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第25話:谷川莉子

――スタジオの夜は、いつも独特の匂いがする。

汗と機材のオイルの匂い、そして古い木材の吸い込んだ湿気。

私のボイトレの師匠のスタジオは、ずっとそんな匂いのする場所だった。


でも最近は、そこにもう一つの空気が混じっている。

直也くんが、夜ごとここに通ってきているからだ。


「じゃあ、今日も back number の “水平線” からやってみましょうか」

師匠の声に頷いて、直也くんがマイクの前に立つ。

スーツ姿の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくっただけなのに、妙に様になっていて、ちょっとドキッとする。


「……ああ、これ、息の配分が難しいんだよなぁ」

歌い終わった直也くんが、苦笑混じりに呟く。

師匠がすかさず指摘を入れる。

「後半に息を残す意識を持って。焦らず、余白を作って」


続いてはミセスの “ライラック”。

明るく跳ねるリズムに乗せて歌う直也くんは、少しぎこちない。

「最近の歌は忙しないなぁ」

確かに、転調やリズムの切り替えが激しい。

「歌ってる本人が照れてどうするの!」

思わず笑って突っ込むと、直也くんも照れ笑いを返してきた。


C&K の “ハートビート” では、リズムの取り方に四苦八苦。

私は隣で手を叩き、テンポを示しながらサポートする。

「もっと軽く、肩の力抜いて!」

「……あぁ、わかった」

少しずつノッてくる直也くんを見て、なんだか嬉しくなった。


――そして。


「直也くん、“打上花火” もやってみてほしいな」

「……前にテレビで流れていたな」

「うん。私のチャンネルで、特別企画で出したいの。もちろん、会社の規定をクリアした上で」


一瞬考えた直也くんは、やがて頷いた。

「……分かった。一応会社側に条件を確認して問題なければ、協力するよ」


胸の奥が熱くなった。

私の音楽を信じてくれる。それがどれだけ嬉しいことか。


――けれど、複雑な気持ちもあった。

「保奈美ちゃんのために、ここまでやるんだな……」

そう心の中で呟く。


仕事で疲れているはずなのに、夜な夜な歌の練習を続ける。

カラオケパーティで恥をかかせないように――ただそのために。

正直、少し妬ましい。

でも、それが直也くんという人なのだ。大事な人のためなら、どんな無茶でもやってしまう人。


※※※


休憩の合間、私は思わず愚痴をこぼしてしまった。

「直也くん……最近の曲って、なんか薄っぺらく感じない?」


「薄っぺらい?」

直也くんが水を飲みながら首を傾げる。


「うん。コード進行って、もう2000年くらいで出尽くしたって言われてるでしょ。だから新しい曲を聴いても『あれ?どっかで聴いたことあるな』って感じがするし。録音も切り貼りが主流で、厚みがなくなった気がするんだよね」


直也くんは少し笑った。

「なるほどな。でも作る側も大変だと思うよ。完全なオリジナルのメロディーなんて、もう残ってない。だからこそ、歌い方や声質、サウンドの癖で勝負するしかないんだ」


私は唇を尖らせる。

「でも、歌詞まで説明しすぎじゃない?“最近の曲は説明しすぎる”って言う人もいる。ほんとその通り。昔の曲って行間を読ませてくれたでしょ。意味が分からないって人もいたけど、聴く人が自分の思い出を重ねて泣いたり笑ったりできた。今は限定的で、“自分の曲”にはなりにくい」


直也くんは腕を組んで考え込む。

「……行間を残すって、ビジネスでも一緒かもしれないな。余白があるから人が入り込める。説明しすぎると、それ以上広がらない」


その言葉に、思わず笑みがこぼれた。

「さすが直也くん。やっぱりそういうとこ、本当に仕事人間だなぁ」


照れ隠しみたいにそう言ってから、私は深呼吸をした。

「じゃあ次は、私がコーラスで合わせるね」

「助かるよ」

直也くんがそう笑うと、胸がちくりと痛んだ。


それでも――私は全力で手伝う。

妬ましくても、苦しくても。


――だって、私は彼を愛しているから。


※※※


――その日、直也くんはスタジオに来るなり、少し安堵した顔で鞄を下ろした。

いつもの疲れがにじむ表情じゃない。どこか、肩の力が抜けているように見えた。


「……どうしたの?」

私はケーブルをまとめながら、首を傾げた。


「人事と広報に確認したんだ。――莉子のチャンネルに出る件」

直也くんは、少し照れたように笑った。

「無報酬だし、会社名を出さなければ問題なし。勤務時間外にやるなら“私的活動の範囲”として承認済みだって」


「……本当に?」

思わず声が裏返る。


「うん。正式にOK取った。だから安心していい」

彼はいつもと同じ落ち着いた声で言った。

大きな企業の、たくさんの目がある中で、それでもきちんと筋を通してくれる――そういう人だから、やっぱり信頼できる。胸の奥がじんわり熱くなった。


「……そっか。よかった」

私は頷いて、用意していた袋を差し出した。

「じゃあね、直也くん。今日はこれ、着てもらうから。これはプレゼント」


「ん?」

袋を開けた直也くんが、目を丸くする。

中には、大きめの黒いパーカーと、同じく黒いダボっとしたパンツ。そして黒いキャップ。


「……ペアルック?色違いだけど」

少し戸惑いながらも、口元に笑みを浮かべている。


「そういうつもりじゃないけど……まぁ、似たような感じかな」

私はサイバーグラスを持ち上げながら答えた。

「普段の直也くんのままだと、絶対“会社の人”に見えちゃうから。チャンネル用に“アーティストモード”に変身してもらわないと」


「なるほど……確かにそのままだと浮くかもな」

そう言って、直也くんは素直に上着を脱ぎ、パーカーに着替えていく。


――その姿を見た瞬間、胸が少し高鳴った。

スーツ姿の“執行責任者”じゃない。

黒のパーカーにキャップを被った、少し不器用そうな“歌う直也くん”。


「……どう?」

帽子のつばを直しながら、照れくさそうに尋ねてくる。


「……悪くない。というか、案外似合ってる」

私は思わず笑ってしまった。

本当は、ちょっとカッコよすぎて悔しいくらい。


「よし、じゃあ練習始めようか」

直也くんがマイクを手に取る。


私は隣でパソコンを立ち上げながら、心の中で小さく呟いた。

――結局、この人はなんだって本気でやってしまうんだ。

その真っ直ぐさが、妬ましくて、でもやっぱり誇らしい。


だから私も全力で支える。

黒いパーカーを着た“アーティストモードの直也くん”を、誰よりもかっこよく見せるために。


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