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第5話 6着を減らす人

開催初日の後半。

灯は、もう一度走った。

六号艇。

六コース。

結果は、また六着だった。

一走目よりも、見る艇は絞れていた。

四号艇。

五号艇。

迷いそうになった時、その二艇に戻ることはできた。

けれど、一マークで艇を置くのが遅れた。

二マークでも、前の艇に届きかけて、届かなかった。

成績表に残ったのは、また六という数字。

六着。

六着。

この開催でも、最初に並んだのは同じ数字だった。

灯は控室の隅でノートを開いていた。

一走目。

自分で決めた六着。

二走目。

戻る二艇は見えた。

でも、艇を置くのが遅い。

一艇だけ前に置けない。

そこまで書いて、ペンが止まる。

前よりは、少しだけ分かる。

でも、数字は変わらない。

そのことが、胸の奥で静かに重かった。

六着の中身は変わっている。

三島沙耶も、日向まどかも、そう言うだろう。

けれど、成績表は優しくない。

六は、六だった。

「また書いてる」

日向まどかの声がした。

灯が顔を上げると、まどかが新聞を片手に立っていた。

今日は五号艇のカポックを手にしている。

「日向さん、出走ですか」

「うん。次」

まどかは軽く頷いた。

灯はモニターを見た。

出走表が映っている。

五号艇。

日向まどか。

級別、B1。

一号艇はB1。

二号艇はA2。

三号艇はB1。

四号艇はA2。

六号艇はB2。

決して楽な番組ではなかった。

まどかは、その出走表を見ても、特に顔色を変えなかった。

灯は、少し迷ってから聞いた。

「日向さんは、今日、何を見るんですか」

まどかは少しだけ目を細めた。

「今日は、四号艇と六号艇かな」

「六号艇も見るんですか」

灯は思わず聞き返した。

外から来る艇。

自分がいつもいる場所にいる艇。

そこを見る、という感覚がまだ薄かった。

まどかは頷いた。

「見るよ。五コースって、前だけ見てたら外から飲まれる時があるから」

「外から……」

「四号艇が攻める。私はその外にいる。でも、そのさらに外から六号艇が来る。そこを見てないと、前を拾うどころか、自分が沈む」

灯は、ノートを開いた。

五コース。

前を見る。

でも、外も見る。

まどかは、その文字を見て少し笑った。

「風見ちゃんは、まだ全部やらなくていいよ」

「はい」

「でも、いずれ必要になる。前に出るってことは、後ろから来る艇もできるってことだから」

灯は、言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。

今の自分は、ずっと後ろだった。

追う側。

届かない側。

前の艇を見るだけで精一杯だった。

けれど、五着になれば、後ろに六着がいる。

四着になれば、後ろに五着と六着がいる。

着を上げるということは、追われる場所に少しずつ近づくということでもある。

まどかは、出走表を見ながら言った。

「今日は勝つの、ちょっと難しいかな」

灯は顔を上げた。

あまりにも自然に言ったので、一瞬、聞き間違えたかと思った。

「勝つのが、ですか」

「うん」

まどかは軽く答えた。

「二号艇も四号艇も強いし、一号艇も悪くない。私が全部飲み込んで一着、っていう番組じゃない」

「それでも、勝ちに行くんですよね」

灯が聞くと、まどかは少しだけ笑った。

「もちろん」

その笑いは、軽かった。

けれど、逃げてはいなかった。

「ただ、勝ちに行く形って、一つじゃないよ」

灯は黙って聞く。

「一マークで全部取りに行くのも勝ちに行く形。二マークで一艇拾って、次の展開を待つのも勝ちに行く形。六着を取らない場所に艇を置くのも、今の私には勝ちに行く形」

「六着を取らない場所……」

「B1ってね」

まどかは新聞を畳んだ。

「全部勝てるわけじゃないんだよ」

その言葉は、静かだった。

「勝てないレースで、どう沈まないか。そこも大事」

灯のペンが止まる。

勝てないレースで、沈まない。

それは、月城澪のような水面を動かす強さとは違う。

轟朱音のように大外を選ぶ強さとも違う。

三島沙耶のように勝ちに行って負けを書く強さとも違う。

もっと近い。

もっと現実的な強さだった。

「見てて」

まどかは言った。

「派手じゃないと思うけど」

「はい」

「派手じゃなくても、六着を減らすレースはできるから」

そう言って、まどかはピットへ向かった。

灯は、その背中を見送った。

B1。

少し前までB2だった人。

強いわけじゃない、と自分で言った人。

けれど、B2を抜けるために何を減らすべきかを知っている人。

灯はノートに書いた。

日向まどか。

