第1話 5着の先へ
開催場に入った瞬間、灯は少しだけ足を止めた。
前の開催とは、空気が違う。
水面が違うわけではない。
風が特別に強いわけでもない。
ピットの匂いも、モーターの音も、控室のざわめきも、いつもと大きく変わらない。
それでも、灯の胸の奥だけが、少し違っていた。
前の開催で、初めて五着を取った。
一度だけではない。
二度、取った。
六着。
六着。
六着。
六着。
五着。
六着。
五着。
成績表として見れば、決して良くない。
むしろ悪い。
舟券にも絡んでいない。
勝ってもいない。
けれど、灯にとっては、初めて「六着だけではない」と言える開催だった。
だからこそ、怖かった。
あの五着は、本当に自分のものになったのか。
次も、一艇を前に置けるのか。
それとも、また全部六着に戻るのか。
灯は鞄の中のノートを軽く押さえた。
このノートには、前の開催のすべてが書いてある。
自分で決めた六着。
外へ出された五号艇。
轟朱音の大外。
艇王と女帝の名前。
日向まどかの四着。
戻る二艇。
初めての五着。
そのあとの六着。
そして、もう一度の五着。
最後に、轟朱音が一号艇からチルト三度で大外へ行き、優勝したレース。
外から勝つ水面。
遠すぎる水面。
でも、確かに見た水面。
灯は、深く息を吸った。
今回の開催には、三島沙耶がいる。
掲示板の出場選手一覧に、その名前を見つけた時から、胸の奥が少し固くなっていた。
三島さんに、見せなければならない。
あのノートを。
自分で考えた開催を。
自分で失敗して、自分で五着を取って、自分でまた崩れた水面を。
控室に入ると、選手たちがそれぞれ準備をしていた。
新聞を読む者。
整備の話をする者。
モニターを見る者。
静かに目を閉じている者。
その中に、三島沙耶がいた。
整備着の袖を軽くまくり、机の上に出走表を置いている。
顔を上げた三島が、灯に気づいた。
「風見さん」
灯は背筋を伸ばした。
「おはようございます。三島さん」
「おはよう」
三島は、灯の鞄を見た。
「ノート、持ってきた?」
その一言で、灯の胸が跳ねた。
「はい」
「じゃあ、あとで見せて」
「はい」
短い会話だった。
けれど、灯にはそれだけで十分だった。
三島は、覚えていた。
自分がノートを書く選手だということを。
そして、前の開催で自分が何を見たのかを、最初から聞くつもりでいてくれた。
灯は控室の端に荷物を置き、ノートを取り出した。
表紙は、もうかなり擦れている。
養成所から使っているノート。
最初の頃は、感情ばかりを書いていた。
怖い。
悔しい。
分からない。
届かない。
でも、三島に言われてから、少しずつ書き方が変わった。
誰が起こした。
誰が握った。
誰が差した。
自分はどこで迷った。
どの波で艇が跳ねた。
出口でなぜ止まった。
水面は、感情じゃなくて原因で見る。
その言葉は、今もノートの最初の方に書いてある。
灯はページを開いた。
前の開催のまとめ。
四日間、七走。
六、六、六、六、五、六、五。
何度見ても、良い成績ではない。
けれど、その下にはびっしりと文字がある。
何もなかった六着ではない。
ただ流れて終わった六着ではない。
それを、三島がどう見るのか。
灯は怖かった。
「風見ちゃん」
今度は別の声がした。
日向まどかだった。
「日向さん」
「また一緒だね」
「はい。よろしくお願いします」
まどかは灯のノートをちらりと見た。
「三島さんに見せるの?」
「はい」
「緊張してる?」
灯は少し迷ってから、正直に頷いた。
「してます」
「だよね」
まどかは笑った。
「でも、ちゃんと見てもらった方がいいよ」
「はい」
「前の開催、風見ちゃんは自分で考えた。だから次は、それを誰かに見てもらう番」
灯は、ノートに視線を落とした。
自分で考えた。
その言葉は、少しだけ重かった。
三島がいない開催だった。
頼れなかった。
すぐ赤を入れてもらえなかった。
その代わり、自分で決めなければならなかった。
見る二艇も。
失敗の理由も。
五着の意味も。
灯は小さく頷いた。
「見てもらいます」
