第62話:一ノ瀬保奈美
――直也さんを取られた。
頭の中に、その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
直也さんは私の義兄。
それは変わらない。どんなに状況が変わっても、戸籍の上でも現実の暮らしの上でも、彼は私の「お義兄さん」だ。
でも、そうじゃなかった。
今、私の目の前で抱き合っている二人を見てしまった瞬間、もう義兄妹なんて関係は何の意味も持たなくなった。
莉子さんの瞳が、あまりにもまっすぐで。
「愛してる。もうずっと愛していたの」
その言葉がまだ耳に残っていて、消えない。
私だって――ずっと直也さんを想ってきた。
でも、その気持ちは言葉にしたら壊れてしまうと思って、胸の奥にしまってきた。
「義妹」だからこそ、越えてはいけない一線があると、自分に言い聞かせてきた。
なのに、莉子さんは……あっさりとその一線を越えてしまった。
しかも、直也さんに真っ正面からぶつけて。
その勇気と強さに、私は敵わなかった。
心臓が苦しい。
体の中を冷たいものと熱いものが交互に駆け抜ける。
立っていられないほど、痛い。
――義兄であることは変わらない。
それでも「取られた」と思ってしまう、この惨めな気持ちは、どうしたって消えてくれなかった。
麻里さんに直也さんがキスされたときよりも――ずっと大きな衝撃だった。
莉子さんと直也さん。二人がステージで放った熱は、私の心を粉々にした。
ライブが終わり、私たちはさっきも使ったレンタル会議室に戻ってきた。
直也さんと莉子さんがコスチュームを脱ぎ、着替えを済ませる。
でも……もう莉子さんは直也さんの腕を離そうとしなかった。
「……直也さんを離して」
涙で声がかすれていた。
私は必死に訴えた。
けれど莉子さんは、しっかりと首を振った。
「直也さんを取らないで」
もう一度、お願いした。祈るような気持ちで。
その瞬間、莉子さんがはっきりと返してきた。
「直也くんを私から取ったのは、保奈美ちゃんの方だよ。
でも……やっと直也くんは私を向いてくれた。私にチャンスをくれたの。
だからもう、この手は離さない。保奈美ちゃんからの頼みでも――無理だよ」
毅然とした声だった。
強さと覚悟に満ちていて、私には抗えなかった。
「……イヤだ。こんなのイヤだよ」
今度は直也さんに縋りついた。涙で視界が滲む。
直也さんは、困ったような優しい声で言った。
「義妹ちゃんは、義妹ちゃんのままだよ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
――違う。そんなことを聞きたいんじゃない。
そうじゃない。
「そうじゃない……! そんな事言ってるんじゃない……!」
涙が止まらず、声も震えていた。
でも直也さんは、二人に向けて静かに促した。
「落ち着け。……二人に仲良くして欲しい」
無理だった。
そんなの、できるはずがない。
私は首を振った。
「……先に帰る」
泣きながらそう告げて、会議室を飛び出した。
涙で前がよく見えなかった。
胸が張り裂けそうで、ただ逃げることしかできなかった。




