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第4話 まだ見えない水面

轟朱音がピットへ戻ってきたあとも、灯はしばらくノートから顔を上げられなかった。

五号艇。

進入は六コース。

自分から大外。

一マークでは無理に入らない。

二マークで内の崩れを拾う。

六コースから二着。

書いた文字を、何度も見返す。

結果だけを見れば、二着。

それは確かに強い結果だった。

けれど、灯の中に残っているのは、順位だけではなかった。

轟朱音は、外を選んだ。

自分が出され続けた場所を、自分から選んだ。

そして、そこから前を見た。

一マークで届かなくても終わらない。

二マークで内の艇が崩れるのを逃さない。

外から全部を見て、全部を取りに行かず、行かない場所を決める。

灯は、ノートの端にもう一度書いた。

六コースは、終わりの場所ではない。

外から見えるものがある。

ペン先が、そこで止まった。

その文字は、今の灯にはとても大きかった。

デビュー節の六コースは、怖い場所だった。

出される場所だった。

前に届かない場所だった。

何もできずに終わる場所だった。

けれど、轟は違った。

同じ六コースにいるのに、見ているものが違った。

立っている意味が違った。

灯は、まだ外を武器にはできない。

それは分かっている。

日向まどかにも言われた。

真似をしてはいけない。

今の自分が轟と同じことをすれば、ただ遠くなるだけ。

それでも、知ってしまった。

外は、ただ負ける場所ではない。

その事実だけで、灯の中の水面が少しだけ変わった気がした。

「まだ書いてる」

横から声がした。

日向まどかだった。

灯は顔を上げる。

「すみません」

「謝らない」

まどかはいつものように軽く言った。

「でも、刺さったんだね」

灯は小さく頷いた。

「はい」

「轟さん、外から見るの上手いからね」

「日向さんから見ても、すごいんですか」

「すごいよ」

まどかは迷わず答えた。

「五号艇でわざわざ六コースを選んで、ちゃんと二着まで持ってくるんだから。普通はできない」

灯は、ノートを見る。

「普通は、できない……」

「うん。だから真似しちゃだめ」

まどかは少し笑った。

「そこは大事」

灯も少しだけ笑った。

「はい。分かってます」

「ならよし」

まどかは隣に座り、モニターへ目を向けた。

そこでは、轟のレースのリプレイが流れていた。

一マーク。

轟は大外から伸びる。

けれど、無理に入らない。

四号艇と六号艇の波が重なる外を回り、艇を止めない。

二マーク。

前の艇が詰まる。

その瞬間、轟の艇が内へ向く。

灯は、もう一度息を止めた。

分かっていて見ても、速い。

ただ待っていたわけではない。

ただ拾ったわけでもない。

行かない場所を決めていたから、次に入る場所が見えていた。

「行かないと決める」

灯は小さく呟いた。

まどかがこちらを見る。

「轟さんに言われた?」

「はい」

「それも大事だね」

まどかは頷いた。

「特に外は、全部行きたくなるから」

灯は、その言葉に胸を突かれた。

全部見える。

だから、全部気になる。

全部気になるから、全部取りに行きたくなる。

けれど、それでは何も選べない。

轟は、全部見た上で、行かない場所を決めていた。

灯は、ノートに書き足した。

外は、全部見える。

だからこそ、行かない場所を決める。

その時だった。

控室の奥から、別の選手たちの声が聞こえた。

「轟、今の二マークよく拾ったな」

「外からあれ残せるのは、さすがA2だよ」

「一マークで無理しなかったのが正解だな」

灯は、ペンを止めた。

自分が見たものを、他の選手たちも同じように見ている。

それが少し不思議だった。

けれど、次の言葉で、灯の意識はさらに引き寄せられた。

「でも、あれでも上のクラスじゃ簡単には通らないんだろうな」

「もっと上の水面なら、あの外は締められる」

上のクラス。

その言葉だけで、控室の空気が少し遠くなったように感じた。

灯にとって、上のクラスはまだ画面の向こうの世界だった。