「うん」
まどかは軽く手を振って、自分の出走表を見に行った。
しばらくして、三島が灯の席の前に来た。
「今、いい?」
「はい」
灯はノートを差し出した。
三島は受け取り、座る。
灯も向かいに座った。
三島はまず、成績のページを見た。
六。
六。
六。
六。
五。
六。
五。
無言の時間が続いた。
灯は、膝の上で手を握った。
数字だけなら、悪い。
それは自分でも分かっている。
また言われるかもしれない。
まだ遅い。
まだ艇を置く準備が遅い。
まだ出口が取れていない。
まだ五着で喜ぶ段階ではない。
灯は、少しだけ息を詰めた。
三島はページをめくった。
一走目。
自分で決めた六着。
二走目。
戻る二艇は見えたが届かない。
三走目。
五号艇でも外へ出された。
四走目。
最後まで一艇を見失わなかった。
五走目。
初めて一艇を前に置いた。
六走目。
五着のあと、前を見すぎて崩れた。
七走目。
もう一度、一艇を前に置いた。
三島は、淡々と読み進める。
表情は大きく変わらない。
それが、灯には少し怖かった。
やがて、三島がノートを閉じた。
「数字だけ見れば、悪い」
灯は、静かに頷いた。
「はい」
「六着が五本。五着が二本。舟券絡みなし。勝率も低い」
「はい」
三島の言葉は、鋭かった。
でも、灯は逃げなかった。
それは事実だった。
三島は、もう一度ノートを開いた。
「でも、中身は悪くない」
灯は顔を上げた。
「え……」
「五着を取ったことより、そのあと六着に戻って、最後にもう一度五着を取ったことの方が大きい」
灯は、言葉を失った。
三島は続けた。
「一度できたことを、次で崩した。そこで終わらず、最後にもう一度戻した。これは使える」
「使える……」
「うん」
三島は、七走目のページを指で叩いた。
「ここ。五着という数字を追わず、一艇に戻った。前の失敗を使っている」
灯は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
褒められた。
そう思っていいのか分からない。
三島の言葉は、単純な褒め言葉ではない。
でも、見てくれていた。
数字だけではなく、中身を見てくれていた。
「ありがとうございます」
灯が言うと、三島は首を横に振った。
「まだ礼を言うところじゃない」
「はい」
「次は、五着で止まらないこと」
灯の身体が、少し固まった。
五着で止まらない。
分かっている。
五着は、あくまで一歩だった。
けれど、それを三島の口から言われると、急に現実の重さが増した。
三島はノートを返した。
「風見さん」
「はい」
「五着は、六着を減らした結果」
「はい」
「でも、上へ行くなら、五着を積むだけでは足りない」
灯は、黙って聞いた。
「次に見るのは、三着」
「三着……」
「勝ちじゃない。でも、軽くない」
三島の声は静かだった。
「三着は、舟券に絡む」
灯の胸が、少しだけ鳴った。
舟券。
その言葉は、プロになってからずっと近くにあった。
場内には舟券を買う人がいる。
モニターにはオッズが出る。
レースが終われば、払い戻しが表示される。
けれど、灯はまだそこに自分の名前を入れたことがない。
六着。
五着。
どちらも、舟券には絡まない。
三着。
そこから、自分の艇番が誰かの舟券に入る。
灯は、その重さをまだ本当には知らない。
三島は言った。
「三着に入るということは、自分の艇番が結果に残るということ。お客さんの舟券にも、予想にも、配当にも関わるということ」
灯は、少しだけ喉が渇くのを感じた。
「勝ってなくても、ですか」
「勝ってなくても」
三島は即答した。
「三着は勝ちじゃない。でも、ただの負けでもない」
その言葉が、灯の中に残った。
三着は、勝ちではない。
でも、ただの負けでもない。
灯はノートを開き、新しいページに書いた。
三着。
勝ちではない。
でも、ただの負けではない。
舟券に絡む。
自分の艇番が、結果に入る。
ペン先が少し震えた。
五着を取った時、自分は泣きそうになった。
六着ではなかった。
それだけで、胸がいっぱいになった。