B1。

五号艇。

見る艇。

四号艇と六号艇。

勝てないレースで、沈まない。

展示航走が始まった。

六艇がピットを離れる。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇、日向まどか。

六号艇。

進入は枠なり。

三対三。

まどかは五コース。

轟朱音のように外を選びにいくわけではない。

五号艇として、五コースに入る。

無理に内へ動くこともない。

大外へ引くこともない。

与えられた位置で、静かに構える。

灯はモニターを見つめた。

一マークの展示。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇がカドから攻める。

まどかは、その外。

六号艇がさらに外から来る。

四号艇の攻めは鋭い。

だが、内を完全に飲み込むほどではない。

六号艇は外から伸ばしてくる。

まどかは、その間で無理をしなかった。

深く入らない。

外へ張りすぎない。

波の一番重いところを避けるように、艇を置く。

一マークでは、大きく前へ出たわけではない。

むしろ、少し遅れて見えた。

灯は首を傾げた。

「行かないんだ……」

近くにいたまどかの整備班の一人が、短く言った。

「まどかは、無理に行かないよ」

灯は振り返った。

その人はモニターを見たまま続けた。

「行っても沈むだけの場所は、行かない」

轟朱音も、同じようなことを言っていた。

行かないと決める。

それも選択。

けれど、まどかのそれは轟とは少し違う。

轟は外から崩れた場所を拾うために行かなかった。

まどかは、沈まないために行かなかった。

灯はノートに書いた。

無理に行かない。

沈まない場所に艇を置く。

展示の二マーク。

前の艇が少し流れる。

三号艇が外へ膨らむ。

四号艇は攻めた分だけ出口が重い。

六号艇は外から来るが、少し遠い。

その時、まどかの艇が内へ向いた。

鋭い一撃ではない。

でも、迷いがない。

三号艇の外に残るのではなく、その内へ差す。

四号艇の波を受けすぎない位置。

六号艇に外から被せられない位置。

そこに艇を置く。

展示を見ながら、灯はようやく気づいた。

まどかは、勝つために全部を取りに行っているわけではない。

でも、負ける場所には艇を置いていない。

展示が終わり、まどかが控室へ戻ってきた。

灯は思わず近づいた。

「日向さん」

「なに?」

「今の展示、二マークで……三号艇を見てたんですか」

「見てたよ」

「でも、四号艇と六号艇を見るって」

「見るよ」

まどかは頷いた。

「四号艇が攻めたら、三号艇がどうなるかを見る。六号艇が外から来るなら、自分が外に残りすぎると飲まれる。だから、三号艇の内に置いた方がよかった」

灯は、少し混乱した。

四号艇と六号艇を見る。

でも、実際に差したのは三号艇の内。

見る艇と、抜く艇が違う。

そのことが、少し難しかった。

まどかは灯の顔を見て、笑った。

「難しい顔してる」

「すみません」

「いいよ。風見ちゃんは、今はもっと単純でいい」

まどかは、自分のカポックを整えながら言った。

「私は四号艇と六号艇を見る。四号艇が攻めて、六号艇が外から来る。その間で沈まない場所を探す。結果として、前の艇を一つ拾う。そんな感じ」

灯はノートに書いた。

見る艇。

四号艇と六号艇。

拾う艇。

三号艇。

沈まない場所を探す。

「沈まない場所……」

灯が呟くと、まどかは少しだけ真面目な顔になった。

「風見ちゃん」

「はい」

「六着って、最後にいることだけじゃないよ」

灯は顔を上げた。

「え?」

「沈んだ結果、六着になることもある。何もできずに六着になることもある。選べなくて六着になることもある」

灯の胸に、デビュー節の記憶が戻った。

弾かれた負け。

選べなかった負け。

外へ出された負け。

決めたけど届かなかった負け。

全部、六着。

でも、全部違う六着だった。

まどかは続けた。

「私はね、まず沈まない場所を探してきた」

「沈まない場所を……」

「そこに艇を置いておけば、誰かが流れた時に一艇拾えることがある。毎回じゃないよ。でも、拾える場所にいないと、何も拾えない」

灯は、その言葉をノートに書いた。

拾える場所にいないと、何も拾えない。

本番の時間が来た。

まどかはピットへ向かう。

灯は、モニターの前に座り直した。

今度は、自分のレースではない。

けれど、見なければならない水面だった。

五号艇。

日向まどか。

B1。

六着を減らす人。

本番。

六艇がピットを離れた。

進入は枠なり。

一号艇。

二号艇。

三号艇。

四号艇。

五号艇、日向まどか。

六号艇。

五コース。