養成所で聞いた。

ニュースで見た。

支部の先輩たちが話していた。

けれど、自分がそこに立つ想像など、まだできない。

同じプロでも、遠すぎる水面。

その名前のない高さが、何気ない会話の中に出てくる。

選手の一人が、新聞を畳みながら言った。

「艇王なら、あの二マークの前に出口を消すだろうな」

「黒羽宗一郎?」

「ああ。あの人は外を見てから締めるんじゃない。外が来る前に、来られない形にする」

灯は、顔を上げた。

黒羽宗一郎。

その名前は、聞いたことがあった。

艇王。

SGの頂点に立つ男。

水面を読むという言葉では足りない選手。

勝つべきレースで勝ち、相手の勝ち筋を一つずつ消していく選手。

けれど、灯にとっては、あまりに遠い名前だった。

黒羽宗一郎。

艇王。

灯は、ノートの余白にその名前を書いた。

書いただけで、ページの上が急に重くなった気がした。

轟朱音の大外は、灯には遠すぎた。

六コースから二着。

それだけでも、自分とはまったく違う水面だった。

その轟の外を、来る前に消す人がいる。

外から見て、拾う。

その前に、拾わせない。

灯には、まだ想像もできなかった。

「艇王って、そんなにすごいんですか」

思わず、灯はまどかに聞いていた。

まどかは、少し目を細めた。

「すごいよ」

短い答えだった。

「私は一緒に走ったことないけど、映像だけでも分かる。あの人、相手が何かする前に、その形を消してる時がある」

「何かする前に……」

「うん。来てから対応するんじゃなくて、来られない水面にしてる」

灯は、ノートを見る。

来られない水面。

その言葉が、黒羽宗一郎の名前の横に浮かぶ。

水面を見る。

水面を動かす。

外から拾う。

そして、来られない水面にする。

段階が違う。

世界が違う。

灯は、ペンを握る手に力を入れた。

控室の奥では、まだ会話が続いていた。

「女子なら天堂朱里もそうだろ」

「女帝か」

「月城もセンターは強いけど、天堂はまた別だよな」

「月城は水面を動かす。天堂は相手に選ばせない感じがある」

灯の胸が、また小さく鳴った。

天堂朱里。

女帝。

女子レーサーの頂点。

その名前も、知っている。

けれど、知っているだけだった。

雑誌で見た。

レース映像で見た。

支部の先輩が話していた。

女子レーサーの中で、特別な存在。

強い、という言葉では足りない人。

月城澪の四カドも、灯には遠すぎた。

センターから水面を動かして勝つ姿を見て、同じ水面にいるとは思えなかった。

その月城でさえ、女帝とは別に語られる。

月城澪の先に、天堂朱里がいる。

灯は、ノートに書いた。

天堂朱里。

女帝。

相手に選ばせない。

その文字を見た瞬間、息が少し詰まった。

相手に選ばせない。

それは、どんな水面なのだろう。

灯はいつも、選べなかった。

見えたのに、迷った。

迷っている間に、水面が閉じた。

選べなかった負け。

それが、自分の負け方の一つだった。

けれど、天堂朱里は、相手に選ばせないという。

選ぶ前に、選択肢を消す。

灯にはまだ、その意味が分からない。

分からないのに、怖かった。

「遠いでしょ」

まどかが言った。

灯は、ゆっくり頷いた。

「はい。遠すぎます」

黒羽宗一郎。

天堂朱里。

艇王。

女帝。

その名前は、今の灯から見れば、ほとんど空の上のようだった。

轟朱音が遠い。

月城澪が遠い。

三島沙耶も遠い。

そのさらに上に、艇王と女帝がいる。

プロの水面には、まだ見えない高さがある。

灯は、ノートに書いた二つの名前を見つめた。

黒羽宗一郎。

天堂朱里。

まだ、見えない水面。

まどかは、その文字を見て少しだけ笑った。

「書くのはいいと思うよ」

灯は顔を上げた。

「いいんですか」

「うん。遠い名前でも、知っておくのは悪くない」

まどかは、モニターに目を向けたまま言った。

「ただ、今すぐそこを追いかけようとしないこと」

灯は黙った。

「艇王も女帝も、今の風見ちゃんがレースで見る相手じゃない」

その言葉は、はっきりしていた。

灯は、少しだけ胸が痛んだ。

分かっている。

自分はまだB2。

