第8話 5着のあと
五着を取ったあとも、控室の時間は変わらなかった。
次のレースの展示が始まる。
選手がピットへ向かう。
モニターが切り替わる。
誰かが整備の話をしている。
誰かが出走表を見ている。
誰かが、さっきのレースを短く振り返っている。
その中で、灯の五着だけが特別に残り続けることはなかった。
場内にとっては、ただの五着。
舟券にも絡んでいない。
勝ったわけでもない。
けれど、灯の中では違った。
五着。
六ではない数字。
一艇だけ前に置けた数字。
灯は、ノートの同じ行を何度も見返していた。
六号艇。
六コース。
五着。
初めて、一艇だけ前に置けた。
六着ではなかった。
その文字を見るたびに、胸の奥が少し熱くなる。
けれど、同時に怖くもあった。
一度できた。
でも、次もできるのか。
あれは、本当に自分で掴んだものだったのか。
たまたま前の五号艇が流れたからではないのか。
たまたま水面が開いたからではないのか。
たまたま、出口が残っただけではないのか。
「ずっと見てるね」
日向まどかの声がした。
灯は顔を上げた。
「すみません」
「謝らない」
まどかはいつものように言って、隣に座った。
「嬉しい?」
灯は少し迷ってから頷いた。
「嬉しいです」
「うん」
「でも……怖いです」
「何が?」
「次、また六着だったら」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷えた。
五着を取ったからこそ、次の六着が怖くなる。
全走六着だった頃は、六着が当たり前だった。
悔しかった。
苦しかった。
でも、そこから落ちる場所はなかった。
一度五着を取ると、六着に戻ることが怖くなる。
まどかは、少しだけ静かに頷いた。
「分かるよ」
「日向さんも、ありましたか」
「あるよ」
まどかはあっさり答えた。
「初めて五着取ったあと、次で六着。初めて三着に絡んだあと、次で六着。そういうの、普通にある」
灯はノートを見る。
「普通に……」
「うん。水面は、さっきできたから次もできるって場所じゃないから」
その言葉は、優しくはなかった。
けれど、冷たくもなかった。
ただ、現実だった。
灯は、ペンを握った。
五着は、終わりじゃない。
次も、水面は違う。
その日の後半。
灯には、もう一走あった。
掲示板の出走表に、自分の名前がある。
五号艇。
風見灯。
五号艇。
その文字を見て、胸が少し動いた。
さっき五着を取ったばかり。
次は五号艇。
五コースから走れるかもしれない。
六コースより、少しだけ一マークに近い。
少しだけ、前に届くかもしれない。
そう思った瞬間、灯は自分で気づいた。
期待している。
それは悪いことではない。
まどかもそう言っていた。
けれど、期待は焦りに変わる。
五着を取れた直後だからこそ、次も取れると思ってしまう。
いや。
五着だけでは足りないと思ってしまう。
もう一艇。
もう少し前へ。
灯は、ノートに出走表を書き写した。
一号艇。
A2。
二号艇。
B1。
三号艇。
A2。
四号艇。
B1。
五号艇。
風見灯。
六号艇。
B2。
進入は、おそらく五コース。
ただし、六号艇が動く可能性もある。
灯はペンを止めた。
見る二艇。
三号艇。
四号艇。
五コースなら、自分の内にいる四号艇の動きが大きい。
三号艇が握れば、四号艇の進路が変わる。
外の六号艇も気になる。
けれど、全部は見ない。
今日は、三号艇と四号艇。
灯はそう書いた。
その横に、もう一つ書き足す。
前を見すぎない。
五着のあとだからこそ、その言葉が必要だった。
まどかがノートを覗いた。
「三号艇と四号艇?」
「はい。五コース想定なので」
「いいと思う」
まどかは頷いた。
「でも、六号艇も来るかもね」
「はい」
「気になる?」
「気になります」
灯は正直に答えた。
「でも、全部見ると遅れるので」
「うん」
まどかは少し笑った。
