表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/60

第7話 初めての5着

三日目の朝。

灯は、控室の隅でノートを開いていた。

昨日の最後の走りのページを、何度も見返す。

六号艇。

六コース。

六着。

結果だけなら、また同じだった。

けれど、そこに書かれた言葉は、デビュー節の頃とは違っていた。

四号艇と五号艇を見る。

一マークで五号艇の後ろを狙う。

波で止まる。

二マークでも五号艇を見る。

内へ入る。

並びかける。

でも、出口で届かない。

最後まで、五号艇を見失わなかった。

でも、前には置けなかった。

灯は、その最後の二行を指でなぞった。

見失わなかった。

でも、前には置けなかった。

悔しかった。

ただ後ろを走って終わったわけではない。

見えていた。

追えていた。

二マークで、ほんの一瞬だけ並びかけた。

けれど、出口で届かなかった。

その差が、今は悔しかった。

六着の悔しさにも、種類がある。

何もできなかった六着。

選べなかった六着。

外へ出された六着。

決めたけど届かなかった六着。

そして昨日の六着は、少し違った。

一艇を見失わなかったのに、前へ置けなかった六着。

灯は、新しいページを開いた。

今日の出走表を見る。

六号艇。

また、六号艇だった。

進入も、おそらく六コース。

もう驚きはなかった。

怖さも消えてはいない。

けれど、その文字を見ただけで身体が固まることは少し減っていた。

六コース。

遠い場所。

怖い場所。

でも、終わりの場所ではない。

外から見えるものがある。

轟朱音が教えてくれた言葉が、ノートの中に残っている。

外は遠い。

でも、見える。

日向まどかの言葉も残っている。

拾える場所にいないと、何も拾えない。

沈まない場所に艇を置く。

そして、三島沙耶の言葉。

迷ったら、二艇に戻る。

灯は、今日の出走表をもう一度見た。

一号艇。

B1。

スタートは安定している。

二号艇。

A2。

差し主体。

三号艇。

B1。

握るタイプ。

四号艇。

A2。

カドなら攻める。

五号艇。

B1。

外寄りから内へ切る癖がある。

六号艇。

風見灯。

灯は、ペンを握った。

見る二艇。

四号艇。

五号艇。

ここまでは、昨日と同じ。

けれど、今日の課題は少し違う。

昨日は、五号艇を見失わなかった。

今日は、その五号艇を前に置かなければならない。

いや、正確には違う。

五号艇を前に置くのではない。

五号艇を、自分の後ろに置く。

灯は、その考えに少しだけ息を詰めた。

今まで、自分はいつも前を追っていた。

誰かを抜くことだけを考えていた。

けれど、一艇を前に置くということは、自分の後ろに一艇を置くということでもある。

追うだけではない。

抜いたあと、残さなければならない。

灯はノートに書いた。

今日の課題。

五号艇を最後まで見る。

入るだけではなく、出口を残す。

出口。

三島が前に言っていた。

差し場に入るだけじゃ足りない。

その先の出口まで取らないと、前には出られない。

灯にとって、それはまだ勝つための言葉ではない。

でも、今は分かる。

五着にも届いていない自分でも、同じだった。

入るだけでは足りない。

出口で止まったら、前には出られない。

「いい顔してるね」

声がして、灯は顔を上げた。

日向まどかだった。

いつものように軽い口調。

けれど、目はノートを見ている。

「いい顔、ですか」

「怖がってるけど、逃げてない顔」

灯は少しだけ困った。

「怖いのは、分かりますか」

「分かるよ」

まどかは当たり前のように言った。

「六コースで怖くない人の方が少ないと思う」

灯はノートを見る。

「今日も六号艇です」

「うん」

「また、六コースだと思います」

「うん」

「でも、今日は……」

言いかけて、灯は言葉を探した。

勝ちに行く。

そう言うには遠い。

三着に絡む。

それもまだ遠い。

でも、ただ走るだけではない。

「一艇、前に置きたいです」

まどかは、少しだけ笑った。

「いいね」

灯はノートをまどかに向けた。

「今日は、入ることより出口を残すって書きました」

まどかはそれを読んで、ゆっくり頷いた。

「かなり大事」

「昨日、内に入ろうとして、出口で止まったので」

