勝つ。
相沢が残る。
牧野が三着を守る。
お客さんは、それを見ていた。
少なくとも、そう買った人が一番多かった。
灯は、ノートにもう一度書く。
三着に入る艇には、理由がある。
そこへ、朝倉由芽が来た。
由芽はメモ帳を持って、少しだけ遠慮がちに声をかけた。
「私も見ていいですか」
三島が頷く。
「もちろん」
由芽は灯の隣に座り、リプレイを見る。
ちょうど最後の二マークが映っていた。
牧野が先に回る。
灯が内へ入る。
牧野が伸び返す。
由芽は、小さく息を吐いた。
「残してますね」
灯は頷いた。
「はい。入れたと思ったんですけど」
「入ってました」
由芽も言った。
「でも、牧野さんが止まってないです」
由芽の目は、数字を見る時とは少し違っていた。
水面を見ている。
けれど、その先に残る着順も見ている。
「牧野さん、三着を守る形を持ってました」
灯は言った。
由芽は静かに頷く。
「私、たぶん牧野さんみたいな走りがしたいんだと思います」
灯は由芽を見る。
「牧野さんみたいな?」
「はい」
由芽は少しだけ考えながら言った。
「勝つ力はまだ足りなくても、三着を守れる選手になりたいです。四着を残すだけじゃなくて、舟券に絡んだ時に落とさない選手に」
灯は、胸の奥が少し揺れた。
由芽は安定している。
沈まない。
四着を残す。
でも、それで満足しているわけではない。
三着に入りたい。
そして入ったら、守りたい。
由芽にとって牧野の三着は、目標に近い形なのかもしれない。
三島は由芽を見た。
「朝倉さんは、牧野さんから学ぶところが多いと思う」
由芽は背筋を伸ばした。
「はい」
「残す力がある。ただ、三着を取りに入る前に止まる時がある」
由芽は少しだけ視線を落とした。
「あります」
「牧野さんは、入るところは入ってる。そこから残してる」
由芽はメモ帳に書いた。
灯は、その横で自分のノートを見る。
三島が、今度は灯に視線を向けた。
「風見さんは逆」
灯は息を呑む。
「逆、ですか」
「うん。入ろうとする力は出てきた。でも、入ったあとに残す準備がまだ足りない」
灯は黙って頷いた。
その通りだった。
自分は、牧野の内に入った。
でも、そこから前に出し切れなかった。
仮に前に出られたとしても、その後に四着の艇を抑え込めたかは分からない。
三着を取るということは、ただ一瞬だけ前に出ることではない。
最後まで三番目でいること。
灯はノートに書く。
三着は、一瞬取るものじゃない。
最後まで残すもの。
由芽がその文字を見て、小さく頷いた。
「重いですね」
「はい」
灯は答えた。
「思っていたより、ずっと重いです」
三島は、モニターの払い戻し表示が消えた画面を見ていた。
もう次のレースの展示が始まっている。
さっきの3-1-2は、画面の上から消えている。
けれど、灯のノートには残っている。
三島は言った。
「結果はすぐ流れる」
灯は顔を上げた。
「でも、見たものは残せる」
灯は、ノートを抱えるように持った。
「はい」
しばらく、三人でリプレイを見た。
一マーク。
二マーク。
最後の二マーク。
何度見ても、灯は牧野の三着に届かない。
けれど、見返すたびに、届かなかった理由が少しずつ形になる。
見えてから入った。
牧野は、入られても残す準備をしていた。
三着は、取る場所であり、残す場所。
自分にはまだ、後半が足りない。
「風見さん」
三島が言った。
「はい」
「次に三着が見えたら、何を見る?」
灯はノートを見る。
少し考えてから答えた。
「前の艇が崩れる前から、崩れ方を見ます」
「うん」
「でも、入ったあとに出口を残します」
「うん」
「それと……」
灯は、牧野の映像を見た。
「三着に入れたとしても、後ろに渡さない場所を見ます」
三島は、短く頷いた。
「それでいい」
由芽も、静かにメモ帳を閉じた。
「私も、次は入るところまで見ます」
三島は由芽を見る。
「朝倉さんは、止まりすぎないこと」
「はい」
「風見さんは、入ったあと止めないこと」
灯は頷いた。
「はい」
違う課題。
同じ三着。
由芽は、入る前で止まる。
灯は、入った後に残せない。
どちらも、三着には足りない。
でも、どちらも三着を見ている。
それが、灯には少し心強かった。
夕方の控室は、少し静かになっていた。
レース場の音は続いている。
水面は止まらない。
三島の一着も、相沢の二着も、牧野の三着も、灯の四着も、すぐに次のレースの音に押し流されていく。
それでも、灯はノートに残す。
三島沙耶。
三号艇。
三連単、3-1-2
一番人気。
買われて、勝った。
相沢航平。
一号艇。
抜かれても二着を残した。
牧野涼介。
二号艇。
入られても三着を守った。
風見灯。
五号艇。
四着。
入った。
でも、残せなかった。
その下に、灯はゆっくりと書いた。
三着の背中。
それは、前にいるだけの艇ではなかった。
追われても残る艇だった。
その一艇を越えるには、入るだけでは足りない。
残す準備がいる。
ペン先が止まる。
灯は、少しだけ息を吸った。
「三島さん」
「なに?」
「三着、取りたいです」
その言葉は、前にも口にした。
でも、今は少し違った。
ただ三着に入りたいのではない。
牧野のように、三着を守れる形を持ちたい。
自分の艇番を、結果の中に入れたい。
そして、入ったあとに渡したくない。
三島は、静かに灯を見た。
「取りに行きなさい」
灯は頷いた。
「はい」
「ただし、三着の背中だけを追わない」
「はい」
「三着にいる艇が、何を残しているかを見る」
灯はノートに書いた。
三着の背中だけを追わない。
三着にいる艇が、何を残しているかを見る。
三島は立ち上がった。
「次は、その水面を走る番だね」
灯の胸が、静かに鳴った。
次。
三着の水面。
舟券に絡む水面。
取るだけではなく、残す水面。
灯は、深く頷いた。
「はい。三島さん」
三島はそれ以上何も言わず、控室の奥へ歩いていった。
由芽も自分の席へ戻る。
まどかは少し離れたところで、いつものように軽く手を振っていた。
灯は、もう一度モニターを見た。
そこにはもう、3-1-2の表示はない。
牧野涼介の三着も、画面からは消えている。
けれど、灯の中には残っていた。
最後の二マーク。
自分が入った水面。
牧野が残した出口。
届かなかった半艇身。
あれが、三着の背中。
灯はノートの最後に、もう一行を書いた。
次に入るなら、今度は残す。
書き終えて、灯はペンを置いた。
怖い。
でも、取りたい。
そして、取ったなら渡したくない。
次の水面で、灯は初めてその場所へ行こうとしていた。