「そこに気づいてるならいいよ」
展示航走。
灯は五号艇に乗り込んだ。
五着を取った直後の展示。
それだけで、身体の中に変な力が入っているのが分かった。
怖さとは違う。
期待。
緊張。
欲。
もう一度、前へ。
できれば、今度はもっと前へ。
その気持ちが、身体を少し硬くする。
六艇がピットを離れた。
一号艇が内へ向かう。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇、灯。
六号艇。
進入は枠なり。
五コース。
灯は、その位置に少しだけ安堵した。
五コース。
六コースではない。
一つ内。
一つ前。
大きな違いではない。
それでも、灯には少し近く感じた。
起こし。
スリット。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が握る。
四号艇がその内を見ながら残す。
灯は五コースから、その外を見る。
三号艇。
四号艇。
そこに戻る。
そのつもりだった。
けれど、一マークに近づくにつれて、視界の中で別のものが大きくなった。
一号艇が少し流れる。
二号艇の差しが入る。
三号艇が握る。
四号艇が残す。
その外に、自分。
さらに外から六号艇が伸びる。
全部が見えた。
全部が気になった。
今なら、四号艇の外を握れば一艇拾えるかもしれない。
三号艇が流れたら、その後ろに入れるかもしれない。
六号艇より先に行かなければ。
さっき五着を取れた。
なら、次は四着もあるかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、灯の艇は少し大きく流れた。
展示の一マーク。
外へ持ち出しすぎた。
出口で五号艇の艇は伸びない。
六号艇に外から並ばれかける。
二マークでも、灯は少し迷った。
三号艇を見るのか。
四号艇を見るのか。
六号艇を受けるのか。
前を取りに行くのか。
その一瞬の迷いで、差し場は消えた。
展示を終えた灯は、控室に戻るなりノートを開いた。
五号艇。
五コース。
三号艇と四号艇を見る予定。
でも、一号艇の流れ、二号艇の差し、六号艇の外が気になった。
全部見た。
前を見すぎた。
出口で流れた。
二マークで迷った。
灯は、そこでペンを止めた。
さっきの五着が、身体の中に残っている。
それが、力になっているのか。
それとも、邪魔になっているのか。
「焦ってるね」
まどかが言った。
灯は、顔を上げる。
「分かりますか」
「分かるよ。展示で外を見すぎてた」
「はい」
「さっき五着取ったから、もう一艇見たくなった?」
灯は、言葉に詰まった。
その通りだった。
五着を取ったから。
一艇前に置けたから。
もう一艇、と思ってしまった。
「思いました」
灯は小さく答えた。
まどかは責めなかった。
「悪いことじゃないよ」
「でも、崩れました」
「うん。だから順番」
まどかはノートを指した。
「今の風見ちゃんは、まず一艇。もう一艇を見るのは、その一艇を安定して置けるようになってから」
灯は、ノートの端に書いた。
まず一艇。
もう一艇は、まだ早い。
本番が近づく。
灯はピットへ向かいながら、自分の胸の中を落ち着かせようとした。
五着は忘れない。
でも、追いかけすぎない。
今見るのは、三号艇と四号艇。
そして、自分の外から来る六号艇を必要以上に怖がらない。
五コース。
自分の場所。
展示より落ち着いて走る。
そう決めた。
本番。
六艇がピットを離れた。
進入は枠なり。
一号艇。
二号艇。
三号艇。
四号艇。
五号艇、灯。
六号艇。
五コース。
起こし。
スリット。
スタートは悪くなかった。
外の六号艇にも大きく出られていない。
一マークへ向かう。
灯は、三号艇と四号艇を見た。
三号艇が握る。
四号艇がその内を見ている。
その外に自分。
ここ。
灯は、四号艇の外へ艇を向けようとした。
だが、その時、一号艇が少し流れた。