でも、三着はまた違う。
自分のためだけの着順ではない。
誰かの舟券に入る着順。
結果として見られる着順。
プロとして、少しだけ責任が増える場所。
三島は、灯のノートを見て言った。
「ただし、勘違いしないこと」
「はい」
「三着を欲しがって全部を見ると、また六着に戻る」
灯は、前の開催の六走目を思い出した。
五着のあと。
もう一艇前を見た。
前を見すぎた。
順番を間違えた。
そして六着に戻った。
「はい」
「まずは、五着を取った時と同じ。見る艇を決める。出口を残す。前を見すぎない」
「はい」
「その上で、もう一艇を見られるかどうか」
灯は、その言葉を書いた。
一艇を安定して前に置く。
その上で、もう一艇。
三島は立ち上がった。
「今日の番組、見た?」
「まだ全部は見ていません」
「じゃあ、見て。今回からは、五着を取るためだけじゃなく、三着に残る形も考える」
灯は顔を上げた。
「三着に残る形」
「そう」
三島は短く言った。
「前を追うだけじゃなく、後ろから来る艇に飲まれないことも考える」
灯は、日向が前に言っていたことを思い出した。
前に出るということは、後ろから来る艇もできるということ。
五着に上がった時、初めて追われる怖さを知った。
三着に残るなら、その怖さはもっと大きくなる。
前を追う。
後ろも見る。
でも、全部を見ると遅れる。
灯は、ノートを見つめた。
難しい。
まだ、自分には早い気もする。
それでも、次の水面はそこにある。
五着の先。
三着の水面。
三島が歩き出そうとした時、灯は思わず声をかけた。
「あの、三島さん」
「なに?」
「前の開催で、轟さんの優勝戦を見ました」
三島は少しだけ目を細めた。
「一号艇から大外に出たやつ?」
「はい」
「あれは、真似しない」
即答だった。
灯は思わず背筋を伸ばした。
「分かってます」
「本当に?」
「はい。日向さんにも言われました」
三島は小さく息を吐いた。
「ならいい」
灯は少しだけ笑いそうになった。
まどかにも、同じことを言われた。
真似しちゃだめ。
それほど、轟朱音の水面は危険で、遠い。
でも、見えたものは残っている。
外は、勝つ場所にもなる。
それは、今すぐ自分ができることではない。
でも、知らなかった頃には戻れない。
三島は少しだけ表情を緩めた。
「轟さんのレースで、何を書いた?」
灯はノートをめくり、最後のページを見せた。
外は、勝つ場所にもなる。
三島はそれを読んで、短く頷いた。
「それは、書いていい」
灯は少し驚いた。
「いいんですか」
「うん。遠い水面を知るのは悪くない」
三島は言った。
「でも、次のレースで見るのは、自分の水面」
灯は、静かに頷いた。
自分の水面。
五着の先。
三着の手前。
そこに、今の自分がいる。
三島が去ったあと、灯は出走表を取りに行った。
今回の初日の番組。
自分の名前は、後半の一般戦にあった。
六号艇。
また、六号艇だった。
灯はその文字を見て、少しだけ息を吐いた。
六号艇。
六コース。
いつもの場所。
でも、もう終わりの場所ではない。
ただし、今回は目標が少し変わる。
五着を取るだけではない。
三着に残る形を見る。
けれど、焦らない。
前を見すぎない。
灯はノートに書いた。
今回の開催。
目標。
五着で止まらない。
三着の水面を見る。
ただし、順番を間違えない。
まず、一艇。
その上で、もう一艇。
書き終えた時、隣から声がした。
「風見灯さん?」
灯は顔を上げた。
そこに、一人の女子レーサーが立っていた。
灯と同じくらいの年頃に見える。
派手さはない。
髪はきれいにまとめられ、出走表と小さなメモ帳を持っている。
表情は穏やかだが、目は数字を追うように落ち着いていた。
「はい。風見です」
「朝倉由芽です」
その名前に、灯は少しだけ反応した。
聞いたことがある。
同じB2。
デビュー時期も近い。
まだ目立つ選手ではない。
けれど、六着が少なく、四着や五着をよく拾う選手。
日向まどかが前に言っていた。
あの子、派手じゃないけど沈まないよ。
