第75話:一ノ瀬直也
――保奈美の口づけを、オレは許してしまっていた。
必死に胸の奥に封じ込めてきたオレの中の感情を、あっけなくあぶり出そうとするように。
その一瞬の保奈美の一途さに、心臓が乱れてしまった。
オレには、失うわけにはいかないものがある。
亜紀も、玲奈も、麻里も、GAIALINQにおけるかけがえのない存在だ。
そして――莉子も。
莉子の芯がどれだけ激しいものか、オレはずっと知っていた。
家庭的で穏やかな外見の裏に、彼女は燃えるような強さを抱えていた。
それはもちろん音楽に対してであったが、同時にオレに対してでもあったのだ。
だが、その気持ちが自分に向けられていたことに気づけず、池袋のイベントホールで初めて、彼女に吐露させてしまった。
そして今。
義妹であるはずだった保奈美が――もう「女性」として、オレに明確に気持ちをぶつけてきた。
オレは自分自身に対して問いかけざるを得なかった。
保奈美を、これから先に失うような未来を、想定できるのか?
――できない。オレはそんな未来に耐えられる自信がない。
その事実に気づいた瞬間、愕然とした。
血の繋がらない義妹。
だが、オレの中で彼女はすでに「失いたくない存在」に変わっていたのだ。
しかし仮に愛する女性として彼女を思うのなら、絶対に一時の感情に負けてはならない。もし本当に愛するならば、まず何と言っても、彼女が独りの女性として自立できる日まで慈しみ育てるべきなのだ。
今ここでは、何よりもまず自分を制御しなければならない。
たとえ胸が張り裂けそうでも、理性を捨ててはいけない。
頭を冷やせ。
立て直せ。
オレはオレであるために――。
深く息を吐き、思考を落ち着かせようと必死に考え込んだ。
翌朝。土曜日。
仕事も学校もない静かな朝なのに、オレの胸の奥は落ち着かなかった。
リビングに腰を下ろしながら、どう保奈美と向き合うべきか逡巡していた。
もし、彼女が恥ずかしそうに起きてきて、昨夜のことを無かったことにしようとするなら――またいつもの義兄妹に戻れるかもしれない。
そんな期待と逃げ道を、心のどこかで探していた。
だが。
階段を降りてきた保奈美は、すでに違っていた。
髪も整え、きれいにメイクを施した顔。
大人びたその容貌で、堂々と「おはようございます!直也さん」と挨拶してきたのだ。
オレは思わず言葉を失った。
「昨日はいきなりキスなんかして……ごめんなさい」
保奈美はそう切り出した。
けれどすぐに、真っ直ぐな目で続けた。
「でも……昨日、最後に言ったことは全部本当のことだよ。
だから直也さんも、“義兄妹”をもう逃げ場にしないで」
その一言に、胸が強く打たれた。
もう、頷くしかなかった。
少し考え、オレも言葉を選んだ。
「……オレも、一晩考えたんだよ。
そして……保奈美を失うような未来は考えられないと思ったんだ」
――その瞬間。
保奈美の顔に輝くような笑顔が広がり、オレの胸に保奈美は飛び込んできた。
「本当?……嬉しい!」
そしてオレの顔を見つめながら
「大丈夫だよ。私はどこにも行かない。……サンタローザでも言ったけど、ずっと直也さんのそばにいる。直也さんだけを見ている。他の男の人なんて目に入らない」
胸が熱くなった。
だが同時に、オレの理性が口を開かせた。
「でもね……まだ保奈美は、社会的には大人じゃないんだ。
オレは大人として、まだ保奈美を育てる立場にある。
だから――せめてその責任はきちんと果たさせてくれ」
保奈美は静かに頷いた。
「……ハイ」
そして、ふっと笑みを浮かべて言った。
「まるで源氏物語みたいだね。……でも、それなら……ちゃんと直也さんにふさわしい女性になれるように、私を育ててね」
オレは苦笑するしかなかった。
窓の外にはやわらかな陽が差し込み、土曜の空気は驚くほど穏やかだった。