二号艇の差しが入る。
内の水面が詰まる。
三号艇の握りが外へ膨らむ。
四号艇の進路も変わる。
さらに六号艇が外から伸びてくる。
灯の視界に、また全部が入った。
一瞬、迷った。
四号艇を見るのか。
三号艇を見るのか。
六号艇を受けるのか。
前へ握るのか。
内へ落とすのか。
その一瞬が、遅れになった。
艇を向けた時には、四号艇の波が残っていた。
外から六号艇が迫る。
灯は握った。
けれど、握りすぎた。
出口で艇が流れる。
バックストレッチに出た時、前には五艇がいた。
六番手。
胸が沈む。
また、六着。
その言葉が浮かぶ。
灯は、すぐに首を振るように意識を戻した。
まだ終わっていない。
二マーク。
前の四号艇が少し重い。
三号艇も外へ流れている。
灯は内を見た。
入れるかもしれない。
けれど、外から六号艇も来る。
どちらを見る。
迷った。
前の走りなら、五号艇だけを見た。
その前なら、五号艇だけを見て前に出た。
でも今は、見るものが多すぎた。
二マークで艇を落とすのが遅れた。
引き波を踏む。
艇が跳ねる。
出口で止まる。
六号艇にも前へ出られる。
完全に、六番手。
二周目。
灯は追おうとした。
前の六号艇を見た。
だが、距離がある。
三号艇も四号艇も、もう遠い。
一周目の迷いが、そのまま差になって残っている。
二周二マーク。
三周目。
最後まで走った。
けれど、順位は変わらなかった。
ゴール。
六着。
五着のあとに、六着。
灯は、エンジンを止めた瞬間、悔しさよりも先に、呆然としていた。
さっきできたことが、できなかった。
一艇を前に置けた自分が、また最後尾に戻っていた。
控室に戻ると、まどかが待っていた。
灯は、先に言った。
「戻りました」
「うん。おかえり」
「六着でした」
「見てた」
まどかは短く答えた。
灯は、ノートを開いた。
手が、少し重かった。
五号艇。
五コース。
六着。
三号艇と四号艇を見る予定。
一マークで一号艇、二号艇、六号艇も見た。
全部見た。
前を見すぎた。
四号艇への反応が遅れた。
外へ握りすぎた。
出口で流れた。
二マークでも迷った。
前に置く一艇を決めきれなかった。
灯は、そこまで書いて止まった。
悔しい。
それだけでは足りない。
恥ずかしい。
それも少し違う。
一度できたことが、できなかった。
それが一番つらかった。
まどかが隣に座る。
「きつい?」
灯は頷いた。
「はい」
「五着のあとの六着は、きついよね」
「……はい」
「でも、これも書いた方がいい」
灯は、ノートを見る。
「書きたくないです」
思わず、本音が出た。
まどかは、少しだけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「いいね」
灯は顔を上げた。
「いいんですか」
「書きたくない負けが出てきたってことだから」
まどかの声は軽かった。
けれど、灯には重く響いた。
書きたくない負け。
デビュー節の頃は、どれも苦しかった。
でも、何を書けばいいか分からない負けが多かった。
今は違う。
どこで崩れたか分かる。
だからこそ、書くのがつらい。
まどかは続けた。
「さっきの五着、捨てなくていいって言ったでしょ」
「はい」
「この六着も、捨てちゃだめ」
灯は、黙った。
「満足しない。でも、捨てない」
さっきノートに書いた言葉だった。
五着だけに使う言葉ではなかった。
六着にも、使わなければいけない言葉だった。
灯は、ペンを握り直した。
六着。
五着を取ったあと、前を見すぎた。
もう一艇を見ようとした。
でも、まだ一艇を安定して前に置けていない。
順番を間違えた。
灯は、その下にゆっくり書いた。
五着のあとこそ、戻る二艇。
まどかが頷いた。
「それ、大事」
灯は、息を吐いた。
「五着を取れたら、少し進んだ気がしました」
「うん」
「でも、すぐ戻りました」
「戻ったね」