六着ばかり。

ようやく、一艇だけ前に置くことを考え始めたところ。

艇王や女帝を目標に書くことすら、身の程知らずに思える。

けれど、まどかは続けた。

「遠い名前を書いてもいい。でも、次のレースで見るのは一艇だけ」

灯は、顔を上げた。

まどかは灯のノートを指した。

「今の風見ちゃんがやることは変わらないよ」

「一艇だけ前へ……」

「そう」

まどかは頷いた。

「まず、六着を五着にする」

その言葉で、灯の意識が足元へ戻ってきた。

黒羽宗一郎。

天堂朱里。

艇王。

女帝。

遠すぎる名前。

まだ見えない水面。

けれど、次のレースで灯が見るべきものは、そこではない。

前を走る一艇。

自分の進路を作る艇。

自分の進路を消す艇。

迷った時に戻る二艇。

そこに戻らなければ、また六着のまま流れていく。

灯は、ノートに新しい線を引いた。

上に、遠い名前。

黒羽宗一郎。

天堂朱里。

まだ見えない水面。

その下に、少し間を空けて書く。

でも、今見るのは一艇。

まず、六着を五着にする。

書いた瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ落ち着いた。

遠いものを知ると、足元が消えそうになる。

でも、今やることまで消えるわけではない。

艇王の水面は、まだ見えない。

女帝の水面も、まだ見えない。

轟朱音の大外も、まだ真似できない。

月城澪の四カドも、まだ届かない。

三島沙耶の差しも、まだ遠い。

それでも、灯には今見るべき一艇がある。

その一艇を前に置けるかどうか。

そこからしか始まらない。

「日向さん」

「なに?」

「遠い名前を書いても、いいんですよね」

「いいよ」

まどかは軽く答えた。

「でも、遠い名前だけ見て足元見えなくなったら、私が止める」

灯は、少しだけ笑った。

「はい」

「よろしい」

まどかは、モニターを見ながら言った。

「それに、上を知るのは悪いことじゃないよ」

「そうなんですか」

「うん」

まどかの声が、少しだけ静かになった。

「自分がどれだけ遠いところにいるか分かるから」

灯は、言葉を返せなかった。

自分がどれだけ遠いところにいるか。

それは、怖いことだった。

でも、必要なことでもあった。

遠さを知らなければ、近づくこともできない。

ただし、遠さに飲まれたら、足元の一艇を見失う。

灯は、ノートを見た。

四つの六着。

自分で決めた六着。

轟朱音の大外。

艇王と女帝の名前。

その全部が、一冊のノートの中に並んでいる。

まとまりなんて、まだない。

遠すぎるものと、近すぎる課題が同じページにある。

それでも、今の灯には、それが自分の水面だった。

「風見ちゃん」

まどかが言った。

「はい」

「次のレース、見る二艇は?」

灯は一瞬、目を瞬かせた。

そして、答えた。

「まだ出走表を見て決めます」

まどかは少し笑った。

「うん。いい答え」

「決めつけない方がいいって、言われたので」

「三島さんに?」

「はい」

まどかは、少しだけ肩をすくめた。

「やっぱり厳しそう」

「厳しいです」

灯は素直に答えた。

「でも、必要なことを言ってくれます」

「ならいい師匠だね」

灯は、少し迷ってから頷いた。

「はい」

三島はここにいない。

けれど、言葉は残っている。

月城の水面も、轟の大外も、日向の助言も、艇王と女帝の噂も、全部ノートに残る。

それをどう使うかは、自分次第だった。

控室の窓の外で、水面が揺れていた。

次のレースの準備が進んでいる。

選手たちはまた、それぞれの水面へ向かう。

誰かは勝ちに行く。

誰かは着を拾いに行く。

誰かは外を選ぶ。

誰かは内を守る。

そして灯は、まだ一艇だけ前を見る。

頂点の名前は、あまりにも遠い。

遠すぎて、今は形すら見えない。

けれど、その名前を知ったあとでも、灯の次の目標は変わらなかった。

一艇だけ前へ。

六着を、五着へ。

その小さな一歩が、今の風見灯にとっての水面だった。

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