起こし。

エンジン音が変わる。

スリットへ向かう。

一号艇は遅れない。

二号艇も悪くない。

三号艇が少しだけ覗く。

四号艇はカドから攻める気配。

まどかは、その外で大きく遅れない。

だが、伸びているわけでもない。

六号艇が外から少し勢いをつけてくる。

灯は、思わず五号艇だけを見た。

まどかは前だけを見ていない。

四号艇の角度。

六号艇の伸び。

その間に自分の艇を置く場所を探している。

一マーク。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇がカドから攻める。

まどかは、その外。

六号艇がさらに外から被せようとする。

灯は一瞬、まどかが握って攻めるのかと思った。

けれど、まどかは無理に内へ突っ込まなかった。

外へ大きく張ることもしない。

四号艇の波をまともに受けない場所。

六号艇に外から飲まれない場所。

そこに艇を置く。

一マークの出口。

まどかは前には出ていない。

四番手か、五番手。

派手な展開ではなかった。

実況の声も、一号艇と二号艇、四号艇の争いを中心に伝えている。

日向まどかの名前は、ほとんど出ない。

灯は少しだけ戸惑った。

これが、六着を減らす走り。

本当にそうなのか。

勝ちに行っているようには、見えにくい。

けれど、まどかの艇は止まっていなかった。

外に流れすぎていない。

六号艇にも飲まれていない。

前の三号艇を、まだ見ている。

二マーク。

三号艇が外へ少し流れる。

四号艇は一マークで攻めた分、出口が重い。

二号艇が差し返しを狙い、内側が詰まる。

その瞬間、まどかが動いた。

派手ではない。

鋭すぎるわけでもない。

でも、迷いがない。

五号艇の艇先が、三号艇の内へ入る。

四号艇の波を避け、六号艇の外攻めを受けない場所へ落とす。

出口で艇を止めない。

バックストレッチ。

まどかが一艇を拾った。

三号艇の前へ出る。

四番手。

灯は、思わず身を乗り出した。

「上がった……」

まどかは、勝っていない。

舟券にも絡んでいない。

それでも、六着ではない場所へ上がった。

二周一マーク。

前では一号艇と二号艇が競っている。

三着争いには四号艇。

まどかは四番手。

三着までは少し遠い。

後ろから三号艇と六号艇が追ってくる。

灯は、今度はまどかの後ろを見た。

まどかは、追うだけではなかった。

守っている。

三号艇に差されないように、出口を残す。

六号艇に外から被せられないように、艇の向きを早く作る。

前を見る。

後ろも見る。

自分の艇を止めない。

派手ではない。

でも、崩れない。

二周二マーク。

三号艇が内を狙う。

まどかは少しだけ外へ構え、出口で前へ出る。

三号艇は届かない。

六号艇も外から迫るが、届かない。

三周目。

まどかは三着を無理に取りに行かなかった。

もちろん、隙があれば狙う構えはある。

けれど、届かない場所へ無理に突っ込んで、四着を失うような走りはしなかった。

最後の二マーク。

三号艇がもう一度迫る。

まどかは落ち着いて艇を返す。

出口で残す。

ゴール。

一着、一号艇。

二着、二号艇。

三着、四号艇。

四着、日向まどか。

五着、三号艇。

六着、六号艇。

五号艇、日向まどか。

五コースから四着。

控室に、大きな歓声はなかった。

場内も、前の三艇の結果に意識が向いている。

舟券に絡んだわけではない。

勝ったわけでもない。

けれど灯は、モニターから目を離せなかった。

四着。

勝っていない。

でも、六着ではない。

ただ負けているわけでもない。

灯はノートを開いた。

日向まどか。

B1。

五号艇。

五コース。

四号艇と六号艇を見る。

一マークで無理に入らない。

沈まない場所に艇を置く。

二マークで三号艇を拾う。

結果、四着。

そこまで書いて、灯は手を止めた。

そして、その下にもう一行を書いた。

派手ではない。

でも、崩れない。

しばらくして、まどかが控室へ戻ってきた。

息を整えながら、ヘルメットを置く。

大きく喜ぶ様子はない。

悔しそうでもある。

けれど、落ち込んではいなかった。

灯は、思わず立ち上がった。

「日向さん」

「うん?」

「四着でした」

まどかは少し笑った。

「うん。四着だったね」

「悔しいですか」

聞いた瞬間、灯は少しだけ後悔した。

また失礼なことを聞いたかもしれない。

けれど、まどかは気にした様子もなく答えた。

「悔しいよ」

その答えは、あっさりしていた。

「三着、取れそうでしたか」

「うーん。遠かったね」

まどかはモニターのリプレイを見た。

「一マークで四号艇の攻めに乗って、もう少し出口が残れば三着争いまで近かった。でも、あそこで無理したら多分六着まであった」