「うん。見てた」

「内へ入るだけじゃ、前には出られないんですね」

「そう」

まどかは、少し真面目な顔になった。

「内に入っただけで満足すると、引き波で止まる。出口が残ってないと、前の艇の後ろにまた戻る」

灯は、ペンを握り直した。

「出口を残す」

「あと、焦らないこと」

「焦らない……」

「一艇前に置けそうになると、たぶん焦るよ」

灯は顔を上げた。

「抜けそうだからですか」

「そう。抜けそうって思った瞬間に、深く入りすぎたり、握りすぎたり、艇が止まったりする」

まどかは軽く肩をすくめた。

「私もよくやる」

灯は少しだけ笑った。

「日向さんでもですか」

「やるよ。今でも」

まどかは笑ったまま言った。

「でも、焦ったって分かれば次に直せる。分からないまま沈む方が怖い」

灯はその言葉を書いた。

焦ったら、艇が止まる。

分かれば、次に直せる。

まどかは、ノートを見ながら言った。

「今日、五着を取れるかは分からないよ」

「はい」

「でも、五着を取りにいく準備はできる」

灯は頷いた。

その言葉が、今の自分にはちょうどよかった。

五着を取れるかどうかは、水面に出なければ分からない。

相手もいる。

風もある。

波もある。

自分の艇の動きも、完全には読めない。

でも、準備はできる。

見る二艇を決める。

五号艇を見失わない。

入るだけでなく、出口を残す。

そこまでは、自分で決められる。

展示航走が始まった。

灯は六号艇に乗り込む。

ピットを離れる前、胸はやはり硬かった。

怖さは消えない。

けれど、今日は怖さの奥に、はっきりしたものがあった。

五号艇。

出口。

一艇だけ前へ。

六艇がピットを離れた。

進入は枠なり。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

六号艇、灯。

六コース。

大外。

灯は、外から水面を見た。

全部が見える。

一号艇の起こし。

二号艇の差し構え。

三号艇の握る気配。

四号艇のカドの角度。

五号艇の艇の向き。

全部が視界に入る。

でも、戻る。

四号艇。

五号艇。

今日の灯の水面は、そこにある。

展示の一マーク。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇がカドから攻める。

五号艇は、その内側を見ながら切り込む。

昨日と似た形だった。

灯は、五号艇の後ろを見た。

入れそうに見える。

けれど、昨日はそこで止まった。

五号艇の引き波に乗り、出口で伸びなかった。

今日は、深く入りすぎない。

内だけを見ない。

出口を残す。

灯は艇を向ける。

展示では、まだ前には出られない。

けれど、昨日より外に残した分、艇が完全には止まらなかった。

五号艇の後ろにつく。

届かない。

でも、追える。

二マーク。

五号艇が少し外へ膨らむ。

灯は内を見た。

そこへ落とす。

艇が少し跳ねる。

でも、昨日ほど止まらない。

出口で、ほんの少しだけ前へ向いた。

展示が終わり、控室へ戻る。

灯はすぐにノートを開いた。

展示。

四号艇、攻める。

五号艇、内へ切る。

深く入らない。

出口を残す。

一マークでは届かない。

二マークで少し近づく。

昨日より、艇は止まっていない。

書きながら、灯は自分の手が少し震えていることに気づいた。

怖さではなかった。

期待に近い。

けれど、期待しすぎると焦る。

灯は、その下に大きく書いた。

焦らない。

出口を残す。

本番の時間が近づく。

係員の声が響く。

灯はノートを閉じた。

日向が近づいてくる。

「風見ちゃん」

「はい」

「今日、五着を取れたら嬉しいと思う」

灯は、少し戸惑いながら頷いた。

「はい」

「でも、五着を取りにいこうとして全部壊さないこと」

「はい」

「一艇だけ。五号艇だけ。最後まで見る」

灯は、息を吸った。

「五号艇だけ」

「そう」

まどかは軽く手を上げた。

「行ってらっしゃい」

灯は、深く頷いた。

「行ってきます」

本番。

六艇がピットを離れる。

空気が変わる。

展示とは違う。

本番の水面は、いつも少し速い。

音が重い。

艇の動きが鋭い。

前の艇の圧が強い。

進入は枠なり。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