「強くなったわけじゃなかったです」
「うん」
まどかは否定しなかった。
その否定しない優しさが、少しだけ痛かった。
「でも」
まどかは続けた。
「五着を取る前と、今の六着は違うよ」
灯は、顔を上げた。
「違いますか」
「違う」
まどかはモニターを指した。
リプレイが流れている。
一マーク。
灯が迷う。
外へ流れる。
六号艇に出られる。
二マークで遅れる。
はっきり悪いレースだった。
それでも、まどかは言った。
「どこで崩れたか分かるでしょ」
灯は、悔しさを飲み込みながら頷いた。
「はい」
「じゃあ、次に戻れる」
「戻れる……」
「さっき五着を取ったから、前を見たくなった。それで崩れた。なら次は、五着を取ったあとでも二艇に戻る」
灯は、ノートに書いた。
五着を取ったあとでも、二艇に戻る。
その文字を見た時、少しだけ胸が落ち着いた。
失敗が、形になった。
形になれば、次に持っていける。
「風見ちゃん」
「はい」
「今日の六着、悪かったよ」
まどかは言った。
灯は、一瞬息を止めた。
「はい」
「でも、悪いって分かる六着は、ちゃんと使える」
灯は、ノートを見た。
悪い六着。
使える六着。
矛盾しているようで、矛盾していなかった。
六着の中にも、次に使えるものがある。
良かった六着だけではない。
悪かった六着も、原因が見えれば使える。
三島沙耶が言っていた。
感情ではなく、原因で見る。
今、その意味が少しだけ分かった。
「三島さんがいたら、何て言うと思いますか」
灯が聞くと、まどかは少し困ったように笑った。
「私、三島さんじゃないからなあ」
「すみません」
「だから謝らない」
まどかは少し考えてから言った。
「でも、たぶんこう言うんじゃない?」
灯は顔を上げる。
まどかは、わざと少し低い声で言った。
「五着の再現をしようとして、準備が雑になってる」
灯は、思わず黙った。
刺さった。
とても刺さった。
まどかは普段の声に戻る。
「どう?」
「言いそうです」
「でしょ」
灯は、ノートに書いた。
五着の再現をしようとして、準備が雑になった。
その一文は、今日の負けを一番正確に切っている気がした。
五着をもう一度取りたかった。
だから、五着を取った時の感覚を追いかけた。
でも、本当に必要だったのは感覚を追うことではなく、同じ準備をすることだった。
見る二艇を決める。
迷ったら戻る。
一艇だけを見る。
出口を残す。
その順番を守ることだった。
灯は、ノートに最後の一行を書いた。
次は、五着を追わない。
一艇を見る。
書き終えた時、悔しさは消えていなかった。
けれど、ただ重いだけではなくなっていた。
まどかが立ち上がる。
「最終日、まだ一走あるよね」
「はい」
「じゃあ、そこで使おう」
灯は、ノートを見た。
最終日。
もう一走。
今節最後の水面。
そこで、もう一度。
五着を追うのではなく、一艇を見る。
五着という数字ではなく、一艇を前に置く過程へ戻る。
灯は頷いた。
「はい」
控室の外では、夕方の光が水面に落ちていた。
レース場の音は、変わらず続いている。
灯の五着も、灯の六着も、水面は待ってくれない。
次のレース。
次の展示。
次の選手。
次の結果。
すべてが流れていく。
だからこそ、灯はノートに残す。
五着の嬉しさも。
六着に戻った悔しさも。
前を見すぎた失敗も。
順番を間違えたことも。
その全部が、次の水面に繋がるなら。
灯は、もう一度ノートを開き、今日のページの最後に書いた。
五着のあとに、六着。
強くなったわけじゃない。
でも、戻る場所は分かっている。
明日は、もう一度。
一艇だけ前へ。
ペンを置いた時、胸の奥に残っていた悔しさが、少しだけ前を向いた。
五着は、まだ自分のものになっていない。
でも、失ったわけでもない。
もう一度取りにいく。
ただし、今度は数字を追わない。
水面を見る。
一艇を見る。
そこから、もう一度始める。