朝倉由芽は、灯のノートにちらりと目を向けた。
「前の開催、五着二本だったんですよね」
灯は少し驚いた。
「知ってるんですか」
「成績表、見ました」
由芽は淡々と言った。
「六着も多いけど、五着が入ってきたなら、次は変わるかもしれないですね」
灯は、どう答えていいか分からなかった。
「まだ、全然です」
「全然でも、数字は残ります」
由芽は、自分のメモ帳を軽く持ち上げた。
「一着も、五着も、六着も。全部、級別に残るので」
その言葉は、灯の胸に別の重さで落ちた。
級別。
B2。
B1。
勝率。
三島や日向から聞いてはいた。
でも、由芽の言い方はまた違った。
水面の話ではない。
数字の話だった。
由芽は続けた。
「三着を取るのも大事ですけど、六着を何本減らせるかも大事だと思います」
灯は、ノートに目を落とした。
三島は三着の重さを言った。
日向は六着を減らすことを言った。
そして朝倉由芽は、数字としてそれを見ている。
同じ水面を走っていても、見ているものが違う。
灯は、由芽を見た。
「朝倉さんは、いつも成績を見てるんですか」
「見ます」
由芽は迷わず答えた。
「B1に上がりたいので」
その言葉は、静かだった。
けれど、はっきりしていた。
B1に上がりたい。
灯は、まだその言葉を自分のものとして強く言えない。
五着を取ったばかり。
三着もまだ。
初勝利もまだ。
B1など、遠く感じる。
でも、同じB2の由芽は、もうそこを見ている。
由芽は、出走表を見ながら言った。
「一着は大きいです。でも、六着を三本取ったら、一着一つじゃ足りないこともあります」
灯は息を呑んだ。
一着。
まだ自分には遠い言葉。
でも由芽は、その先の計算をしている。
「勝つ日も必要ですけど、沈まない日を増やさないと、級別は変わらないので」
沈まない日。
その言葉は、日向まどかの水面とつながった。
沈まない場所に艇を置く。
六着を減らす。
それが、数字として級別に残る。
灯は、ゆっくり頷いた。
「勉強になります」
由芽は少しだけ首を振った。
「私も、勝ち切れないので」
その声に、初めて少しだけ悔しさが混じった。
「だから、沈まないようにしてるだけです」
灯は、由芽のメモ帳を見た。
そこには、たぶん自分の成績が書かれている。
着順。
勝率。
三連対率。
六着の数。
灯のノートとは違う。
灯は水面を書く。
由芽は数字を書く。
でも、どちらもB2から抜けようとしている。
「風見さん」
「はい」
「お互い、B1に上がれるといいですね」
灯は、少しだけ返事に迷った。
B1に上がる。
今の自分が口にしていい目標なのか。
まだ早いのではないか。
そう思いかけて、三島の言葉を思い出した。
五着で止まらないこと。
日向の言葉を思い出した。
六着、ちゃんと減ったね。
轟朱音の言葉を思い出した。
勝てる場所にいるだけ。
灯は、小さく頷いた。
「はい」
そして、少しだけ力を込めて言った。
「上がりたいです」
口にした瞬間、胸の奥が震えた。
怖かった。
でも、逃げたくなかった。
B1。
まだ遠い。
三着も、初勝利も、その前にある。
でも、目を逸らしていい場所ではない。
由芽は小さく笑った。
「じゃあ、同じですね」
そう言って、出走表を持って控室の奥へ歩いていった。
灯は、その背中を見送った。
同じB2。
でも、見ているものが違う。
三島は原因を見る。
日向は沈まない場所を見る。
由芽は数字を見る。
そして灯は、水面を見る。
その全部が、今の灯に必要なのかもしれない。
灯はノートを開いた。
新しいページの一番上に、ゆっくりと書く。
五着の先。
三着の水面。
B1への数字。
その三つの言葉が、同じページに並んだ。
まだ、どれも遠い。
けれど、もう知らない場所ではない。
灯はペンを止め、窓の外の水面を見た。
今日も水面は待ってくれない。
一走ごとに、結果は残る。
六着も。
五着も。
三着も。
勝ちも。
失敗も。
全部、残る。
灯はノートを閉じた。
五着の先へ。
三着の水面へ。
そして、いつかB1へ。
そのために、まず今日も一艇を見る。