六号艇、灯。

大外。

六コース。

起こし。

エンジン音が変わる。

灯はスリットを見た。

遅れてはいない。

伸びているわけでもない。

けれど、置いていかれてもいない。

内の艇が一マークへ向かう。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

全部が見える。

全部が気になる。

でも、戻る。

四号艇。

五号艇。

五号艇を、最後まで見る。

一マーク。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇がカドから攻める。

五号艇が内へ切る。

灯は、その後ろを見た。

ここ。

昨日より少し早く艇を向ける。

でも、深く入りすぎない。

五号艇の内だけを取りに行かない。

五号艇の後ろ。

そこから出口を残す。

波が来る。

四号艇の引き波。

五号艇の引き波。

艇が少し跳ねる。

灯の身体が固まりかけた。

でも、ハンドルを戻しすぎない。

握りすぎない。

出口。

出口を残す。

バックストレッチ。

灯はまだ六番手だった。

前に五号艇がいる。

半艇身以上、前。

届いていない。

だが、昨日とは違った。

艇が死んでいない。

五号艇の後ろを追える。

灯は、すぐに視線を二マークへ向けた。

一マークで前に出られなかった。

なら、二マーク。

五号艇だけを見る。

五号艇は一マークで内へ切った分、出口で少し重かった。

二マークへ向かう時、五号艇の艇が少し外へ膨らむ。

灯の目に、内の水面が見えた。

広くはない。

きれいでもない。

引き波も残っている。

でも、昨日よりはっきり見えた。

灯は迷わなかった。

五号艇。

そこだけ。

艇を落とす。

ただ内へ突っ込むのではない。

出口を残す。

灯はハンドルを切った。

艇が内へ向く。

引き波を踏む。

一瞬、艇が跳ねた。

胸が冷たくなる。

また止まる。

そう思った。

けれど、止まらなかった。

出口で、艇が前へ向いた。

五号艇の内に入る。

並ぶ。

半艇身。

ほんのわずか。

けれど、並んだ。

バックストレッチ。

灯の艇が、五号艇の前に出た。

一艇。

前に置いた。

その瞬間、灯の頭が真っ白になりかけた。

前に出た。

六番手ではない。

後ろに一艇いる。

五号艇が、自分の後ろにいる。

怖い。

今までとは違う怖さだった。

追うだけではない。

追われる。

抜かれたら、また六着。

灯は思わず前を見た。

四号艇。

三号艇。

もっと前。

もっと上。

行けるのか。

いや、違う。

今は、五号艇。

まず、五号艇を後ろに置く。

日向の声が、胸の奥で響いた。

五着を取りにいこうとして全部壊さないこと。

一艇だけ。

五号艇だけ。

二周一マーク。

五号艇が内を狙ってくる。

灯は、焦りかけた。

前へ行きたい。

でも、後ろを失いたくない。

どこを見る。

何を見る。

灯は、一度だけ深く息を吸った。

五号艇。

五号艇を見失わない。

灯は艇を返した。

大きく膨らまない。

内を開けすぎない。

けれど、出口で止めない。

五号艇の差しが入ってくる。

一瞬、並ばれる。

だが、出口で灯の艇が残った。

五号艇は届かない。

二周二マーク。

今度は五号艇が外から被せる気配を見せた。

灯は怖かった。

外から来られる。

押される。

また最後尾に戻される。

でも、轟朱音の言葉が浮かんだ。

全部見えるからって、全部取りに行くわけじゃない。

灯は、前の三号艇を追いすぎなかった。

五号艇を残す。

それだけに絞った。

出口を残す。

艇を止めない。

五号艇との差は、わずかに保たれた。

三周目。

実況は前の三艇を追っている。

灯の名前は、ほとんど呼ばれない。

けれど、灯にはそれどころではなかった。

五番手。

初めての五番手。

六ではない場所。

そこを守るだけで、胸が苦しい。

最後の一マーク。

五号艇が近づく。

灯は出口を残す。

最後の二マーク。

五号艇が内を狙う。

灯は、ほんの少しだけ早く艇を返した。

深く入りすぎない。

外へ流れすぎない。

出口。

出口だけは残す。

艇が跳ねる。

でも、止まらない。

五号艇の艇先が近づく。

並ばれる。

灯は、歯を食いしばった。

ゴールラインが近づく。

前には四艇。

後ろに一艇。

