第64話:一ノ瀬直也
保奈美をどうしても放っておけなかった。
会議室を出たあと、会社に戻る前に、自宅へ急ぎ足で向かった。
リビングに入ると、灯りの下で保奈美がひとり、声を殺して泣いていた。
小さな背中が震えていて、胸が締めつけられる。
「……義妹ちゃん」
呼びかけても、顔をあげなかった。
仕方なく、ためらいながら名前を呼ぶ。
「……保奈美」
その瞬間、彼女の肩がぴくりと動いた。
やっと顔を上げて、涙で濡れた目をこちらに向けてくれた。
俺は正面から向き合った。
「莉子は、大切な幼馴染だ。
YouTuberとしてアーティストを目指している彼女を、俺は手助けしてきた。
そして莉子が見つけたボイストレーナーに、俺も教えを請うたんだ」
言葉を重ねるうちに、あの頃の記憶が蘇る。
「もともとオレが所属していたボランティアサークルで……小児病棟の子どもたちへの慰問活動をやっていたんだよ。病院のホールを借りてミニカラオケライブを開くとき、できるだけ“本当の歌”を届けたかった。
それを助けてくれたのが、莉子だったんだ」
保奈美は唇を噛みしめ、かすれた声で言った。
「でも……莉子さんは、直也さんを取っていった。……私から直也さんを勝手に取っていったんだよ」
俺は首を振った。
「オレは何も変わっていない。誰かに取られたりしていない」
自分の言葉がどこまで届くのか分からなかった。
「オレ自身も、これからどうするべきか……答えなんか持ってないよ」
沈黙ののち、はっきりと伝えた。
「でも、保奈美がいる限り、オレは保奈美を――独り立ちできる大人になるまで、素敵な大人の女性になれるように育てなければならない。それはオレの絶対の義務なんだ。その上で、自分の仕事を通じて世界を少しでもより良くすること。それが、本当に、オレにとっての全部なんだ」
その瞬間、保奈美が泣きながら飛び込んできた。
小さな肩を強く抱きしめ返す。
「……じゃあ」
涙声のまま、保奈美が問いかけてきた。
「もし私が大人になって……本当に素敵な女性になっていたら。その時は……一人の女性として見てくれる?」
言葉を失った。
だが、正直に答えるしかない。
「血が繋がっていなくても……今、保奈美はオレにとって大切な“義妹”なんだ」
保奈美は俺にしがみついたまま、首を横に振っていた。
「そうじゃない……そんな事、言って欲しいんじゃない……」
涙で濡れた声が、胸元に沈み込む。
俺はしばらく考え込んでから、言葉を選んだ。
「……オレの母親と、それから透子さんから残された言葉は、ずっと今でもオレにとって大切な指針なんだよ。
でもそれと同時に……ものすごい重圧が常にオレを押しつぶしてくる」
胸の奥にある、誰にも言えなかった思いを吐き出すように。
「けれど……サンタローザの丘で、あの透子さんからのメッセージカードで、その重さが更にオレを打ちのめそうとした時に、保奈美が抱きしめてくれた……
あの時、オレはその重圧からはじめて少しだけ救われた気がしたんだ。
そんな保奈美のことを、オレは絶対にいい加減に扱えない。
これはもう、オレ自身の問題なんだ」
保奈美は黙ったまま、俺を抱きしめていた。
その小さな手に込められた力が、胸に直接届く。
やがて、かすかな声が返ってきた。
「……なんか、ズルいなぁ。いつもそうやって誤魔化されてる気がする」
拗ねたような、泣き笑いの声だった。
それでも、続けて言った。
「じゃあ……私は直也さんのために、素敵な大人の女性になれるように頑張るね。
だから、ずっと保奈美を見ていて欲しい。
……あと、もう“保奈美”って呼んで欲しい。
そう約束してくれるなら、今回は許してあげる」
胸の奥が熱くなった。
逃げ場はなかった。
「……分かったよ。保奈美」
名前を呼んだ瞬間、保奈美の肩が小さく震えた。
涙に濡れた顔が少しだけ笑みを見せたのを、俺は恐らくこの先一生忘れられないだろう。