灯は、目を見開いた。

「六着まで……」

「あるよ」

まどかは頷いた。

「五コースって、前を取りに行って失敗すると、外からも内からも置いていかれることがあるから」

灯は、自分の六コースの記憶を思い出した。

一つ入ろうとして、波に弾かれる。

決めきれず、外へ流れる。

届かないまま、後ろに残る。

まどかは続けた。

「今日は、三着を取りに行ったけど、無理に全部は取りに行かなかった」

「それは、勝ちに行ってないわけじゃないんですよね」

灯が言うと、まどかは少し嬉しそうに笑った。

「分かってきたじゃん」

灯は少しだけ頬を緩めた。

「日向さんのレース、派手じゃなかったです」

言ってから、灯は固まった。

また余計なことを言った。

だが、まどかは声を上げて笑った。

「うん。派手じゃないよ」

「すみません」

「いいって。実際、派手じゃないし」

まどかはノートを覗いた。

「でも、崩れなかったって書いてある」

灯は頷いた。

「はい。ずっと、崩れませんでした」

まどかは、少しだけ真面目な顔になった。

「そこが大事」

灯はノートにペンを置いた。

「B2を抜ける時に必要なのは、毎回勝つ力じゃないと思う」

まどかは言った。

「まず、沈みっぱなしにならない力」

灯は、その言葉をすぐに書いた。

沈みっぱなしにならない力。

「勝てるレースは勝ちに行くよ」

まどかは続けた。

「でも、勝てないレースで六着ばかり取ってたら、ずっと上がれない」

灯は黙って聞いた。

「四着でも、五着でも、意味がある時はある。もちろん、満足しちゃだめだけどね」

「満足しちゃだめ」

「うん。四着は三着じゃない。五着は四着じゃない。そこは悔しがる。でも、六着じゃなかった意味も捨てない」

灯は、まどかを見た。

その言葉は、今の灯にとって、とても現実的だった。

六着じゃなかった意味。

灯は、まだそれを手にしていない。

けれど、まどかの四着を見て、少し分かった気がした。

勝っていないレースにも、残るものがある。

舟券に絡んでいない着順にも、次につながる意味がある。

ただし、それは逃げではない。

勝てないと決めて諦めることではない。

沈まない場所に艇を置き、拾えるものを拾い、次の着を残すこと。

それも、プロの水面だった。

「風見ちゃん」

「はい」

「次に自分が走る時、いきなり私みたいに前も後ろも全部見ようとしなくていいよ」

まどかは言った。

「はい」

「でも、一つだけ覚えておいて」

灯はペンを構えた。

まどかは少し笑う。

「書く準備早いなあ」

「すみません」

「だから謝らない」

まどかは、モニターに映るリプレイを見ながら言った。

「拾える場所にいないと、何も拾えない」

灯は、丁寧に書いた。

拾える場所にいないと、何も拾えない。

その言葉の下に、もう一行を書く。

沈まない場所に艇を置く。

まどかは、それを見て頷いた。

「それでいい」

灯は、ノートを見た。

艇王。

女帝。

轟朱音。

三島沙耶。

月城澪。

遠い名前がいくつも並んでいる。

その中に、日向まどかの名前もある。

B1。

五号艇。

五コース。

四着。

派手ではない。

でも、崩れない。

灯は、ようやく気づいた。

日向まどかは、遠い頂点を見せる人ではない。

灯のすぐ前にいる人だった。

六着を減らすという現実を、実際に水面で見せてくれる人だった。

月城澪の水面は、まだ遠すぎる。

轟朱音の大外も、まだ真似できない。

艇王と女帝の名前は、形すら見えない。

けれど、日向まどかの四着は、灯のすぐ前にある。

見えないほど遠い水面ではない。

届かないと決めつけていい水面でもない。

次に自分が見るべき水面だった。

灯は、最後に一行を書いた。

まず、沈まないこと。

六着を、減らすこと。

書き終えて、灯は窓の外を見た。

水面には、次のレースの準備が始まっていた。

誰かが勝ちに行く。

誰かが着を拾いに行く。

誰かが外を選ぶ。

誰かが内を守る。

そして自分は、まだ六着を減らすところにいる。

それは小さい。

地味で、目立たない。

けれど、もう灯には分かっていた。

その小さな一艇を前に置けなければ、三着の水面にも、勝つ水面にも、きっと届かない。

灯はノートを閉じた。

次の自分の出走まで、まだ少し時間がある。

その間に、もう一度だけ日向のレースを書き直そうと思った。

派手ではない。

でも、崩れない。

勝っていない。

でも、ただ負けているわけではない。

六着を減らす人。

その水面を、今の灯は忘れたくなかった。

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