第26話:一ノ瀬直也
――いよいよ、本番の撮影だ。
スタジオの空気は、いつもと違って張り詰めていた。
古い木材が吸い込んだ湿気の匂い、機材のオイルの匂い、そしてほんのり漂う汗の匂い――どれもいつものはずなのに、今日は妙に濃く感じる。
「……大丈夫だよ、二人とも」
オレ自身のボイトレ師匠であり、このスタジオのオーナーでもある先生が、低い声で励ましてくれる。
その視線は厳しいけれど、どこか優しさも混じっていた。
照明が点り、カメラが三脚の上で赤いランプを灯す。
いつもと同じはずのマイクが、今日は別物に見えた。
莉子がゆっくりと立ち位置についた。
黒いフードパーカーに、黒いダボっとしたパンツ。黒いキャップ。
そして――喉元で淡く光るブルーダイヤモンドのチョーカー。
それを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……莉子」
思わず声が漏れた。
彼女が不思議そうにこちらを見たので、オレは素直に言った。
「ありがとう。それ、つけてくれて」
一瞬だけ、莉子の瞳が揺れた。
少し潤んで、それでも精一杯に強がるように口を尖らせる。
「……ありがとうは、こっちのセリフだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
――やっぱり彼女は、強い。
「はい、それじゃあ――撮影、スタートします!」
スタッフの声が響いた。
イントロの静かなピアノが流れる。
米津玄師の「打上花火」。
夏の夜空に昇る花火のように、胸の奥からせり上がる歌だ。
最初のフレーズは莉子。
彼女の声がマイクを通して響いた瞬間、鳥肌が立った。
透明で、どこまでも伸びる。
サイバーグラス越しの彼女の横顔は、まるで本当に“アーティスト”だった。
次はオレのパート。
喉に力を込め、師匠から教えられた呼吸を意識して歌い出す。
最初は少し硬かった。けれど――隣で莉子がリズムを刻む指先を見た瞬間、不思議と声が伸びていった。
二人の声が重なる。
サビに入った瞬間、スタジオの空気が変わった。
カメラのレンズの奥で光る赤いランプが、まるで夏の夜空の星のように瞬いて見える。
「……パッと花火が……夜に咲いた……」
言葉が音になり、音が想いになって広がっていく。
横で歌う莉子のブルーダイヤモンドが揺れるたびに、その光がオレの声を後押ししてくれるようだった。
最後のフレーズを歌い終えた瞬間、静寂が訪れた。
心臓の鼓動だけが耳に響く。
「……よし」
師匠の低い声。
「二人とも、今のは悪くない。いや、むしろ――素晴らしいよ!」
オレは大きく息を吐き、隣を見た。
莉子はキャップの影で笑っていた。ほんの少し、目元が濡れているのが分かる。
「……直也くん」
小さく囁く声が、胸に響いた。
その一言で、今日までの全ての練習の意味が報われた気がした。
――オレたちの歌は、確かにここにあった。
オレはNAOYAとして莉子のチャンネルに表示される事になった。
撮影が終わったあと、スタッフがすぐに再生準備を整えてくれた。
モニターにカウントダウンが表示され、録画データが流れ出す。
そこに映っていたのは――“アーティストモード”のNAOYAと莉子だった。
黒いパーカー、キャップ、そして揺れるブルーダイヤモンドのチョーカー。
照明を浴びながら、真剣に歌う莉子の横顔。
……そして、その隣でマイクを握る自分。
「……なんか、不思議だな」
思わず呟く。
「自分を外から見てるみたいで。しかも、こんな風に映るんだな」
莉子が笑った。
「うん、直也くん。思ったより、ちゃんとアーティストに見える」
「“思ったより”って何だよ」
苦笑しながら突っ込むと、彼女は肩をすくめて続けた。
「だって普段は“世界的プロジェクトの執行責任者”でしょ? それがこんな風にパーカー着て歌ってるなんて、ギャップすごすぎて」
モニターの中で、二人の声がサビで重なった。
スタジオに響いたあの瞬間が、映像として蘇る。
背筋がゾクッとした。
「……悪くないね」
思わず口にすると、隣で莉子が口を尖らせる。
「悪くない、じゃなくて。すっごくいいの!」
画面に映る自分を見ながら、オレは素直に頷いた。
「まぁ、確かに……これなら、世に出しても恥ずかしくないかもな」
莉子の瞳が潤んで、笑顔がこぼれる。
「うん……ありがとう、直也くん。本当に」
その声に、胸がじんわり熱くなった。
画面の中で揺れる青いチョーカーの輝きが、今もオレの胸に焼き付いて離れない。
――オレたちの“打上花火”は、確かに形になった。
そう確信できる映像だった。