その形のまま、艇が走る。

ゴール。

灯は、エンジン音の中で、自分の順位をすぐには信じられなかった。

モニターに結果が出る。

一着、一号艇。

二着、二号艇。

三着、四号艇。

四着、三号艇。

五着、六号艇、風見灯。

六着、五号艇。

五着。

灯は、画面を見つめたまま動けなかった。

六ではない。

五。

たった一つ違うだけ。

一つだけ、前。

それなのに、その数字が胸に刺さるほど重かった。

艇を降りても、身体の震えが止まらなかった。

勝っていない。

舟券にも絡んでいない。

場内が大きく沸いたわけでもない。

誰かが灯の名前を特別に叫んだわけでもない。

それでも、灯には分かっていた。

初めて、一艇を前に置いた。

控室に戻ると、日向まどかが待っていた。

「おかえり」

灯は、少しだけ息を乱しながら頭を下げた。

「ただいま、戻りました」

まどかは笑った。

「五着、おめでとう」

その言葉を聞いた瞬間、灯の胸が詰まった。

「でも……」

声がかすれた。

「勝ってないです」

「うん。勝ってない」

まどかは頷いた。

「舟券にも絡んでないです」

「うん。絡んでない」

「誰かに褒められるような着じゃ……」

「でも、六着じゃなかった」

まどかの言葉は、静かだった。

灯は、何も言えなくなった。

六着じゃなかった。

ただ、それだけ。

けれど、そのそれだけが、今の灯には大きすぎた。

まどかは続けた。

「六着、ひとつ減ったね」

灯は、唇を結んだ。

泣きそうになるのを、どうにかこらえた。

泣くような成績ではない。

そう思う自分もいる。

でも、こみ上げてくるものは止められなかった。

全走六着だった。

外へ出されて、届かなくて、何もできなかった。

それでも、ノートを書いた。

見る二艇を決めた。

日向に教わった。

轟を見た。

遠い名前も聞いた。

でも最後に戻ったのは、一艇だけ前へ、という小さな目標だった。

その小さな目標に、ようやく届いた。

灯は、控室の隅に座り、ノートを開いた。

手が少し震えていた。

でも、書かなければならなかった。

六号艇。

六コース。

五着。

四号艇と五号艇を見る。

五号艇を最後まで見失わなかった。

一マークでは前に出られなかった。

でも、出口を残した。

二マークで五号艇の内へ入る。

引き波で跳ねた。

でも、艇は止まらなかった。

初めて、一艇だけ前に置けた。

そこまで書いて、灯は手を止めた。

そして、少し迷ってから、もう一行を書いた。

六着ではなかった。

その文字を見た瞬間、また胸が熱くなった。

日向が隣に座る。

「書けた?」

灯は頷いた。

「はい」

「見せて」

灯はノートを渡した。

まどかは読んで、静かに頷いた。

「いいね」

「いいんでしょうか」

「いいよ」

まどかはノートを返した。

「勝ってない。絡んでない。でも、今日のこれはちゃんと残していい」

灯は、ノートを受け取った。

「残していい……」

「うん」

まどかはモニターを見た。

「B2を抜ける時って、こういう一走が大事だと思う」

「五着でも、ですか」

「五着でも」

まどかははっきり言った。

「もちろん、満足はしない。でも、捨てない」

灯は、その言葉をノートに書いた。

満足しない。

でも、捨てない。

まどかは笑った。

「それも書くんだ」

「はい」

「いいと思う」

控室の外では、次のレースの準備が始まっている。

水面は、もう次の六艇を待っていた。

灯の五着など、場全体から見れば小さな出来事だった。

すぐに次のレースが始まる。

すぐに別の結果が表示される。

誰かが勝ち、誰かが負ける。

自分の五着は、その中に埋もれていく。

それでも、灯のノートには残った。

初めて、一艇を前に置けた。

六着ではなかった。

その五着は、風見灯にとって、初めて自分で掴んだ着順だった。

灯は、窓の外の水面を見た。

六コースは、まだ怖い。

まだ遠い。

まだ、自分には難しい。

でも、もう終わりの場所ではない。

外から見て。

一艇を決めて。

出口を残せば。

ほんの少しだけ、前へ行ける。

灯は、ノートを閉じた。

胸の奥に残った震えは、まだ消えていない。

それは怖さだけではなかった。

初めて、次もまた水面に出たいと思える震えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